アルタイ諸語(アルタイしょご、)は、比較言語学上たがいに関係が深いとされる言語のグループのひとつ。北東アジアから中央アジア、アナトリアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語である。これらの諸言語間の共通性は、たとえばインド・ヨーロッパ語族のように定論が確立している語族と比較すると極めて小さいと言わざるを得ない。そこで、多少存在する類似性は言語接触の結果であり、アルタイ諸語にはそもそも言語的親戚関係は存在しないとする見解と、これらの言語は一つの祖語をもつアルタイ語族というグループを構成するとする見解が対立しており、仮にアルタイ語族という説が成立するとしても、具体的にどの言語をアルタイ語族に含めるかに関して様々な見解が存在する。「アルタイ諸語」の名は、中央アジアのアルタイ山脈(阿爾泰山脈)にちなみ命名されたもの。アルタイ諸語であることが確実とされる言語グループには以下の3つがある。これらそれぞれの中での系統関係は実証されているが、これらの間の系統関係については決着を見てはいない。これらの言語グループにはいくつかの重要な共通の特徴が見られる。などの諸点である。加えて、日本語族(日本語、琉球語)と扶余語族(扶余語、濊貊語、高句麗語、百済語)および朝鮮語族(新羅語、朝鮮語、済州語)の3つをアルタイ諸語に含めることもある。テュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族のみの括りを「ミクロ・アルタイ」(Micro-Altaic)、日本語族、朝鮮語族を加えた括りを「マクロ・アルタイ」(Macro-Altaic)という。「アルタイ語族」の支持者のほとんどは、日本語族、朝鮮語族を含めることを支持している。上記特徴のうち母音調和だけは日本語と朝鮮語が欠いているものだが、朝鮮語については過去に明らかな母音調和があった(中期朝鮮語)ことが知られている。また、日本語についても、過去に母音調和を行っていた痕跡が見られるとする主張もある(上代特殊仮名遣)。アルタイ諸語を共通の祖語をもつアルタイ語族とする説は古くからあるが、母音調和を共通に行う3グループですら数詞などの基礎語彙が全く違うため、少なくとも伝統的な比較言語学の手法によってアルタイ祖語を復元し、アルタイ語族の存在を証明することは困難である。アルタイ諸語の研究は18世紀の北欧において開始され、のち20世紀前半にいたるまで北欧はアルタイ言語学の中心地のひとつであった。1730年、スウェーデンの外交官であり地理学者であった(、1676–1747)が大北方戦争の際にロシア帝国の捕虜となりユーラシア大陸を移動した経験をもとに刊行した本で、ツングース諸語・モンゴル諸語・テュルク諸語に関する記述がある。それより一世紀経つと、フィンランドの語源学者・文献学者 (, 1813–1853)は1854年の著作でアルタイ諸語にテュルク、モンゴル、満州・ツングースだけでなくフィン・ウゴル語派、サモエード諸語などのウラル語族までを含めた。19世紀から20世紀にかけてツングース諸語・モンゴル諸語・テュルク諸語を研究する学者の多くは、これらアルタイ語族をフィン・ウゴル語派やサモエード諸語などのウラル語族とあわせて考えた(ウラル・アルタイ語族説)が、ロシアの歴史言語学者セルゲイ・スタロスティン(1953–2005)がそれを否定し、現在ではこれらの考え方は棄却されている。1857年オーストリアの が日本語をウラル-アルタイ語族に位置づけ、1920年代にはフィンランドの言語学者グスターフ・ラムステッドやエフゲニー・ポリワーノフは、朝鮮語を同語族に分類した。ラムステッドのmagnum opus "Einführung in die altaische Sprachwissenschaft " (アルタイ諸語入門、'Introduction to Altaic Linguistics') が出版された。以降、 ニコラス・ポッペ、Karl H. Menges、Vladislav Illich-Svitych、Vera Cincius のツングース研究などがある。ポッペは朝鮮語について、との仮説を提出している。ロイ・アンドリュー・ミラーは、多くのアルタイ言語学者は日本語をアルタイ語族に帰属すると考えているし、またミラー自身も同様に考える、との見解を提出し、以降、日本語もアルタイ語族にあらためて再分類された。ジョーゼフ・グリーンバーグはユーラシア大語族 () を提唱したさいに、日本 ‐ アイヌ ‐ 朝鮮言語集団と他のギリヤーク語、エスキモー・アレウト語族、シベリアのチュクチ・カムチャツカ語族と区分した。いずれにせよ、このアルタイ語族という分類の理論的な問題としてまず、それが語族なのか、言語連合(独: )なのか、という問題がある。 の語彙比較分析によれば、潜在的な類縁関係を持つ同根語が15%から20%の割合で対応関係が認められた。Starostin は結論として、アルタイ諸語はインドーヨーロッパ語族やフィン・ウゴル語派といった他のユーラジア語族よりも古く、それが後世のアルタイ諸語同士における対応関係の少なさを説明する、とした。2003年には Claus Schönig はアルタイ諸語は発生的・遺伝的 () 関係において共通する基礎語彙をもっていないとした。Starostinを代表とする辞典 "の編纂過程でのAnna V. Dybo、Oleg A. Mudrak、Ilya Gruntov、Martine Robbeetsらの研究では2800個の同根語集団を抽出し、この同根語集団を基礎に音韻的対応関係、文法的対応関係、アルタイ祖語の内的再構を試みたが、他の研究者との間で議論が継続中である。Starostinらの研究(2003)における子音対応表は、同研究におけるアルタイ祖語の内的構成を踏まえて作られた。他、母音対応表、韻律対応表、形態対応表、同根語表、基礎語彙表も作られ、各表の対応関係を見ると、各諸語の対応関係が成立している。しかし、それはアルタイ語族の存在の証明とはいまだなっていない。他、突厥文字の代表的史料であるモンゴルの8世紀のオルホン碑文の対照研究からも様々な研究がなされている。アルタイ諸語を話す民族はY染色体ハプログループC2が高頻度で観察され、とりわけC-M86との関連性が想定される。ただしこのタイプはニブフやコリヤーク人でも高頻度であり、アルタイ諸語の基層にニブフ語のような古アジア諸語を想定できるかもしれない。アルタイ系民族は騎馬遊牧民が多いが、騎馬文化の起源は印欧系クルガン文化にさかのぼる。最初に南シベリアに騎馬文化をもたらした民族はトカラ語派を話したアファナシェヴォ文化の担い手である。アルタイ系民族は彼らから騎馬文化を取り入れたと考えられる。その後南シベリアではオクネフ文化が興るが、この担い手としてアルタイ系民族(テュルク系民族)が想定できる。その後イラン系アンドロノヴォ文化、スキタイ時代をへて、アルタイ系民族が中央ユーラシアで覇権を握る時代が訪れる。テュルク諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語の分化時期は明らかでないが、各々の拡散に、印欧系騎馬文化の影響があったことは明らかである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。