角番(かどばん)は、大相撲の本場所において負け越しをした場合に、その地位から陥落するという状況である。現在では、大関の地位にいる現役力士らに対して、この概念がよく用いられている。また、永く幕内に定着していた力士が負け越せば十両落ちの危機にある場合にも、この表現が適用される事が有る。但し大関と同じ三役の地位ながら、1場所の負け越しでほぼ陥落が決まる関脇・小結の現役力士に対して、「角番」という表現は殆ど用いられない。さらに新聞などでは「角」の漢字を「かく」「つの」等と読み間違えしない配慮で「カド番」「かど番」とかな字で表記する場合が多い。大相撲においては、負け越しの場合に番付が下がることが普通であるが、その地位に上がるための規則が変則的な大関については、異なる基準によってその陥落を決めている。なお、大相撲の最高位である横綱については、下位になるという規定がないため、負けが込んだ場合については、より重い「引退」という決断をしなければならない。大関の地位では、本場所で負け越しをしたその翌場所が「角番」と言われるようになる。その大関角番の場所で勝ち越しすれば、「角番を脱出する」と言う。なお大関に関して、本場所を2場所連続で負け越すと大関の地位から陥落するという制度は昭和初年に確立したが、この頃は復帰に関しての特に明確な規定は存在していなかった(1949年1月場所に関脇へ転落した汐ノ海が、1950年1月場所で再び大関に復活したのが唯一のケースである)。その後、1958年に年6場所制が実施されたときに、「3場所連続負け越し」で陥落することに定められた(この制度下での大関陥落者は、松登(昇進当時は2場所連続負越で降下)と若羽黒の二力士)。しかし「これでは甘過ぎる」という意見も出たために、1969年7月場所からは再び「2場所連続負け越し」での降下に改められた。大関が角番の場所で負け越すと、翌場所関脇に陥落が決まるものの、「関脇に転落した直後の場所に限り、取り組み日数(現在通常15日)の三分の二(同10)以上の勝星を挙げれば特例として大関に復帰できる」という「特例復帰条件(救済措置)」もその際に定められ、現在に至る。ただし関脇に転落した場所で規定数の勝星を挙げられなかった場合、大関に復帰するには新大関昇進の時と同様、三役(関脇・小結)の地位で3場所続けて優秀な成績を挙げなければならない(3場所合計33勝以上が目安)ので、9勝以下に終わった場合は、「完全に大関から陥落」となってしまう。1969年5月場所以前の「3場所連続負け越しで陥落」という制度では「負越→負越→8勝」で大関に残留出来たが、現行制度では「負越→負越→10勝」と一旦関脇陥落後に大関特例復帰と、少し厳しくなった。なお、かつて大相撲で公傷制度が実施されていた時は、公傷が認められた全休場所はカウントされず、その翌場所が角番場所となっていた。公傷制度が始まった1972年1月場所当初は、大関のみ適用外であったが、1983年5月場所からは大関も公傷適用の対象に該当された。しかしその後、場所中に公傷適用による休場力士が増加し、さらに当時の大関陣が休場すれば公傷と認定される弊害が多く出た理由もあって、2003年11月場所限りで公傷制度は廃止となった。近年角番の場所を迎えた大関は、過去に比べると殆どが勝ち越して何度も切り抜けている。そのため、大関角番の回数は更新される傾向にある。通算角番回数最多記録1位の千代大海や2位の魁皇らが、従来の記録を大幅に更新した頃から好角家の間で現行制度の見直しも論じられるようになり、横綱審議委員会から「累積5回の角番で降格や引退勧告」という具体案が出されたこともあった。しかし、日本相撲協会内部で改訂が議論される迄には至っていない。現行の大関特例復帰制度で、関脇陥落場所で10勝以上を挙げて大関に復帰した力士は三重ノ海、貴ノ浪、武双山、栃東の4人のみである。その内、三重ノ海は大関特例復帰後さらに横綱に昇進している。貴ノ浪は2度関脇に陥落しており、1度目の関脇陥落場所(2000年1月場所)は10勝5敗で大関特例復帰を果たしたが、2度目の関脇陥落場所(2000年7月場所)は7勝8敗で大関復帰を逃している。武双山は大関特例復帰後に関脇陥落はならずも大関の地位で現役引退した。栃東は2度関脇に陥落したものの、2度とも関脇陥落場所で10勝以上(2004年7月場所は10勝、2005年1月場所は11勝)を挙げ大関特例復帰を果たしたが、その後病気により大関のまま現役を断念した。また関脇陥落場所で特例復帰の10勝を挙げられずに、のちに大関復帰を果たした力士は魁傑ただ1人である。魁傑は1975年(昭和50年)11月場所で大関から関脇へ陥落決定後、一時は平幕の地位に落ちていた。次の1976年(昭和51年)9月場所では14勝1敗で平幕優勝を果たしており、同年11月場所は関脇に復活して11勝4敗、翌1977年(昭和52年)1月場所も11勝4敗で、幕内上位で3場所36勝9敗の好成績を挙げて同年3月場所に大関再昇進を果たした。しかし2度目の大関昇進から、4場所後の同年9月場所を最後に再び大関から関脇に陥落し、その後は大関再復帰は果たせず1979年(昭和54年)1月場所をもって、平幕の地位で現役を引退した。大関復帰者を除いて、関脇陥落場所で勝ち越した力士は2015年(平成27年)時点で大受・把瑠都・琴欧洲の3人である。関脇陥落場所において、大受(1974年7月場所)は9勝6敗で惜しくもあと1勝足りず、把瑠都(2013年1月場所)と琴欧洲(2014年1月場所)は8勝7敗の成績ながらも2勝足らずに、それぞれ大関特例復帰を逃した。その他の力士は大多数が負け越し又は休場により、翌場所は小結か前頭の地位へ転落となっている。雅山は関脇陥落の後、三役~平幕の地位を往復していたが、2006年(平成18年)3月に小結で10勝5敗、翌5月場所は関脇の地位で14勝1敗(優勝同点)、7月場所も関脇で10勝5敗として、三役の地位で3場所34勝11敗の成績をあげ、大関復帰目前までいった。しかし、当時大関は既に5人おり雅山も昇進させると史上初の「1場所6大関」になってしまうことや、大関昇進の直前場所で10勝留まりの成績が平成時代以降殆ど例がなかったことなどの理由から、結局再昇進が見送られた。翌9月場所も勝ち越したが9勝6敗の平凡な成績に終わり、その後も好成績をあげられず雅山の大関復活はならなかった。千代大海は、大関在位数65場所目(当時歴代1位・現在魁皇と並び1位タイ)で14回目の角番(歴代1位)だった2009年(平成21年)11月場所に、2場所連続負越で大関転落が決定。翌2010年(平成21年)1月場所は、1999年(平成11年)1月場所以来11年ぶりに関脇の地位となった。千代大海は、その関脇陥落場所で大関特例復帰を目指したが初日から3連敗(4敗目は不戦敗)、10勝以上を挙げることは困難と判断し、場所中に現役引退を表明した。
出典:wikipedia
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