チャールズ・アイヴズ Charles Edward Ives (1874年10月20日 コネチカット州ダンベリー - 1954年5月19日ニューヨーク市)はアメリカ合衆国の作曲家。アメリカ現代音楽のパイオニアとして認知されている。作品は存命中はほとんど無視され、長年演奏されなかった。現在では、アメリカ的な価値観のもとに創作を行なった独創的な作曲家と評価されており、録音もかなりの数が存在する。作品にはさまざまなアメリカの民俗音楽の要素が含まれている。南北戦争時に軍楽隊でバンドマスターを務めた父親より、初期の音楽教育を受ける。後にエール大学(イェール大学)でホレイショ・パーカーに作曲を学び、在学中に習作交響曲第1番ニ短調を創作する。卒業後に、自分の理想の音楽を追究しては生計が立たないとの見込みから、音楽以外の経歴を志した(「不協和音のために飢えるのはまっぴらご免だ」との名言がある)。1898年に、ニューヨーク州の保険会社Mutual Life Insurance Companyに入社した後、ニューヨークの単身者用マンションに、他の男性数人と共に同居。1899年から1906年まで、代理店Charles H. Raymond & Co.に入社するが、1907年、同社の倒産後に、友人Julian W. Myrickとともに自らの保険会社Ives & Myrickを設立し、引退するまで副社長を務めた。余暇の合間に「趣味」で作曲を続け、結婚するまで、地元ダンベリーやニューヘイブン、ニュージャージー州ブルームフィールド、ニューヨーク市で教会オルガニストを務めた。1908年にハーモニー・トウィッチェル(Harmony Twitchell)と結婚し、ニューヨークに自宅を構えた。保険業において目覚しい成功を収め、1918年に最初の心臓発作に悩まされるまでの間、交響曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲などおびただしい量の創作を続けた。病後は作曲数がめっきりと減り、1925年にバイロンの詩による歌曲「今生の別れ"A Farewell to Land"」を作曲したのが、最後の作品となった。作風は少年期に親しんだ讃美歌、愛国歌、民謡などをベースにしており、最初後期ロマン派の影響を受けていたが、後、前衛的になり、シェーンベルクやストラヴィンスキーやバルトークやハーバ、ミヨーに先んじて、無調、ポリリズム、多調、微分音を実験的に導入している。したがって、米国初の前衛音楽の作曲家と呼んで差し支えない。アイヴズは生前、その作品がほとんど無視され、その多くが長年にわたって演奏されずじまいだった。不協和音を実験し、だんだんと多用していくようなアイヴズの傾向が、当時の音楽界の権威に好ましくないと受け取られたのである。主要な管弦楽曲におけるリズムの複雑さは、演奏に当たって困難をともない、そのため、作曲から何十年以上も経ってさえ、アイヴズの管弦楽曲を演奏しようとする意欲が殺がれてきた。アイヴズの意見によると、音楽を評価するうえで忌まわしい言葉の一つが「素敵nice」であり、「大人のように自分の耳を使え!Use your ears like men!"」という有名なアイヴズ語録は、まるでアイヴズが自作の受容などどうでもよかったかのようである。ところが逆に、アイヴズは受けの良さを気にかけていた。アイヴズの初期の支持者にヘンリー・カウエルやエリオット・カーター、グスタフ・マーラーなどがいる。アイヴズは、複雑な楽譜を出版する音楽雑誌社に融資し、およそ40年の間、ニコラス・スロニムスキーを指揮者とする演奏会を手配・後援した。1940年代になると彼の無名状態はやや上向きになり、彼の作品を愛し、普及しようとしていたルー・ハリソンに出会う。とりわけ有名なのは、ハリソンが1946年に初演の指揮を執った交響曲第3番(1904年作曲)である。翌年、この作品はピューリッツァー賞に輝いた。しかしながらアイヴズは、「賞は坊やたちにくれてやるものだ。俺はもう大人だ」と言って賞金を分け与え(半分をハリスンに渡し)た。その後まもなくストコフスキーが、交響曲第4番を「アイヴズ問題の核心」と呼んで、これにとり組んだ。また1940年代には、CBS交響楽団の首席指揮者を務めたバーナード・ハーマンがアイヴズ作品の普及にとり組み、この間にアイヴズ作品の擁護者となった。時が流れ、アイヴズはアメリカの独創的人物の一人と見なされるようになった。アイヴズは、芸術的な高潔さを認めたシェーンベルクや、ニューヨーク楽派の要人ウィリアム・シューマンによっても称賛された。現在では、指揮者のマイケル・ティルソン=トーマスならびに音楽学者のジャン・スワフォードJan Swaffordによって、熱心に支持されている。アイヴズ作品は、ヨーロッパでは定期的にプログラムに組まれている。同時に、アイヴズは批判を招かずには済まずにきた。その作品を、仰々しくて勿体ぶっていると感じる人は今なお多い。あるいはヨーロッパの伝統音楽の根源的な響きが、それでも現前としているというので、奇しくも、大胆さに欠けると見なす人たちもいる。ちなみに、かつての支持者エリオット・カーターは、アイヴズの作品を不完全であるといったことがあるが、これは芸術上の「父親殺し」の事例にすぎない。この不完全と言う意味は特にその矛盾に満ちたスコアに対して言われる。演奏不可能のパッセージや2本や4本の管楽器を要求しているのにそれ以上を和音が書いてあったりするのが特徴であるが、作曲者は実際の演奏行為と言うものを考えないで作曲したためにそう言うことが頻繁に起こっている。また第二・第三・第四交響曲に見られる様に作曲者でも前後の関係のはっきりしない複数の版が存在する。作曲者はその間違った音符の楽譜を「すべて正しい」として校正しないで出版した。一般素人的とも言えるプロの作曲家として経済的に全く成り立たないこう言う非常に大胆な態度はモートン・フェルドマンなどと同じく自分で別の会社を経営して成り立つ作曲行為であるが、アメリカの作曲界の革新性を一気に押し上げる事に驚嘆に貢献している。全114曲 (新旧作品のアンソロジー、1887年〜1921年作曲、1922年出版。)アイヴズ作品は同一楽曲にしばしば別々の稿があり、作者の存命中に作品の多くがおおむね無視されてきたために、作曲年代を厳密に突き止めることはしばしば難しい。そのため上記の年代は、おおよその見当を示している。アイヴズが自作を、実際の創作年代よりわざと早くミスリードした可能性も指摘されている。
出典:wikipedia
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