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荒川 (関東)

荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川である。一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定されている。水系として、流路延長173 km、流域面積2,940平方キロメートル。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mになり、日本最大である。埼玉県、山梨県、長野県の三県が境を接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、奥秩父)に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その後東に流れて大里郡寄居町で関東平野に出る。熊谷市で南南東に向きを変え、川越市で入間川を併せる。戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分ける。その後足立区で向きを変えて再び南流し、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注ぐ。この川の源流点は、2つの説がある。一つは、秩父湖の少し上流の滝川と入川の合流地点。もう一つは、上記の様に甲武信ヶ岳の埼玉県側の山腹、標高2,475mの所にある「真の沢」が源流点という説である。荒川源流の石碑は入川がそれぞれの沢に分かれる地点にある。起点は入沢と赤沢の合流点で、ここに「一級河川荒川起点の碑」がある。終点は中川との合流点で、ここに「河口から0km」のキロポストがある。この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173kmが、一級河川としての荒川である。一方、河川としての流れは「河口」からもしばらく続き、特に右岸は5kmほど下って若洲海浜公園に至る。国土交通省道路局ではArakawa riverとしており二重表現となっている。これは『地名などの固有名詞はヘボン式ローマ字で、山や川などの普通名詞は英語で表示する。ただし、慣用上固有名詞の一部として切り離せないものについては個別に検討する。』というものによる。荒川は古くから利根川の支流で、関東平野に出たのち熊谷市近辺で利根川と合流していた。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通ったが、3000年前頃からは加須市方向へ向った後、南流して東京湾へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた。荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。江戸時代初期頃は荒川は現在の元荒川の川筋を通り、越谷市・吉川市付近で利根川と合流した。1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた。荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌明治44年(1911年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは大正2年(1913年)のことである。この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が廃村となり、周辺の町村へ編入されていった。結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。当時は工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、現代のような重機はほとんどなかった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰も難工事に拍車をかけた。1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、すべて橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵 - 川口元郷間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている。戦後、1947年(昭和22年)のカスリーン台風により荒川流域は大きな被害を受け、建設省関東地方建設局(現国土交通省関東地方整備局)はダムによる洪水調節を図り、二瀬ダムが本川に建設された。1964年(昭和39年)には東京都が記録的な渇水に見舞われ(東京砂漠)、利根川より緊急的に導水を図り対処した。その後1965年(昭和40年)に秋ヶ瀬取水堰を建設、さらに荒川水系が水資源開発促進法の指定河川となり水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)が総合的な水資源開発を行った。この頃隅田川の水質汚濁が深刻化、メタンガスの沸き出る河川となり早慶レガッタまでもが中止となった。これらを解決すべく1968年(昭和43年)から利根大堰による導水で上水道供給と水質改善を図った。また上流部に滝沢ダム・浦山ダム・有間ダム・合角ダムを建設し洪水調節や上水道を確保し、笹目橋上流に荒川第一調節池を建設して緊急時の洪水調節を行った。1990年代以降は公共事業再評価の議論がなされ、都幾川に建設予定だった大野ダムの建設が1995年(平成7年)に中止となり、大洞ダム再開発事業も代替案と比較検討して事業を継続するかどうか検討されている。河口からの船舶は、秋ヶ瀬取水堰下流にある秋ヶ瀬橋までの約34kmを遡上できる。河口から約32km遡った幸魂大橋上流側右岸、埼玉県和光市新倉には桟橋があり、東京湾の製油所から小型のタンカーが運航されている。桟橋で下ろされた石油類は、パイプラインによって埼玉県朝霞市のジャパンエナジー朝霞油槽所まで運ばれている。日本では少なくなった海岸と内陸県を結ぶ水運である。かつて幸魂大橋下流側右岸にあったエクソンモービル北東京油槽所の桟橋は、同油槽所が廃止されたため、2007年3月までに撤去された。荒川の中下流域には農耕地が広がり、20世紀には東京通勤圏となって住宅開発が進んだ。そのため、幅広い荒川河川敷が自然を残す回廊として生態系にとって重要になっている。中下流沿いにみられるコウモリ類以外の哺乳類にはアズマモグラ、ハタネズミ、アカネズミ、ジネズミ、カヤネズミ、ノウサギ、タヌキ、キツネ、イタチがいる。このうちネズミ類とモグラは川沿いに限らず周りの平地に普通に生息するが、周囲の木立や草原の減少で住み処を追われた他の哺乳類にとって荒川沿いの自然は貴重である。ネズミでも、カヤネズミの生息地は河川敷の一部に狭まっている。上流部には秩父湖(二瀬ダム)などの人造湖が多くあり、首都圏の水がめの一端を担っている。また、利根川水系のダム湖で蓄えられた水は行田市の利根大堰から武蔵水路を経て荒川に落ち、荒川水系の水も加えて志木市の秋ヶ瀬取水堰で取水され、朝霞水路を通って水資源機構利根導水総合管理所秋ヶ瀬管理所の沈砂池および接合井を経て東京都水道局の朝霞浄水場と三園浄水場に導水される。埼玉県だけでなく、東京都でも広い範囲で水道水の水源となっている。荒川は特に中流域において河川敷を広く取っているため、河川の規模の割に長大な橋が数多く架けられ、道路橋では上江橋を始め、幸魂大橋・押切橋・清砂大橋・熊谷大橋・秋ヶ瀬橋・大芦橋が橋長1kmを超えている。"上流側より主要なものを示す。"荒川流域には32ヵ所を数える河岸が存在した。荒川流域には68ヵ所を数える渡船場が存在した。重要な交通路に設けられた官渡と称する公で管理された渡船場の他に、地元住民の便を図った私設の渡船場があった。冬季の渇水期には仮橋を架ける所もあった。これらの渡船場は橋梁の架設などに伴い全て廃止され、渡船場跡は河川改修や護岸工事で遺構はもちろん痕跡さえも消滅しつつある。"- これより下流は隅田川の渡しを参照 -" "17065

出典:wikipedia

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