土肥 義弘(どい よしひろ、1976年9月1日 - )は、埼玉県鳩ヶ谷市(現・川口市)出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。2015年より埼玉西武ライオンズの一軍投手コーチ。東京ヤクルトスワローズの土肥寛昌とは、再従弟にあたる。、第75回全国高等学校野球選手権大会に出場し準優勝を果たす。高校卒業後は社会人野球のプリンスホテルに入社。1997年度ドラフト会議にて西武ライオンズから4位指名を受けて入団。背番号は35。ルーキーイヤーのは1試合のみの登板だった。からは、主に対左打者のワンポイントとして一軍に定着、先発、リリーフとも左投手不足だった当時の西武では貴重な存在でタフィ・ローズ(当時大阪近鉄バファローズに在籍)キラーとして名を挙げた。、先発転向を希望したが西武ではあくまでも中継ぎ要員としての評価で、一軍出場のないままシーズン途中に田崎昌弘・東和政との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。同年7月7日の対巨人戦で、タフィ・ローズを併殺打に打ち取り1球勝利で移籍後初勝利をあげた。その後左の先発投手が不足していたチーム事情から先発に転向し、この年は5勝を挙げる。には先発投手として初めて1年間投げ抜き規定投球回数をクリア、初の二桁勝利となる10勝を挙げた。特に巨人戦は7勝1敗の成績を挙げ交流戦でも古巣西武から2勝0敗の成績だった、一方残りの球団からは1勝10敗と極端な成績に終わり被本塁打もリーグトップの30本を記録。尚、得意の巨人戦で初黒星を喫した8月24日には巨人の4番小久保裕紀に3打席連続本塁打を打たれた。は4月1日の開幕第2戦の巨人戦に登板。小久保のソロ本塁打の1失点に抑え、勝利投手となり2006年チーム初勝利をもたらした。しかし、5月6日の阪神タイガース戦で金本知憲の打球を手に受けて登録抹消となり、その後首も痛めたこともあって3勝7敗防御率6.02の成績で終わった。は開幕5連勝と好調だったが、その後は故障の影響で白星が伸びなかった。最終成績は7勝8敗防御率4.47だった。は開幕当初は好投も見せていたが、打線の援護なく白星に恵まれないとその後は打ち込まれる試合が続き、開幕から4連敗で5月2日に二軍落ち。6月に中継ぎとして一軍復帰したが、3試合で6失点と結果を残せず再び二軍落ち、その後は一軍登板機会がなく、8試合で0勝4敗防御率7.48と不本意な成績で終わった。この年に国内FA権を取得したが、10月1日に球団から戦力外通告を受ける。12月7日に埼玉西武ライオンズが獲得を発表し、5年ぶりに復帰することになった。4月28日に一軍昇格したが、不調で5月18日に二軍落ち。シーズン終盤の9月27日に再昇格を果たした。しかし、最終成績は12試合の登板に終わった。前年取得した国内FA権は行使せずに残留。翌は一軍でスタートするものの、開幕3試合目に救援で打ち込まれ、最も酷い時には防御率が30点台後半にまで悪化した。しかし7月後半以降は持ち直し、同28日以降の20試合で防御率1.42と好成績で、星野智樹が不調で抜けた投手陣にあってほぼ唯一の左腕リリーフとして活躍した。ロッテとのクライマックスシリーズでは、第1戦の延長11回に福浦和也に決勝ソロ本塁打を打たれ、敗戦投手となった。翌日もチームは敗れ、CS敗退となった。10月25日、同年に取得した海外FA権を行使し、MLB挑戦を表明。球団も本人の希望を尊重し、慰留しなかった。11月28日(日本時間11月29日)、12月1日(日本時間12月2日)にカリフォルニア州にて行われた合同トライアウトに参加した。6月、アメリカの独立リーグであるアトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズと契約合意したが、就労ビザを取得できなかったため、公式戦登板はなかった。1月、ボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ。しかし、3月31日に高年齢を理由に解雇。同年6月15日にノース・アメリカン・リーグのマウイ・イカイカと投手兼コーチとして契約した。同年10月9日、現役引退を表明し、今後は指導者としての道を目指す意向を明らかにした。からは文化放送・テレ朝チャンネルの野球解説者として活動。また『TVSライオンズアワー』(テレビ埼玉)ではリポーターを務める。6月15日にカリフォルニア州サンディエゴに本拠地をおくサマーリーグ球団「サムライ サンディエゴ」の投手コーチとして入団することが発表された。、10月11日に西武の一軍投手コーチへの就任が発表された。
出典:wikipedia
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