日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される。日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した。成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を含む広域に渡っていた。大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年(713年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化はあった。また日向国について「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。1883年(明治16年)宮崎県再置の際、諸県郡が新設宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県に残った南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見えるが、日向の記載はない。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。続いて日向地域は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。『古事記』景行天皇段では、天皇の子・小碓命が熊曽討伐を命じられるという征西説話が記述されている。この中で小碓命は熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗った。『日本書紀』では景行天皇自ら熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定し、子・豊国別皇子が初代日向国造に任じられている。のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の子・日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。なお『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられたと記しており、『天皇本紀』(『先代旧事本紀』第7巻)では、豊国別皇子は日向諸県君らの祖と記している。現在の考古学では実在天皇の可能性は応神天皇以降に求められており、上記の記述は歴史的事実とはされていない。むしろ応神・仁徳の記述の伏線と捉えるのが妥当とする考えがなされている。日向地域では、弥生時代には青銅器の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが、4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している。『古事記』『日本書紀』の応神天皇・仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、こうした政治関係を背景として成立したと見られ、5世紀代に豪族が出仕したものと推測されている。6世紀から7世紀中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない。「日向国」の文献上の初見は、『続日本紀』文武天皇2年(698年)9月28日条である。成立時期は明らかでないが、律令制成立に伴い7世紀中期以降に設けられたと見られている。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から守、介、掾、目の四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。1185年(文治元年)惟宗忠久が主筋である近衛家の島津荘(南九州にあった大荘園 万寿年間(1024年~1027年)、日向国島津院を大宰府大監平季基が開拓し、関白藤原頼道に寄進したことに始まる)の下司職に補任され、島津忠久と称した。島津氏の始まりである。島津氏は1197年(建久8年)に薩摩・大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。また、忠久は島津荘の地頭職も兼任した。しかし、忠久が、1203年(建仁2年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、北条氏赤橋家に伝えられることとなった。日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏、北郷氏、新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後の大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗と真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年の木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。国府は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。現在の西都市大字右松の寺崎遺跡と推定されている。これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。その他、以下が日向国に領地を有していた。
出典:wikipedia
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