英智(ひでのり、1976年5月9日 - )は、岐阜県羽島市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。からまで中日ドラゴンズでプレーした。現在は一軍外野守備・走塁コーチを務める。旧本名および旧登録名は「蔵本 英智」(くらもと ひでのり)。愛称は「ひでのり」、「クラ」など。岐阜県立岐阜商業高等学校では控え投手から中堅手のレギュラーとなる。高校卒業後、名城大学に進み、3番・中堅手として活躍。また、投手も兼任。、愛知大学野球リーグで春・秋季ベストナイン外野手に選ばれた。愛知大学リーグ通算93試合出場、310打数88安打、打率.284、2本塁打、36打点。トヨタ自動車から入社内定を得ていたものの、1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け入団。、は一軍出場なしに終わった。入団当初から俊足強肩が高く評価され、山田久志が監督だった時代には投手と外野手の兼任案が出たこともある。に初めて一軍出場すると、翌から一軍での出場機会を増やしていく。から登録名を「英智」に変更した。この年から監督に就任した落合博満が掲げた「オレ流野球」の一つ「一芸に秀でた選手が必要」を象徴する選手として、開幕から一軍の代走及び守備固めとして活躍。6月27日の対阪神戦では、葛城育郎の放った犠飛と思われた打球を、好返球で三塁走者の桧山進次郎を刺し、勝利に貢献。守備での活躍でお立ち台に立つという珍しい経験をした。また、このプレイが英智を知らしめるきっかけにもなった。徐々に出場機会が増え、福留孝介が8月にアテネオリンピック出場のため欠場、更に9月に死球による骨折で戦列を離れると、右翼手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を獲得した。左翼手・英智、中堅手・アレックス、右翼手・福留と組んだ堅守で一躍有名となった。は走塁中に肩を強打して負傷した影響もあり、打率1割にも満たない打撃不振に陥った。また代走専門選手として活躍していた澤井道久がシーズン後半から登録を抹消されたため、やむを得ず代走で起用され守備位置の関係で途中交代させられるなど、起用法が一定しなかった。8月5日の対横浜戦では、1点を追う最終回、一死満塁のチャンスに三塁走者の英智は、立浪和義の浅い右飛に迷うことなく本塁に突入。ヘッドスライディングで捕手の相川亮二のタッチをかいくぐって同点のホームインをもたらし、その後の福留の逆転満塁本塁打に繋げた。試合後、落合は「英智はプロだ」と語り、賛辞を惜しまなかった。5月10日、対日本ハム戦で、延長11回表、岡島秀樹の暴投で二塁から悠々ホームインする走塁を見せた。は李炳圭の加入でシーズン序盤は代打・代走・守備固めでの起用が多かったが、李の低迷や福留の戦線離脱、打撃好調ということもあり、中盤以降はスタメンでの起用が増加。9月26日の対巨人戦で肉離れを起こし、残りのシーズンを棒に振ってしまう(落合はその後のメンバーのやりくりについて「クラ(英智の愛称)の離脱が一番痛かった」と語っている)。シーズンオフに背番号が57から24へ変更されることが発表された。これは落合が「57ではケガが多いから」という理由からで(彦野利勝の項も参照)、新番号で心機一転を図って欲しいという願いがこめられている。また、5と7の付いていた2005年と2007年はケガをしている。も代走・守備固めとしての起用が多かったが、交流戦に入ってレギュラーだった森野将彦や李が怪我で離脱したことによってスタメン出場する機会もあった。だが、森野や李が復帰後は二軍落ちも経験するなど77試合に留まった。は、藤井淳志や新人の野本圭らの台頭もあり、開幕を二軍で迎えたが4月21日に一軍登録され、その日の対阪神戦で6番・右翼で初出場を果たした。11月29日の契約更改では、その年の打撃成績が.220であったにも関わらず、走塁や守備といった数字に現れない部分を球団に評価されて300万円増となった。しかし喜ぶはずの本人が納得せず、交渉の場で「上がる理由はなんですか?」と聞き返したという。その時に「来シーズンはお立ち台に立ちたい」という決意を述べた。は若手外野手の台頭で出場機会が減少。守備固めや代走での出場が主になったため打席に立つ機会も少なく、打率も.100と振るわなかった。8月6日の対横浜戦(ナゴヤドーム)で勝ち越しのスクイズを決めたことでお立ち台に上がり、前年オフの契約更改で述べた決意を達成した。も出場機会が少なく、同季限りでの現役引退を発表。10月5日のナゴヤドームでのシーズン最終戦の対広島戦に途中出場し、3打席凡退に終わっているが、試合後のセレモニーでは本塁から外野めがけての遠投を見せ、球は約110メートル先の右翼ポールに直撃、スタンドからのアンコールによる二投目ではライトスタンドに放り込んだ。同年のクライマックス・セのファイナルステージ(第6戦)で9回表に代走として現役最後の出場をし、チームとして2012年最後の得点を踏んだ。その得点となる安打を放ったのは、英智を尊敬し慕っていた大島洋平であった。シーズン終了後、度から中日二軍の外野守備・走塁コーチに就任。登録名は引き続き「英智」となる。からは一軍外野守備走塁コーチを務め、攻撃時には3塁コーチャーも担当する。英智の兄2人も県立岐阜商業高校で野球をしており、高校生時代は「蔵本三兄弟の三男」としてプロのスカウトに知られていた。長兄の蔵本雅由は名城大学を経て社会人野球の一光に入り、チーム創設時から長年エースとして活躍した。次兄の蔵本敬充は法政大学野球部でも野球を続け、その後はモデルに転身。英智は「野球は父親の影響で始めたが、スパルタ式の指導が嫌でずっと辞めたかった」と語っており、高校時代、強豪だった母校が甲子園に出場した時を想定し、それを機に辞める予定だったという。しかし、結果は県予選3回戦敗退。そのために辞めるきっかけがなくなってしまい、野球を続けることにしたのだった。打席登場曲は通常時がTHE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」、チャンス時が「RCサクセションの雨あがりの夜空に」である。ちなみに、以前はLINDBERGの「BELIEVE IN LOVE」であった(ランナーのいない打席では井上陽水の「Make-up Shadow」)。中日ドラゴンズのマスコットであるドアラと仲が良く、中日ドラゴンズ公式ブログではしばしば彼とドアラが会話している場面の写真が掲載されている。選手では小田幸平、また同期入団の小笠原孝と非常に仲が良い。本人曰く「球場で小田の顔を見るときが一番ほっとする」。小田は英智の引退試合で守備に入る前のキャッチボールの相手を泣きながら引き受け、また最初の遠投の際、右翼ポールに直撃しグラウンド内に跳ね返ってきた球を回収に走っている。チームにおける自身の立ち位置について、「カレーの中の福神漬けのように、一見美味しそうじゃないけど無いと様にならないタイプになりたい」と『サンデードラゴンズ』の取材で語っている。『Spoken!』のインタビュー内で、野球論を語ろうとすると数時間かかるほど詳細かつ丁寧になってしまうため、伊集院光から「さわりだけお願いします」とお願いされるほどだった。またこのインタビュー内では、野球の神様(男性)はいると発言しており、一部のプレーは野球の神様が打球が来ることをささやいてくれたので捕れたとも語っている。2002年12月に収録されたプロ野球オールスタースーパーバトル「遠投日本一決定戦」では遠投123メートルを記録して優勝している。
出典:wikipedia
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