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烏山線

烏山線(からすやません)は、栃木県塩谷郡高根沢町の宝積寺駅と栃木県那須烏山市の烏山駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。沿線に「宝積寺(ほうしゃくじ)」「大金(おおがね)」という縁起の良いとされる名前の駅があり、駅が8駅、車両が8両であることから、七福神をキャラクターとして、宝積寺駅をのぞく各駅と7両の車両に各尊を割り当てて各駅の看板や車両のイラストマークなどを整備している。残りの車両1両には全尊が描かれている。2009年3月14日から、旅客営業規則の定める「東京近郊区間」に指定された。ただし、当線区内の7駅ではIC乗車カード「Suica」の利用対象外となっている。自動改札機設置駅は宇都宮線との接続駅である宝積寺駅を含めていない。全区間が東日本旅客鉄道大宮支社の管轄である。2015年3月14日改正ダイヤでは、途中駅発着の区間列車の設定はなく、毎日14往復ある全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を運行する。うち毎日9往復(下り列車は16時台発をのぞく宇都宮駅発朝7時台から19時台発の全列車、上り列車は15時台発をのぞく烏山駅発朝5時台始発から17時台発の全列車)が宇都宮線(東北本線)宇都宮駅を始発・終着とする直通列車となっている。2014年3月15日の改正から宇都宮駅直通列車2往復と線内運転1往復が蓄電池駆動電車(EV-E301系「ACCUM」)で、他は気動車で運転されている。また、臨時列車としてトロッコ車両「風っこ」を連結して運行する場合がある。大金駅 - 烏山駅間の閉塞の関係で、烏山駅では21時52分に上りの最終列車が出てから23時半過ぎに下りの最終列車が到着するまで1時間40分ほど列車が来ない。戦後の高度経済成長期以来、一部列車をのぞいて宇都宮駅を始発・終着として運行されてきたが、国鉄末期の1986年11月1日に線内折り返しを主とする1日18往復へ増便し、東北本線宇都宮駅 - 黒磯駅間の普通列車の増発に伴って宇都宮駅を始発・終着とする烏山線直通列車は下り2本にまで削減された。1996年3月16日には、利用客の流動状況に鑑み、宇都宮駅始発・終着列車の本数を朝夕の通勤・通学時間帯を中心に5往復まで戻している。2010年(平成22年)12月4日のダイヤ改正前の時点では、毎日18往復ある全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を走り、うち毎日5往復が宇都宮線(東北本線)宇都宮駅を始発・終着とする直通列車で、運転間隔は約1時間間隔、烏山線内では朝の一部をのぞく上下各16本の列車、宇都宮線区間では朝の上りと夕方の下りを除く下り4本、上り2本の列車でワンマン運転が実施されていた。同ダイヤ改正で毎日1日16往復運転となり、うち毎日10往復が宇都宮駅直通となった。国鉄時代には宇都宮駅 - 烏山駅間に快速列車が運転された時期もあったほか、早朝上り烏山発の1本は東北本線の宇都宮駅以南に直通し、小山駅で両毛線始発の快速「おおとね」に併結して上野駅まで運転していた。また、「おおとね」との併結を黒磯発の普通列車に譲った後も、石橋駅まで乗り入れて直ぐに折り返し烏山行きとなる運用が行われていた。昭和30年代後半、宇都宮駅 - 烏山駅間には快速列車が毎日1往復だけ運行されていた時期があった。すでに当線に客車列車の設定はなく、全列車が宇都宮運転所所属の気動車で運行されるようになってしばらく経ってからのことである。途中の停車駅は宝積寺駅・仁井田駅・大金駅で、上りは9時頃に烏山駅を出て宇都宮駅に9時40分頃到着、下りは17時過ぎに宇都宮駅を出て烏山駅に17時40分頃到着、というダイヤであった。当時の当線の運行本数は優等列車なしの12往復で、全列車が宇都宮駅 - 烏山駅間の運行であった。普通列車(11往復)の所要時間は50分程度で、快速列車(1往復)はそれより10分程度短かった。朝の上り列車は線内での上下列車の行き違いはなく、下り列車は大金駅での上り列車との待ち合わせがあったものの、上下列車ともに途中駅での追い越しは無かった。この快速列車は5年間程度運行されたが、その後廃止され、以後、当線に定期の速達列車が設定されたことはない。開業後しばらくの間は蒸気機関車による客貨混合列車で運行された。太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)、歯車式変速器のディーゼル気動車が一部便に投入され、その後1957年(昭和32年)に液体式の車両に置き換えられた。戦前はガソリンカー、戦中は3170形タンク式蒸気機関車が使われたと云われている。戦後はC11形蒸気機関車が使われていたと証言があるほか、那須烏山市の「ベンチャープラザ那須烏山」にはC11の鉄道模型が展示されている。現在の烏山線の路線敷設計画に至る以前の1894年(明治27年)、烏山町の島崎善平等は多雨期の鬼怒川をリスクと考え、これを渡る日本鉄道奥州線の長久保駅に接続するルートではなく、現在の水戸線川島駅に至る「常野鉄道」の開設を当時の栃木県知事佐藤暢に願い出た。これは実現せず、その後奥州線が東に移設され宝積寺駅が開業したため、烏山の小林初太郎と宝積寺の矢口縫太郎が中心となって「烏山人車鉄道会社」を設立し、烏山と宝積寺を結ぶ人車鉄道開設を求めることとなった。資金も集めて準備も進められたが、この計画も実現しなかった。1911年(明治44年)3月15日、烏山町の島崎善平らは「烏山宝積寺間軽便鉄道敷設請願書」を鉄道院総裁の後藤新平に提出、同年8月21日には「軽便鉄道敷設に付き請願」が鉄道院の新総裁となった原敬に提出されるなど、烏山と宝積寺を結ぶ軽便鉄道の敷設願いが再三日本国政府に提出された。この「軽便鉄道敷設に付き請願」は単に烏山と宝積寺を結ぶ支線としての計画ではなく常野を横断し常磐線と東北本線を結ぶ路線計画であったことから、衆議院議員の江原節らが議会で審議し遂に1912年(明治45年)2月28日、宝積寺駅から烏山に至る軽便鉄道が議会で可決された。地元では烏宝軽便鉄道の期成同盟会が立ち上げられたが、日露戦争以来の日本政府の資金不足から国の建設認可が下りず、第一次世界大戦にともなう景気亢進で国の手でようやく建設されることになり、1921年(大正10年)1月10日に工事を落札した坂本佐吉によって宝積寺 - 文狭間で建設工事が着手された。烏山側では依然として工事が始まらなかったため地元住民が再三懇願に上京しようとしていた矢先に鉄道省技師等が烏山を訪れ、ようやく工事が開始されることとなった。こうした紆余曲折を経て、1923年(大正12年)にようやく開通。地元では新聞、銀行、旅館などが烏宝線(うほうせん)と表示する時刻表を作り報道したが、鉄道省関係の資料では建設時から「烏山線」とされ、営業開始時の正式路線名も「烏山線」とされて現在に至っている。開通日は鉄道省告示により1923年(大正12年)4月15日とされたが、実際には北白川宮成久王が薨去したため開通式は5月1日に変更された。開通式には各界の名士が参列したほか、地元住民も大勢が参加してたいへん賑わい、当日の烏山駅利用者は午後3時までに乗降者2千7百人を超えた。JRの前身である日本国有鉄道が運営していた1968年(昭和43年)には「赤字83線」に選定され廃止対象とされた。その後、1970年(昭和45年)の日本国有鉄道諮問委員会報告書で報告された全国鉄路線各線の収支係数が公表され、烏山線の収支係数が近隣他路線との比較で日光線や両毛線、水戸線よりは悪く、水郡線や鹿島線、相模線、鶴見線より良い、また吾妻線や川越線、東金線とほぼ同等であることが判明し、烏山線は存続となり、以後は特定地方交通線にも選定されず現在に至っている。なお、同じく赤字83線に選定された県内他路線の真岡線と赤字83線には選定されなかった足尾線は、収支係数および損益状況上では相模線と同等か良好かつ鹿島線より遥かに良かったが、沿線に主要都市が無くまた県都と県内地域を結ぶ路線ではなかったことなど、存続するための路線評価が得られず第三セクター鉄道化されている。

出典:wikipedia

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