オクタビオ・アントニオ・フェルナンデス・カストロ(Octavio Antonio "Tony" Fernández Castro, 1962年6月30日 - )は、ドミニカ共和国・サンペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手(内野手)。右投両打。現在はMLB・テキサス・レンジャーズのスペシャルアシスタントを務めている。4月24日に17歳でトロント・ブルージェイズと契約した。入団後はマイナー・リーグを経てにAAA級シラキュース・チーフスへ昇格し、9月には登録枠が拡張するセプテンバー・コールアップによりメジャーに昇格した。翌は開幕こそマイナーで迎えたものの、5月に昇格すると88試合に出場し、以後ブルージェイズの正遊撃手として1番あるいは2番を打ち、4年連続のゴールドグラブ賞受賞に輝いている。シーズン終了後の12月5日にロベルト・アロマーとジョー・カーターとのトレードでフレッド・マグリフとともにサンディエゴ・パドレスに移籍。10月26日にトレードでニューヨーク・メッツへ移籍した。6月11日にダリン・ジャクソンとのトレードでブルージェイズに復帰。地区優勝に貢献した。オフの11月3日にFAとなった。3月8日にシンシナティ・レッズと契約。オフの10月13日にFAとなり、12月15日にニューヨーク・ヤンキースと契約。11月18日にFAとなり、12月28日にクリーブランド・インディアンスと契約した。10月30日にFAとなり、12月8日に古巣・ブルージェイズと契約。にメジャー通算2000本安打を記録した。11月5日にFAとなり、ドミンゴ・マルティネスの代役を探していた西武ライオンズは、メジャー通算2240安打のキャリアを持ちメジャーの安打製造機として知られたフェルナンデスに目を付けた。こうしてフェルナンデスはライオンズに入団することになった。西武入団後、フェルナンデスは主にサードを守り、開幕は3番を、シーズン途中からは4番を打った。シーズン途中に怪我があったものの、打撃面ではリーグ4位となる打率.327を記録し、守備面では開幕戦でサードフライを落球するなどもあったものの、76試合でサードを守っている。怪我が多いことや38歳という年齢の問題もあって、1年で自由契約となったが、当時のオーナー・堤義明は「ライオンズに無いものをアメリカから持ってきてくれた。ありがとうと言いにいかせる」と、編成担当者をドミニカのフェルナンデスの元に向かわせた。翌2月8日にミルウォーキー・ブルワーズと契約したが、5月29日に放出された。6月8日にブルージェイズと契約。3度目の復帰となったが、11月5日にFAとなり、同年限りで現役を引退した。引退後のにブルージェイズでの功績が認められ、カナダ野球殿堂入り。背番号『1』はブルージェイズの「レベル・オブ・エクセレンス(準永久欠番)」として顕彰された。現在はトニー・フェルナンデス財団 (Tony Fernandez Foundation)という、世界の子供達を助けるNPOを運営しており、カナダ、アメリカ合衆国、ドミニカ共和国にオフィスを設置している。2月22日にテキサス・レンジャーズのGM特別補佐に就任した。敬虔なクリスチャンであり、本塁打を放った後などに神に感謝する仕草も見られた。また禁酒禁煙で、西武ドームのベンチ裏から灰皿が撤去されたのは、このフェルナンデスに配慮したものだった。夏場には、母国で兄が急死したという訃報に接し、一時チームを離れ帰国した。アメリカ・メジャーリーグでは、家族の不幸や妻の出産などの際は、落ち着くまで休暇を取ることが許され、またそうするのが当たり前であるが、西武が優勝争いをしていることもあり、フェルナンデスはすぐに来日し、復帰。復帰初戦でサヨナラヒットを打ち、ヒーローインタビューでは兄への想いを静かに語った。試合中は何故か大きな帽子、ヘルメットを浅めにかぶる癖があり、プレーの最中にしょっちゅう帽子を飛ばしていた。ある時は走塁中にヘルメットが脱げ、その後三塁に滑り込んだとき剥き出しの後頭部に送球が直撃し悶絶したことがあるなど、あまり良い結果は生んでいない。なお、このシーンはこの年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞にもよく用いられた。福岡ドームでは、トレーニング室備え付けのマウンテンバイクを勝手に持ち出して通路で乗り回すなど、その伝説には枚挙に暇がない。これらの行動は、ともすれば自分勝手ともとられそうだが、信心深いフェルナンデスは常にチームのことを考える選手であり、独善的な我が侭などは一切言わなかった。メジャーで大きな実績を残した選手にありがちな、高いプライドで日本野球を見下したような姿勢、あるいはプレーに手を抜くなどといった問題とは完全に無縁であり、チーム内からの人望も厚かった。練習では、更に奇人ぶりを発揮し、巨大なボールを両手に抱えて横に放り投げたり、ノックでわざとトンネルを繰り広げるなど、その独特の練習は周囲を唖然とさせた。また不振に悩んでいたある時には、遠征中の地方球場で工事現場に置かれていた杭打ち用ハンマーを発見。それを使って素振りを行ったところその日の試合で猛打賞と復活し、関係者に頼んでそのハンマーを譲ってもらったこともある。
出典:wikipedia
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