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大韓航空機爆破事件

大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月29日に大韓航空の旅客機が、偽造パスポートを使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。858便はアブダビを協定世界時日曜日の午前0時01分に離陸、インドを横断し、ボンベイ(現:ムンバイ)から始まるアンダマン海上の航空路R468を飛行して、ビルマ(現:ミャンマー)の航空管制空域に、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(協定世界時:午前4時31分)に到達した。インドとビルマの境界である"TOLIS"ポイントからラングーン(現:ヤンゴン)の航空管制官に対し「現在37000フィート(およそ10700m)を飛行中。次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが858便の最後の通信となった。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコクに到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で午前11時22分に機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解した。パイロットは緊急信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死したと見られる。乗客・乗員115人全員が行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。大韓航空機の捜索にはビルマとタイの両政府当局が当たった。タイの捜索隊は「ビルマとタイの国境付近のジャングルに墜落した」として捜索していたが、実際には海上に墜落していた。衛星の測位システムや当時の東南アジア近辺の航空レーダー網の整備が貧弱であったことで迅速に事故発生地点を把握することが出来ず、墜落地点と推定されたビルマ側は反政府勢力カレン族が支配する紛争地帯で政府の捜索は不可能、またカレン族が国境を侵犯し武装闘争を繰り広げていたため捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。このため機体が確認されていないにもかかわらず爆破と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因にもなった。12月10日になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が海上や海岸の漂着物などで次々発見されると洋上の遭難が確実視された。しかし改めて推定された遭難地点も上記のビルマ紛争地帯沿岸に近く捜索は限定的なものに留まり、長期間に渡るなか漂着や漁船により858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部がそれぞれ偶発的に回収され、これらはボーイング707であると確認できる構造原形をとどめたものは数多く機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったがブラックボックスは発見できず、事件から3年後の1990年3月10日に海底から回収した胴体上部外板一部に大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていたソウルオリンピックのロゴが記されたHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定された。また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、空中で何らかの爆発があったことを裏付けていた。当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2か月前の9月2日にはソウルの金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には航空機テロであったことが後に判明することになる。一方で、ソウルのKBSテレビによれば事件発生後に大韓航空幹部が「ハイジャックされた可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで風船が破裂したように空中分解した例が多数ある。事件直前、バグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に不審な男女各1名がいた。この2名は日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンにガルフ航空機で移動し、同国のマナーマのホテルに宿泊していた。韓国当局もこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触した。事件直前の1987年11月21日に、東京で警察に偽造旅券を所持していたため逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作をするためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため韓国当局は早い時点で2人をマークしていた。また日本国政府当局は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていた。これは、日本人であればまずあり得ないことだと思われた。女の旅券番号を日本国外務省に照会したところ、徳島市在住の実在する男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した。2名はバーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていたため、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺した。現場にいた日本人外交官であった砂川昌順による『極秘指令~金賢姫拘束の真相 』(NHK出版)によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを、警察官からひったくって自殺を図ったが、バーレーンの警察官のハッサンが飛びかかり、直ちに吐き出させ、完全に噛み砕けなかったために、青酸ガスで気を失って倒れた。男は死亡したが、同伴の女は一命を取りとめ、3日後に意識を取り戻した。自殺した男が所持していた、パスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であったが、彼のパスポートは東京にあった。彼は「宮本 明(みやもと あきら)」を名乗る男に、全額費用もちでフィリピンのマニラとタイのバンコクに1983年(昭和58年)秋に旅行したが、その翌年に「宮本」に、パスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。しかも「宮本」は警視庁が北朝鮮工作員を摘発した西新井事件に関係していた、北朝鮮側工作員の李京雨であることが判明し、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年も前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに賞味期限も過ぎていたため、「宮本」が逮捕前に作った「小道具」の可能性が高い。当初、偽造パスポートが日本人名義であり、日本国政府もバーレーン当局に捜査協力を求めていたがパスポート偽造は日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」には該当するが、韓国側の大韓航空機爆破容疑という重大な大量殺人テロと比較して、身柄引き渡しを受ける強い法的根拠がないと判断したとされ、身柄引き渡し請求権を放棄した。この判断は、当時の内閣安全保障室長である佐々淳行によれば、韓国への引渡しは在バーレーンの日本大使館員の判断ではなく、佐々の意見具申に基づいた「総理大臣官邸判断」であるとのこと。なおモントリオール条約では、航空機上で発生した事件の裁判権は、旗国主義により航空機が登録されていた国にある。バーレーン警察による取り調べが行われた後、女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。その時彼女は自殺防止用のマスクを被せられていた。ソウルの国家安全企画部で尋問が行なわれたが、女は当初日本人になりすまし、ついで中華人民共和国の黒竜江省出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。しかし、取調官からの連日の事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、北朝鮮ブランドの「チンダルレ(ツツジの意)」と答えて捜査員にも笑われる事態となり、また捜査員に夜のソウル特別市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる繁栄ぶりに驚愕し、ついに北朝鮮工作員の金賢姫であることを認め、航空機爆破の犯行を自供した。なお金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7Aと7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバッグの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為に及んだもので、父娘であると偽りテロ実行のために旅行していた。韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都モスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時社会主義国家だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビアのベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる。11月28日にベオグラードからバグダッドへイラク航空226便で移動し、その日のうちにバグダッドで大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った液体爆弾(「PLX」と推測される)と、豆腐大の「コンポジション4」というプラスチック爆弾と時限爆破装置を仕込んだ日本製トランジスターラジオ(パナソニック製AM/FMラジオRF-082型を改造したもので、実際にラジオとして動作する)であった(トランジスターラジオの時限爆破装置は電池がなければ作動できない構造)。ベオグラードでイラク航空に搭乗した際には、当時イラン・イラク戦争の最中でありイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議し、電池は返却されたという。しかし、「当時イラン・イラク戦争の最中であり、厳戒態勢が敷かれていたイラクの空港職員が、乗客の抗議によって規則を曲げるなどありえないことである」との意見を元に、この証言は金賢姫のねつ造との指摘がある。また、2人がアブダビで降機した後に、機内のハットラックに(手荷物に隠された)爆発物が残されていたのを客室乗務員が発見出来なかったことを疑問視する者もおり、「忘れ物の確認作業を怠った可能性がある」とも言われているが、この便のように複数の経由地を経由し、各経由地で乗客が乗降しつつ最終目的地に向かう便の場合は、経由地で機内に手荷物を残したままトランジットエリアに行く乗客も多いので、経由地でハットラックなどに手荷物が残っていてもそれが忘れものであるとは認識しない可能性が高い。また忘れ物として手荷物を発見してはいても、それが爆発物であることには気付いていなかった可能性もあるが、いずれにしてもこの事故で客室乗務員も全員が殉職しているため真相は不明である。なお、後述の2010年(平成22年)放映の『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』によれば、大韓航空機でアブダビに到着した乗客は一旦全員機外に出されている。この時2人はローマまでの航空券を所持しており、脱出用にアブダビから直接ローマに向う航空券と撹乱用にバーレーンに向ったと見せかけるための実際に使用した航空券も持っていた。2人は二つの航空券を使用することで「足がつかないように」するつもりであった。しかしアブダビのトランジットエリアで航空券のチェックが行われた。このチェックは事前に北朝鮮当局が知らなかったことであった。そのため撹乱用の航空券を使わざるを得なくなり、2人はやむなくバーレーンに向い、次のローマ行きの便まで滞在する破目になったという。そのためバーレーンで足止めされていなければ北朝鮮に逃亡していた可能性が高い。「金賢姫は外交官の父を持つ北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」としているが、該当する外交官は確認されていない。平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員としてスカウトされ、日本における謀略活動のための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオ(当時はポルトガル海外県)に何度も滞在していた。「李恩恵」( リ・ウネ)と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に、日本語教育や日本文化の教育を受け、「蜂谷真由美」という日本人名を使用し、日本人になりすましていた。現在も北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記金正日が執ったと言われている。その主な目的は、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年にソウルで行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであったと言われている。具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった(他にもオリンピックそのものを中止させるためともいわれているが、効果は疑問である)。これはオリンピックのエントリー締切が1988年1月17日であり、妨害するならこの時期が最後の機会であったためである。しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮パスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことからハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、オリンピック参加を曖昧にしていたソ連および中国は正式に参加表明、他の東欧諸国も追随し参加を表明した。結局参加しなかったのは北朝鮮ぐらいでもくろみは完全に失敗することになった。その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し有事の際の支援を要請したが、中ソ両国から反感を買った。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという。ソ連のタス通信は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道したが、北朝鮮の主張を全面的に擁護するものではなかった。以上のことから、北朝鮮は当初の目的とは異なり、事件に対して直接的な批判こそされなかったが、建前上は同盟国である他の社会主義国陣営からも顰蹙を買ったといえる。なお、ソ連は1990年に、中国は1992年に北朝鮮の激しい抗議を無視し、韓国との国交を樹立した。事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には無事ソウルオリンピックが開催された。またテロ事件は日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件に並んで北朝鮮による国家犯罪の典型として一般的に認識されている。北朝鮮が当初考えていた、東側同盟諸国の理解を得られるどころか逆に世界中から非難や信頼低下を招き、国際的に孤立することになった。北朝鮮は現在に至るまで事件の関与を否定しているため、事件の謝罪を行っていない。ただし日本では死亡した金勝一の偽造パスポート作成の過程で日本在住の北朝鮮工作員が関与した可能性が高いとされているほか、日本人拉致被害者の田口八重子に関する金賢姫の話を信憑性があるものと受け取られている。金日成の母方の従兄弟で、北朝鮮の姜成山前首相の娘婿である、亡命者の康明道の著書『北朝鮮の最高機密』によれば、事件後の1988年当時、平壌は金賢姫の話題で持ちきりであった。労働新聞は連日、韓国の国家安全企画部が金賢姫をでっちあげ、事件を捏造していると報道した。しかし、康明道は平壌外国語大学日本語科出身の張チョルホの話として、「金賢姫が平壌外国語大学日本語科に在籍していたが、調査部が連れて行った」と記している。また、北朝鮮の元工作員・安明進の著書『北朝鮮拉致工作員』によれば、北朝鮮当局は金賢姫が「北朝鮮の工作員ではない」と最後まで否定したが、金正日政治軍事大学では、金賢姫が対外情報調査部に所属する工作員であることを教官も生徒も誰もが知っていたとのことである。その後、北朝鮮での南北赤十字会談(1972年)のとき、張基栄に金賢姫が花束をささげたのは捏造で、本当は私がささげた、と主張する女性が平壌に現れ、朝鮮総聯を経由して録画ビデオがマスコミに配られる事件が起きた(もっともその映像で骨格などの照合により、名乗り出た女性こそ捏造であったことが即座に解明された)。この事件は、自殺に失敗はしたが青酸ガスのため3日間意識不明になるなど命をかけて任務を遂行した金賢姫に、北朝鮮が利用するだけ利用して容赦無く捨てたことを認識させ、完全に転向するきっかけとなった。安明進によれば、金正日は金賢姫が大韓航空機爆破には成功したものの自殺に失敗し、韓国に連行され北朝鮮の工作員であることや破壊工作の詳細を自白したことを知ると激怒した。まず、対外調査部長は解任され、前モスクワ駐在大使であった権熙京が降任になった。また、金正日が「いつでも女性が問題を起すのだ。女性工作員の数を大幅に削減しろ!」と命令し、女性工作員の訓練地区であった10号棟双鷹地区を完全に閉鎖した。一時期は北朝鮮のスパイ組織である3号庁舎で女性工作員をまったく採用しなくなった。さらに、大韓航空機爆破事件から3年後の1991年6月、金賢姫の手記『金賢姫全告白 いま、女として』が発行されるや、日本語版が北朝鮮に輸入された後朝鮮語に再翻訳され、教官や安明進を含む大学関係者が読んだとされる。金正日も同書を読み、金賢姫の転向は大学の教育が間違っているせいだ、と指摘した。金賢姫は「韓国は乞食と娼婦があふれていると教育されてきたが、実際の韓国の豊かさや自由を見て北朝鮮当局に騙されていたことを悟り転向した」と綴っている。その結果、金正日政治軍事大学では、韓国の実情を具体的に生徒に知らせる教育が始まった。一方で、安明進のように、北朝鮮の現状に疑問を持つ工作員を生むことになった。また金賢姫が死刑判決後特赦を受けたことも、亡命への希望を持たせることとなった。金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスターラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。しかし盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、4月12日に特赦した。また5月には内外の記者との会見が行われ、自己批判と北朝鮮の体制批判をした。この時に飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。その後、1997年に韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かったほか、自伝も出版した。なお金に対し日本では「元死刑囚」ないし「元工作員」という呼称がつけられて報道されている。1997年以降は公式の場から姿を消していたが、これは盧武鉉など革新政権が北朝鮮に融和的な政策を取っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘もある。2004年12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち個人情報関係を除く全てについて公開を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにとの当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している。2008年には金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して知人あての手紙を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関やマスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか非公開のはずの自宅にマスコミが押しかけるなど嫌がらせを受けたと主張している。2009年3月11日に釜山で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして、捏造であったことを認めるように迫られたと主張している。なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをしたという。事件当時、アンゴラ駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、強制収容所にいるという説があったが、2012年1月にアジアプレス・ネットワークが伝えるところでは、一家と親しかった脱北者の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に日本海側にある咸鏡北道・清津市に一家は強制移住させられ現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという。事件は北朝鮮工作員による犯行という韓国側の発表に対し、韓国側などによる陰謀ないし捏造であるとする説が唱えられている。一部ではあるが北朝鮮ないし朝鮮総連による当初の主張を受けて、日本社会党(現在の社会民主党)や日韓の一部マスコミなどが「本当に北朝鮮の工作員による犯行だったのか」として、「大統領選挙で与党候補を当選させるために韓国国家安全企画部(現・大韓民国国家情報院)が仕組んだ謀略ではないか」という「自作自演」であるとする陰謀論が主張されたこともある。日本社会党は長年に渡り北朝鮮の独裁支配政党の朝鮮労働党と友好関係にあったため(その上韓国政府を国家として公認していなかった)、北朝鮮当局の主張をそのまま受けて「北朝鮮は同事件に関与していない」として擁護していた。そのため、同党の井上一成国際局長が北朝鮮当局の事件への関与を認める発言を「問題発言」として撤回させる事態も発生した。この一連の北朝鮮擁護の姿勢に対し日本共産党は事件への北朝鮮の関与は明らかであるとして厳しく批判していた。そうしたなか、日本社会党の機関紙「社会新報」の1988年5月24日付けの紙面は「大韓航空機爆破事件は日韓米とバーレーンの関係国による国際的詐欺である」とすることを韓国の金貞烈前首相が認める「良心宣言」をしたとする報道をした。この記事については裏付け取材を全くしていない虚偽報道であったとして、記事の全面取消しと編集長の更迭が行われた。なお、この報道のニュースソースは韓国政府から「反国家組織」とされている「韓国民主回復統一促進国民会議」(韓民統)日本支部の機関紙「民族時報」1988年5月21日付けの紙面であったが、元々は北朝鮮国営通信社朝鮮中央通信が2月に配信した捏造によるプロパガンダニュースであり、日韓の報道機関も無視していた記事であった。だが、この社会新報の記事をタイプしたものを板門店で「こういう情報もある」と北朝鮮の記者が配っていた。そのため北朝鮮側も事件に関与していない事を主張する為に虚偽の情報を発信していたといえる。また日本人ジャーナリストの野田峯雄が1990年に発表した『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイたちの肖像』(JICC出版局(現:宝島社))によれば、バーレーンの病院で「担当医師」から「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常もみられなかった」との証言を得たとして、金賢姫は本当に北朝鮮の工作員なのかと疑問とした主張をした。また韓国の作家が2003年、事件は韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのかという疑問を呈した小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。これは、大きな事件が起きたときに見られる特徴的な陰謀論であり、2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件はアメリカ政府の自作自演であるとの主張と酷似している(詳細はアメリカ同時多発テロ事件陰謀説を参照)。2005年には韓国政府自身が捏造説の真偽を調査し、「政治的に利用されたのは事実であるが、事件自体は真実である」という調査結果を公表している。なお、前述のように1987年当時の韓国政府の自作自演による捏造説であるが、韓国の中央日報は政府から圧力を受けたとする金の主張が真実であれば、前政権の誰かがあおった疑いがあると主張している。なお、韓国では「北朝鮮寄りの理念を拡散させた」場合には、国家保安法によって処罰される可能性がある。RCサクセション『シークレット・エージェント・マン』は、当事件を題材にして歌った。1988年(昭和63年)発表のアルバム「COVERS」に収録。冒頭、金賢姫の記者会見の音声の一部が収録されている。韓国では申相玉監督により、『政治犯・金賢姫/真由美』という題で映画化され、1990年に公開された。日本では、2002年(平成14年)前後の北朝鮮による日本人拉致問題に対するマスコミ報道の過熱と、ほぼ同時期に日本テレビ系列でこの事件を『完全再現!真実の物語 金賢姫 大韓航空爆破事件~北朝鮮のシナリオ』のタイトルで、2時間のテレビドラマ化され、大きな反響を呼んだ。このドラマでは、金ら実行犯側から見た事件の流れを追ったものであった。2007年(平成19年)12月15日、フジテレビ系の土曜プレミアム特別企画として『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち 〜封印された3日間〜』という題でドラマ化された。原作は事件に関わった外交官の一人であった砂川昌順の『極秘指令 金賢姫拘束の真相』であり、バーレーンやアブダビに駐在した日本人外交官からの視点で描かれていたものである。2010年(平成22年)12月13日、TBS系の月曜ゴールデン特別企画『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』が放送された。当初11月29日に放送される予定であったが、北朝鮮による11月23日の延坪島砲撃事件および緊迫した朝鮮半島情勢を勘案し、放送を延期した。

出典:wikipedia

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