瀬戸線(せとせん)は、愛知県名古屋市東区の栄町駅から同県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。名古屋都心・栄にある栄町駅を起点とし、都心部から東郊を経て瀬戸焼の産地である瀬戸市に達する近距離通勤路線である。大曽根駅 - 尾張瀬戸駅間では、ほぼ瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と矢田川に並行している。名古屋市営地下鉄、名古屋ガイドウェイバス、東海旅客鉄道(JR東海)、愛知環状鉄道と接続するものの、名鉄の他の路線とは接続していない孤立路線となっている。これにより、名鉄の他の路線の遅延や運転見合わせの影響を受けない利点を持っている。改札口前等の案内標識では、「名鉄瀬戸線」と路線名入りかつ路線名を強調して表記されていることが多い。瀬戸電気鉄道を前身としていることも相まって、名鉄の路線となった後も高齢の世代などからは瀬戸電(せとでん)と呼ばれることがある。運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍。計算方法は名古屋鉄道#運賃を参照)。孤立路線ではあるものの、運賃体系は他の名鉄の路線と同様となっている。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。孤立路線ということから、かつては瀬戸線各駅と名鉄の他線の間を栄町駅 - 名鉄名古屋駅・金山駅を別途移動して乗り継ぐ場合、営業キロを通算する特例が設けられていた。また栄町駅 - 東大手駅の間に建設費回収のための加算運賃が設定されていた。これらはともに、2006年12月16日のトランパス導入に合わせて廃止された(ただし営業キロの通算については、通学定期券のみ、その後に開業した西尾線南桜井駅利用の場合を除き、2009年12月15日購入分まで据え置かれて存続した)。瀬戸においては古くから窯業(瀬戸焼)が盛んであり、貨物輸送の需要は高く、鉄道の敷設は悲願であった。しかし、明治20年代に当時国が整備を進めていた中央線の誘致に失敗してしまう。ただ、地元により鉄道を敷設すれば、接続点として中央線に大曽根駅を開設するとの国の意向を取り付けたため、瀬戸 - 大曽根間の鉄道敷設の気運が高まった。その結果、主に加藤杢左衛門を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、1905年(明治38年)4月2日、瀬戸自動鉄道として開業した。現在の名鉄の路線の中では、尾西線に次ぐ早期の開業であった。しかし、開業時においては、矢田川を渡る橋の架橋工事が困難をきわめ、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)沿いの瀬戸駅(現在の尾張瀬戸駅) - 矢田駅間14.6kmの開業となった。翌1906年(明治39年)には大曽根駅まで開業する。ただし、中央線大曽根駅の開業は後述の「外濠線」が開業する1911年(明治44年)まで待たなければならなかった。開業当初は非電化で、セルポレー式蒸気動車で運行していた。これが日本初の気動車運行である(「日本の気動車史」も参照)。この蒸気動車は車両ごとにそれぞれA・B・C号と称し、瀬戸駅 - 矢田駅間を1時間半近くかけて走破していた。本数は1日わずか4往復であった。しかし、上り坂で動けなくなるなどの故障が続出したため、1906年(明治39年)に社名を瀬戸電気鉄道と変更し、翌1907年(明治40年)には全線を電化して電車の運転を開始した。ただし、当時は電力会社の名古屋電灯が夜間の電力需要に対応するべく毎日午後6時以降の電力供給を停止していたので、1910年(明治43年)に後に開業する喜多山駅の東側にあたる場所に火力発電所(2008年、解体撤去)が設けられるまでは、蒸気動車も引き続き使われていた。このような経緯で開業したにも拘らず、中央線の大曽根駅はなかなか開業されなかった。そのため、名古屋都心部への乗り入れを並行して進める必要があった。名古屋都心部への乗り入れの計画としては、名古屋城の外堀を経路としてとる「外濠線」や車道沿いに新堀川に至る「車道線」などが計画されていた。これらのうち、瀬戸からの陶器など貨物を堀川を運航する貨物船へ積み替えるため、「外濠線」が建設されることとなった。まず、1911年(明治44年)5月23日、大曽根駅 - 土居下駅間が開業した。この延伸区間は当時の名古屋市街地の北端に沿って敷設されたため、用地買収が安く済んだ。同じ年の10月1日には堀川駅まで延伸した。この外濠区間はほとんど用地買収の必要がなかったが、名古屋城の外濠に線路を通すという特殊な条件から、ガントレットと呼ばれる単複線やサンチャインカーブと呼ばれる急カーブなど特殊な線形が採用された。この外濠を通る区間は、「お濠電車」とも呼ばれ、その後長く親しまれた。これに先立つ同年4月9日には中央線大曽根駅も開業しており、これにより、大曽根駅で中央線へ、堀川で水運へとの連絡を実現し、瀬戸線は、名古屋や瀬戸の貨物輸送に大きな力を発揮するようになった。このほか、開業当時には小牧線(大曽根 - 小牧間、1907年(明治40年)特許申請→1914年(大正3年)不許可)、龍泉寺線(小幡 - 龍泉寺間、1912年(明治45年)特許申請→1914年(大正3年)取得)、品野線(瀬戸 - 品野間、1912年(明治45年)特許申請→1912年(大正元年)取得)、瀬戸町内線(1912年(明治45年)特許申請→1914年(大正3年)取得)などの新線建設が計画されていた(取得した特許はいずれも1916年(大正5年)に失効)。瀬戸電気鉄道の本社は大曽根駅に設置され、1917年(大正6年)に建築された本社社屋は同駅の駅舎を兼ねたモダンな建物であり、名鉄合併後も後述する矢田駅 - 森下駅間の高架化事業の完成により解体されるまで駅舎として利用されていた。名古屋市が市内の路面電車を買収し名古屋市電気局による全面市営化を進めていた1921年(大正10年)4月13日、軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更した。これに伴い、従来あった停留場を整理し、計29駅として整備した。また、全線で複線化が進められ、1929年(昭和4年)12月には全線が複線化された。このように、輸送力の増強と設備の近代化が図られていった。開業以来、貨物輸送が収入の大きな割合を占めていたため、沿線の好況は瀬戸線の増収に結びついていった。しかし、瀬戸市内の国鉄バス(岡多線)や瀬戸街道の民営バスなど沿線へのバス路線の拡張や昭和恐慌による瀬戸の窯業の不況のあおりなどを受けて、業績は急速に悪化した。日中戦争の長期化による鉄道輸送統制強化として国の陸上交通事業調整法の制定や行政指導もあって、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併による1935年(昭和10年)名古屋鉄道の誕生と機を一にして、1939年(昭和14年)、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併し、同社の瀬戸線となった。第二次世界大戦中には、運行効率を上げるため、多くの駅が休止または廃止に追い込まれた。瀬戸線の路線施設はあまり空襲の被害を受けなかったため、太平洋戦争が終わると早期に運行が再開された。しかし、1948年(昭和23年)1月5日、大森駅(現:大森・金城学院前駅)東側で多数の初詣客を乗せた車両が横転するという脱線転覆事故が発生し、多数の死傷者が出る瀬戸線史上最悪の惨事となってしまう。これを受けて、線形改良などの近代化が進められた。特に、輸送上のネックとなっていたお濠電車の特殊な区間を整備し、名古屋市の都心への乗り入れをいかに実現するかが最重要課題であった。そこで、名鉄は、名古屋市や戦災復興院などと名古屋市内の鉄道整備に関する協定を結び、それを受け、名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網が取りまとめられ、1950年(昭和25年)1月、都市計画決定がされた。その中で、瀬戸線は、4号線と大曽根駅で相互直通運転を行うものとされた。4号線は、水分橋駅(現、味鋺駅付近)で名鉄小牧線と相互直通運転を行い、大曽根駅を経由し、市役所裏駅(現、東大手駅付近)まで達する路線の計画で、市役所裏駅で、新川橋駅 - 石川町駅(現、石川橋付近)間を計画していた2号線と接続することになっていた。この都市計画決定を踏まえ、大曽根駅 - 清水駅間は、1956年(昭和31年)、大曽根地区の戦災復興の土地区画整理の進捗に合わせて、名古屋市が鉄道用地として先行取得していた土地を譲り受け、社宮祠と駅前の両駅を廃止の上、全く新しく線路を敷設し直した(旧経路は、東区と北区の区界などとしてその痕跡を見ることができる)。しかし、その後、建築資金の分担の問題などから、相互直通運転を前提とした整備計画は暗礁に乗り上げていった。1961年(昭和36年)には、都市交通審議会名古屋部会答申において見直しがなされた。この答申には、大曽根からの東方への延伸部分を八事、金山を結ぶ4号線として計画する一方(現在の名城線の環状化の原型)、市役所 - 大曽根間については、同答申の2号線(現在の名城線・名港線の原型となる計画)の一部としつつ、含みを持たせ瀬戸線の乗り入れについての結論は保留されていた。名古屋鉄道は、その後も2号線への瀬戸線の乗り入れについて、名古屋市と協議を続けた。しかし、市内の鉄道整備を独自に行おうとする姿勢の強い名古屋市とは折り合わず、結局この協議は、1965年(昭和40年)ころまでには、実質上頓挫してしまう(その結果、名古屋市側は、市役所 - 大曽根間を黒川駅経由の北側大回りの路線として、独自に建設することとした)。地下鉄への乗り入れが断念された後の1966年(昭和41年)のダイヤ改正からは、輸送力強化の方策として、車両を大幅に更新するとともに、大津町駅 - 尾張瀬戸駅間で特急が設定された。しかし、その後、都心部への乗り換え駅として主に機能していた大津町駅が市電の廃止によってその機能を失い、1971年(昭和46年)までに、名古屋市は地下鉄名城線の栄駅 - 大曽根駅間を開通させた。そのため、名古屋都心部への乗客の多くが大曽根駅で乗り換えるようになった。このような状況から、瀬戸線独自での都心部への乗り入れは急務となり、名鉄は、1968年(昭和43年)、東大手駅 - 栄町間について、独自に敷設する申請を行った。しかし、瀬戸線が独自に栄乗り入れを行えば、栄駅 - 大曽根駅間は地下鉄と競合することになることから、名古屋市と再度の協議が必要であった。協議の結果、1971年(昭和46年)12月、新三河鉄道時代から名鉄が保有していた八事 - 赤池間(現:地下鉄鶴舞線)の免許を名古屋市に譲渡し、その見返りとして、瀬戸線独自に栄への地下新線を建設する協定が、名古屋市と名鉄の間で締結された。名鉄は、栄までの路線免許を1972年(昭和47年)5月18日付で取得した。この新線建設計画と名古屋市内の他の部分の高架化計画に関して、瀬戸線は、昭和47年の都市交通審議会答申において、他の地下鉄整備計画と並んで、高速度鉄道9号線と位置付けられた(ただし、栄町駅 - 矢田駅間の整備終了後に出された平成4年運輸政策審議会答申「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」ではそのような位置付けはなくなっている)。栄乗り入れ工事の起工式は、1976年(昭和51年)1月30日に実施され、その工事開始に伴って、土居下駅を仮設駅に移転し、堀川駅 - 土居下駅間は、同年2月14日から代替バスでの運行となった。また、全線で昇圧工事も始まり、各駅のホームの嵩上げや4両編成に対応するための延伸工事が実施された。1978年(昭和53年)になると貨物営業が廃止され、同年3月19日、1500Vへの昇圧が完了した。これに伴い、新造車6600系の投入など、車両の全面的な更新が行われた。そして、遂に、同年8月20日、名鉄長年の悲願であった瀬戸線の都心乗り入れを果たした。都心乗り入れ区間の終着駅である栄の駅は、地下鉄と同じ栄とはせず、栄町とした。栄乗り入れにあたっては、テレビ塔周辺の久屋大通公園の整備も同時に行われ、栄町駅に接続するセントラルパーク地下街も開業した。栄町乗り入れに伴い、従来の特急を急行に変更し、準急の停車駅を見直した上で、朝は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各12分間隔、日中は急行30分・普通15分間隔、夕方は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各15分間隔のダイヤとなった。なお、栄町への乗り入れに伴い、建設費用回収のため栄町駅 - 東大手駅間内または同区間に跨って利用する場合はキロ程で算出された運賃に別途全乗車区間のキロ程に応じて大人の普通運賃の場合で40 - 60円を加える加算運賃の制度が導入された。加算運賃は1995年(平成7年)9月1日の運賃改定から一律30円(大人)に引き下げられ、その後2006年(平成18年)12月16日の運賃制度改定(前述)で廃止された。矢田 - 大曽根間は、旧瀬戸街道(現在の矢田本通商店街)沿いの経路を通っていたが、ここは江戸時代の矢田川の河道に沿ったところでもあり、大雨が降ると中央線のアンダークロス部分を中心に線路が浸水し、運行に支障が生じることがよくあった。また、大曽根駅北側の踏切は東大曽根六叉路交差点(現在は五叉路)のすぐ東側にあって、ラッシュ時の東大曽根交差点の道路の渋滞は深刻なものになっていた。そこで、大曽根駅周辺の瀬戸線の高架化整備が急がれ、周辺の土地区画整理事業の進捗とあいまって、1983年(昭和58年)に森下駅 - 矢田駅間が高架化された。これに伴い、瀬戸電気鉄道の本社として建設された大曽根駅駅舎は解体された。1990年(平成2年)9月30日 には、国道19号と空港線(国道41号)を跨ぐ東大手駅 - 森下駅間が高架化された。これにより、両国道の渋滞の原因となっていた踏切が廃止された。また、車両の冷房化率が100%となった。その後、尾張旭駅(1994年(平成6年)移転新築)、印場駅(1995年(平成7年)再開)、小幡駅(1999年(平成11年)改築)、尾張瀬戸駅(2001年(平成13年)移転新築)などの設備の改善が進められた。2006年(平成18年)には駅集中管理システムが導入され、主要駅を除き多くの駅が大曽根駅から遠隔管理される無人駅となった。また、ストアードフェアシステムが導入され、全駅でトランパスが利用できるようになった。なおこれに際して、運賃制度にも変更が加えられている(前述)。2007年(平成19年)6月30日には、戦後長く使用されてきた喜多山検車区が廃止され、尾張旭検車区が供用を開始した。併せて検車・保線業務については、入換・牽引用電気機関車や貨車を全廃し、機械扱いの機材への置き換えが行われた。2008年(平成20年)、4000系の導入が開始され、1500V昇圧以来30年ぶりに、車両の全面的な更新が始まった。現在、検車区廃止後の喜多山駅の高架駅化と、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と環状2号(国道302号)上の踏切の立体化を中心とした小幡 - 大森・金城学院前間(1.9km)の高架化事業が進捗中である。当初は2013年(平成25年)度末(2014年3月)の完成を目指していたが、同年度末になっても工事の第1段階である仮道の整備もできていない状態で工事は進んでおらず、2019年(平成31年)度まで事業が延長されている。急行・準急・普通の3種別の列車が運転されているが、喜多山駅の下り線を除いて途中に待避設備がないため平行ダイヤとなっており、追い抜きは行われず、先発列車が先行する(栄町駅ではその旨の掲示が発車案内板に表示されている)。普通列車の全区間所要時間は40分前後で、急行より10分長い程度である。ワンマン運転は行われていないが、車内放送は、自動放送になっている。原則として全列車が栄町駅を発着する。「せともの祭り」などでまれに尾張瀬戸発尾張旭駅または喜多山駅行きの臨時普通列車(一部は回送列車を特別に客扱いする)が運転されることがある。方向幕には「三郷」も入っているが、通常は使用されない。現在列車はすべて4両固定編成であるが、一部の駅では将来の増結を考慮し、6両編成に対応した有効長のホームを有する。平日の朝は、栄町方面の朝7時から8時までにおいては、尾張旭駅 - 栄町駅間は、最短運転時隔で3分、その他は4分間隔で走る高密度ダイヤになっている。待避設備がないこともあって、栄町方面には、急行などの優等列車が設定できず、普通のみの運用となっている。尾張瀬戸方面は準急と普通が交互に走り、普通の大半と準急1本が尾張旭折り返しになる。昼間時間帯では、平日・休日問わず毎時急行2本、準急2本、普通が4本ある。普通4本のうち2本が尾張旭駅折り返しで、急行と尾張旭駅で連絡する。平日の夕ラッシュ時間帯にはすべての列車が栄町駅 - 尾張瀬戸駅間の通し運転となり、優等列車の種別が、尾張瀬戸方面はすべて準急、栄町方面はすべて急行となる。平日夜間21時以降と休日夜間19時以降は、一部を除いて普通のみの運用となっている。この時間帯は尾張瀬戸駅発の回送列車も尾張旭駅または喜多山駅まで数本運行されている。喜多山に検車区があった当時は栄町駅 - 喜多山駅間の区間列車も数多くあったが、検車区が尾張旭に移転した現在では、平日の朝8時台に1本と、最終列車に限られたものとなっている。曲線区間が多いことなどから、急行といえども平常ダイヤ時の実質的な最高速度は尼ヶ坂駅 - 大曽根駅間、守山自衛隊前駅 - 小幡駅間、印場駅 - 尾張旭駅間と三郷駅 - 水野駅間で85 km/h程度である。また、車両性能が向上しても、同時に停車駅も増えてきたので、全区間の所要時間は30分前後と、600V時代の1966年(昭和41年)から1977年(昭和52年)に運行されていた特急からほとんど変わっていない。また、急行と準急では、2005年(平成17年)のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅が急行停車駅となったため、印場駅と旭前駅に停車するかどうかの違いしかない。栄乗入れ時からは、普通を栄町駅 - 喜多山駅間の区間運用とし、急行停車駅を除き、名古屋市内の駅は普通、尾張旭・瀬戸両市内の駅は準急という運用が行われていた。1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線は名鉄で唯一準急が走る路線だった。瀬戸線の沿線はほとんど住宅地や市街地となっており、山林や田園地帯は多くない。全体的に平坦な地形を通っていることからトンネルは栄町地下トンネルのみである。大まかには以下のようになる。起点の栄町駅は、名古屋市の繁華街栄地区にあり、地下街や地下鉄栄駅に隣接している。ここから東大手駅を過ぎるまでの約1.7kmは栄町地下トンネルを進む。地下で名古屋市営地下鉄名城線と並走し、同桜通線との交差地点には両地下鉄線の久屋大通駅があるが、栄町駅に近いため瀬戸線の駅は設けられていない。愛知県庁の直下付近で60km/h制限のS字カーブを切り名城線と別れてさらに東寄りになり、地下駅の東大手駅に着く。同駅の付近には愛知県庁・名古屋市役所を始めとする官庁街、名古屋医療センター、愛知県立明和高等学校などがあり、朝夕は通勤客と学生で賑わう。東大手駅を出てすぐのところで地上に出て30パーミルの勾配で一気に高架に上がる。右へカーブして空港線(国道41号)と、名古屋高速1号楠線を乗り越えたところに清水駅がある。清水駅から尼ヶ坂駅を経由して森下駅付近までは道路が高架の両側にあり、線路もカーブしている。国道19号を乗り越え森下駅、さらに左へカーブして大曽根駅に着く。大曽根駅はJR中央本線・名古屋市営地下鉄名城線・ゆとりーとラインと乗り換えが可能な比較的大きな駅。瀬戸方面から名鉄で来た後、同駅でJRに乗り換え金山・名古屋方面へ向かう客もいる。大曽根駅を過ぎると右へカーブしてJRを乗り越える。高架から降りて掘割を通る瀬戸街道を乗り越えると矢田駅に着く。なおここには瀬戸線で唯一のトラス橋である矢田橋梁が存在する。矢田駅は瀬戸線の駅では最も利用者が少ないが、ナゴヤドームまで900mであり、地下鉄が開業するまでは最寄り駅だったこともあり、現在でも瀬戸方面から同駅で下車してナゴヤドームへ向かう客が少なからず存在する。矢田駅を過ぎるとすぐに当線の最急カーブ(半径120m・制限35km/h。現在は名鉄全線中最急でもある)を通過後矢田川鉄橋を渡る。ここは瀬戸線の有名撮影地として知られ、瀬戸線でイベント列車が走るときは多くのカメラマンが集結する。橋を渡ると守山区に入り、ゆとりーとラインの高架をくぐると守山自衛隊前駅に着く。この付近から終点の尾張瀬戸駅まではほとんど瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と並走する。瓢箪山駅を過ぎると守山区役所に近く、橋上駅を持つ急行停車駅の小幡駅。準急はここから瀬戸方面は各駅停車となる。小幡駅を出ると左へカーブし瀬戸街道と交差する。この交点にある小幡5号踏切は自動車の交通量がかなり多く、朝ラッシュは電車の本数も多いためよく閉まり、開かずの踏切になっている。なお、踏切付近の線路はS字状にカーブしており、45km/hの速度制限が掛かっている。踏切を抜けると瀬戸街道の北側を走り、喜多山駅に着く。喜多山駅には瀬戸線で唯一構内踏切が残っている。尾張旭検車区ができる前は同駅に隣接して車庫が設けられていたため現在も電車の運行上で重要な駅であり、乗務員の交代も行われている。また、喜多山駅周辺では単独立体交差事業が始まっており、同駅は高架駅となる予定である。喜多山駅を出ると環状2号(国道302号)と平面交差する(名古屋第二環状自動車道は同所で地下を通る)。度々渋滞が起こっているが高架化によってこの踏切も除去される予定である。さらに進むと大森・金城学院前駅に着く。同駅は瀬戸線で名古屋市内最後の駅であり、付近の金城学院大学の学生で賑わっている。大森・金城学院前駅を出ると尾張旭市に入り、東名高速道路の高架をくぐってすぐのところにあるのが印場駅。同駅は1944年に休止、その後廃止されていたが、1995年に復活した瀬戸線で最も新しい駅であり、労災病院への通院者や付近からの通勤・通学での利用者がそこそこいる。印場の次は旭前駅。両駅間にあるカーブの85km/h制限は当線で最も高い速度制限である。旭前駅は愛知県立旭野高等学校の最寄り駅であり朝夕は高校生で賑わう。旭前駅を出て左側に城山公園やスカイワードあさひや尾張旭市役所など、右側に尾張旭検車区が見えてきて尾張旭市の中心部に入ると、橋上駅舎を有する尾張旭駅に着く。尾張旭駅は検車区を有し、栄町方面から来た普通電車の約半数が折り返す大きな駅である。急行はここから終点の尾張瀬戸駅まで各駅に停車する。かつては急行も停まらない無人駅で利用者が少なかったが、1995年に急行が停車するようになり利用者も大幅に増えている。尾張旭駅の次は愛知県森林公園に近い三郷駅。同駅は1977年まで特急も停車しており尾張旭市内では最も利用者が多く、現在も急行停車駅として多くの利用者で賑わっている。三郷駅を出ると瀬戸市に入り水野駅を経由し新瀬戸駅。新瀬戸は愛知環状鉄道の瀬戸市駅が隣接しており、乗り換える客や公立陶生病院への通院患者、付近からの通勤・通学などの利用者がそこそこいる。新瀬戸駅を出ると瀬戸市役所前駅。瀬戸市役所前駅は公立陶生病院を越えてすぐのところに位置している。周辺は静かな住宅街となっており、利用者は少ない。瀬戸市役所前駅を出るとすぐに終点の尾張瀬戸駅に着く。瀬戸線は、名鉄の他の路線網と接続がないいわゆる孤立路線であること、また、栄町駅 - 東大手駅間では地下を走るため、A-A基準を満たす、いわゆる地下鉄対応車両が必要となることなどから、瀬戸線専用として登場した特徴的な車両がいくつか存在する。1996年に3780系が全廃となって以降、瀬戸線では3ドアロングシートのいわゆる通勤型車両のみが走っている。新車両の導入や他線との車両の転属を行う場合にはトレーラーでの陸送が行われる。2008年度より開始された4000系の導入に際しても、製造会社である日本車輌製造豊川製作所から尾張旭検車区まで、道路上をトレーラーで運ばれた。これに対して1978年の1500V昇圧時など、大曽根駅が地上駅で中央線に連絡する貨物設備があった頃は、同線経由で搬入していた。重要部検査・全般検査の際には台車や主要機器を車体から取り外して舞木検査場までトラックで搬送し検査を行っている。6000系・6600系などの4000系より前に登場した車両は塗装が必要な車体であったが、現在瀬戸線内には揮発性塗料による塗装設備がないため、全般検査等においても部分補修に留めてその延命を図っていた。しかし次第に塗装の傷んだ部分が目立つようになったため、2010年12月に出場した6600系6602Fからは周囲の環境に影響を与えにくいよう、水性塗料を用いて塗装するようになった。列車はすべて4000系4両編成で運転しており、2014年4月現在18編成が在籍する。喜多山駅付近の高架工事に伴い、本線系で使用の3300系が暫定的に導入された。3300系は2016年9月17日より運用されている。早い時期に電化されたため、蒸気機関車やディーゼル気動車は走ったことがない。ただし、電化後にガソリンカー(キハ300形)が使用されたことはある。2008年からすべての在籍車両の4000系への置き換えが進められ、2011年3月までに6750系、2013年3月までに6600系を全車廃車し、6000系についても6032Fが2011年4月に廃車となったことを皮切りに廃車が進められた。6600系については、2013年3月3日のさよなら運転で、6000系については2014年4月6日のさよなら運転で運用を終了した。全駅愛知県に所在。駅名は廃止時のもの。廃止区間の駅については#廃止区間を参照。以下は1921年(大正10年)以前の軌道時代に廃止された停車場。堀川駅 - 本町駅 - (護国神社前駅) - 大津町駅 - (久屋駅) - (東大手駅 - 土居下駅 - 清水駅)※護国神社前駅・久屋駅は1921年以降1976年廃線前に廃止、東大手駅は1944年から休止されていたが新線上で再開された。東大手 - 清水間は新線切り替え区間。
出典:wikipedia
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