マクラーレン・MP4/5 (McLaren MP4/5) は、 マクラーレンが1989年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーで、ニール・オートレイが設計した。1990年シーズンには改良モデルのMP4/5Bを投入した。1989年、1990年に2年連続してドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを獲得した。2シーズンの通算成績は、16勝、27ポールポジション、獲得ポイントは263であった。1989年シーズンは、ターボエンジンが前年で終了し、全チームが自然吸気エンジンとなる最初の年であった。ホンダは1988年後半には、3.5リッターV10エンジンを開発していた。MP4/5は、1988年シーズンを席巻したMP4/4をベースに設計され、プレシーズンテストで公開されると、すぐに速さを見せた。開発はアラン・プロストにより行われ、MP4/5は新シーズンで活躍する1台と見られていた。このシーズンのフェラーリは空力性能に優れていたが、慢性的にセミオートマチックギアボックスの信頼性が不足しており、このことがマクラーレンにとって優位に働いた。シーズン当初は前年型を改良した縦置きギアボックスだったが、チームは新型の横置きギアボックスを開発していた。横置きギアボックスとすることで重量バランスが改善され、タイムの短縮につながることは当初のテストで明らかだったが、横置きギアボックスの開発はトラブルが多く、実戦に投入されたのは第9戦のドイツGPからだった。ドイツGPでも潤滑系のトラブルを起こし、その対策にはホンダの和光研究所が衛星電話を通じて協力し即席のオイルタンクが装着された。モノコックはMP4/4を受け継いだ設計で燃料タンクのサイズの他は大きな違いがなかったが、第6戦カナダGPではプロスト車のフロントサス付け根が剥がれるトラブルを起こしたため、構造を変更したモノコックを新たに製造することになった。第5戦アメリカGPではフェニックス市のビル街を飛び交う電波がセナ車のエンジンのECUを狂わせてリタイアに追い込まれるという珍しいトラブルが起こった。このトラブルはセナ車のみでプロスト車には起こらなかったためプロストが自分のエンジンとセナのエンジンではECUに差があると考えるきっかけの一つとなった。シーズンを通してシンプルで堅実な設計のマシンはセッティングも容易でハンドリングも素直であり、ホンダエンジンのパワーも充分以上だったため、常に優位を保っていた。この時点では空力に頼りすぎないデザインもむしろ美点だった。当時からベネトンやティレル、レイトンハウスなどのマシンは空力に重きをおいたデザインだったが、レースの結果にはなかなか反映されず、まだ有効な空力デザインが発見されてはいなかった。マクラーレンは、シーズン中10勝を上げた。アイルトン・セナが6勝で、プロストが4勝であった。これは、彼らの関係が限界に達していた時期であり、彼らの対立関係が、マシン開発を後押しし他チームより突出したマシンになった。しかし、この対立関係が悪いほうに流れることもあった。第15戦日本GPでレースの終盤にプロストとセナが最終シケインで接触。プロストはその場でリタイヤ、セナはトップでチェッカーを受けるも、失格処分。このときにFIAの会長であったジャン=マリー・バレストルの影響が裁定にあったのではといわれた。セナはプロストよりも多くの勝利を獲得していたが、セナが優勝するとプロストが2位に入り、プロストが優勝するとセナはリタイアというパターンが続いたことが影響し、ドライバーズタイトルはプロストのものになった。セナとプロストの合計ポイントは、簡単に連続2回目のコンストラクターズチャンピオンシップをマクラーレンにもたらした。前年のシーズン半ばに発表されたように、プロストはフェラーリに移籍した。 彼はチームがセナを優遇していたと信じ、不満に思っていた。マクラーレンは発展型のMP4/5Bでシーズンに臨んだ。ウイングは設計変更され、ラジエーターはインテークが狭くなり、アウトレットは使用環境により大小が選択された。ディフューザーは半円形のエアトンネルを連ねた独特な形状となり、通称「バットマン・ディフューザー」と呼ばれた。ホンダRA100Eはボア・ストロークを変更し、スロットルバルブがスライド式からバタフライ式に変更された。ホンダ技術陣はスロットルを細かく煽るセナ独特のテクニック(セナ足)にフィットするよう苦労したという。セナは信頼性向上のため、シーズン前に多くの開発作業を行った。しかし、マクラーレンはこの2年間を強力なホンダエンジンのアドバンテージを最大の武器としたマシン開発を行ってきたため、純粋なシャーシ性能の不足が次第に目立ち出すシーズンの始まりとなった。ドライバーからはハンドリングに関する不満が発せられるようになり、アメリカGPのベルガーや、イギリスGPのセナなどドライビングミスも目立ち始めた。またフランスGPのようにピット作業のミスも起こった。空力面でも試行錯誤が続き、バットマン・ディフューザーはシーズン途中に廃止された。他チームのマシンよりも前後のウイングを立ててダウンフォースを稼いでいたため、「地上最速のマールボロの看板」と揶揄された。新加入のゲルハルト・ベルガーは長身のため、コクピットスペースの狭さに苦労させられた。このシーズンはマクラーレンにとってフェラーリ・641という好敵手を相手にした激しいシーズンであった。セナは、プロストのフェラーリを相手に6勝を挙げ、コンストラクターズタイトル3連覇を達成した。しかし、第15戦日本GPでマクラーレンの2台がリタイアした後にまだ逆転のチャンスがあったフェラーリも全滅した結果タイトルが決定するなど苦戦をしいられた。セナが前年のリベンジを果たしたのは、日本GPであった。1周目の第一コーナーでプロストと接触し、セナのドライバーズチャンピオンシップが決定した。チームは翌年のシーズンに向け、ティレル・019の「ドルフィン・ノーズ」に対抗して、「クロコダイルノーズ」というハイノーズを装備させモンツァ・サーキットでテスト行ったものの、アイルトン・セナが「縁石(前)が見えない」と言うコメントを発言したため、結果的にはお蔵入りとなった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。