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ビージーズ

ビージーズ()は、英国王室属領マン島生まれのイギリス人の三人兄弟を中心に構成された、男性ボーカルグループ。1963年にオーストラリアよりレコードデビューし、1973年からは米国を中心に活動。1955年から息の長い活動を続け、「Massachusetts」「Holiday」「How Deep Is Your Love」「Stayin' Alive」「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国王室属領マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンとモーリスが二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランド、マンチェスターに移る。1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には、後にハーマンズ・ハーミッツのリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。1958年、父の仕事の都合に因り家族7人(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレスリー、末っ子アンディ)でオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ(1958年3月5日-1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は、小遣い稼ぎに唄うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & the Bluecats)になった。そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates,マイクロソフト創業者とは別人)に紹介される。紹介者は、レーサーのビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らのグループ名をBee Geesとつける。1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになり、1963年にフェスティバル・レコードより『三つのキッス』でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的規模の人気を博すこととなる。英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響を強く受けた。ビージーズはギブ3兄弟を中心に結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となった。全員共通してボーカルを担当。1966年にはオーストラリアで最優秀ボーカルグループに選ばれ、翌1967年2月、シングル『スピックス&スペックス』が全豪NO.1ヒットしている頃、オーストラリアでの大人気に着目したビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、自らが経営するNEMSエンタープライズに入社したての新人ロバート・スティッグウッドをオーストラリアへ赴かせ、ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリアクイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948年生れ)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングに度々参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945年生れ)をリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より『ニューヨーク炭鉱の悲劇』でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。以後、「ラヴ・サムバディ」、「ホリディ」、「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、1968年に「ワーズ」、「ジャンボー」、「獄中の手紙」(初の全米TOP10入り)「ジョーク」(同じく全米TOP10ヒット)、同年末にヴィンスがプロデュサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、3rdアルバム『オデッサ』、シングル「若葉のころ」を発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル「救いの鐘」は英国のみでヒット)、同年夏シングル「トゥモロウ・トゥモロウ」を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇してしまう、これによって2人となったビージーズは「想い出を胸に」を全英TOP10に送り込むも、翌1970年春先にシングル「I.O.I.O.」、アルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩に因って空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は固い結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。10月に再スタート第一弾アルバム『2Years On』を発売、翌71年1月にシングルカットされた「ロンリーデイ」を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)とし続くシングル「傷心の日々」は念願の全米No. 1となるが、アルバムセールスは低調だった。コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの1972年春、初の来日公演(日本でもアイドル人気だった1969年に予定されていたがメンバーの脱退などの諸問題で、延び延びとなっていた)寸前に解雇される。1973年に、マネージャー兼プロデューサーでもあるロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードへ移籍し、アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)で、かってはヤング・ラスカルズなどを手掛け華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年~ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラを付けていた)からリズム主体のファンキーなサウンドへと脱皮を図ったものの、ファンからは「売れるためにサウンドを変えた」と猛反発され、翌1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』も不発に終わる。1975年に芸能生活20周年記念アルバムでもある『メインコース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」がディスコブームに乗り、全米大ヒット。これより第三期黄金時代の幕開けとなる。以後も、ダンスナンバーを中心とするコンテンポラリー路線を手掛け、1978年には彼らが手掛けた楽曲が半年以上もNo.1を占めるなどの快挙を達成(ビートルズ、シュープリームス、カーペンターズ以来)。1981年のアルバム『リヴィング・アイズ』がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、数多くの全米ヒットを生み出す。1987年にワーナー・レコードに移籍し、アルバム『E.S.P.』よりシングル・カットされた「You Win Again」は、全英TOP10ヒット。1989年には、シングル「One」が久々に全米TOP10ヒットになるものの、Rolling Stone誌では"Unwelcome Back Band"と酷評される。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝。モーリス死亡後はロビンは再結成の意向はないと表明したが、2009年から活動を再開した。2012年5月20日、ロビン・ギブの死去によりギブ3兄弟によるグループ活動は消滅した。ディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が、1977年に公開された。1998年にミュージカル版もロンドンで製作され、翌年にはブロードウェー公演も果たし、日本公演は2003年に新宿コマ劇場で行われた。続編である映画『ステイン・アライブ』もヒットする。全世界でのレコード・CDのセールスは1億2,000万枚に上り、彼らの楽曲は古くはエルヴィス・プレスリー、近年はデスティニーズ・チャイルドらによってカバーされている。1971年から1979年にかけて、ビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した。1978年の3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクイン、これはビートルズが1964年の4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。1977年の最終週から翌1978年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスに於いては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。また、活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。1997年に、アーティストの殿堂とロックの殿堂、2001年にはボーカルグループの殿堂、2004年9月20日にダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録した。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。1968年1969年1970年1975年1976年1977年1978年1979年1980年1981年1982年1983年1985年1987年1990年1992年1993年1995年1996年1997年1998年1999年2001年2002年2003年2004年2005年2006年

出典:wikipedia

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