岡本 真或(おかもと しんや、1974年10月21日 - )は、京都府竹野郡網野町(現在:京丹後市)出身の元プロ野球選手(投手)。本名及びまでの登録名は岡本 真也(読み同じ)。現役時代は中日ドラゴンズ、埼玉西武ライオンズ、LGツインズ(韓国)、東北楽天ゴールデンイーグルスに在籍していた。京都府立峰山高等学校出身で、田中敏昭と同期であった。卒業後は社会人野球の佐藤工務店に入社するが、その後チームの廃部・休部などが続き、阿部企業、ヤオハンジャパン・アムウェイレッドソックスと社会人時代だけでいくつものチームを転々とした後、ヤマハで活躍した。ヤオハンジャパン時代には都市対抗野球に出場しており、同社の廃部時には既に同県の強豪・ヤマハから誘いがあったが、チームメイトとのプレーを選んでクラブチームで再出発したアムウェイレッドソックスに1年在籍した後に結局休部となり移籍した。2000年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから4巡目指名を受けて入団。1年目のシーズンは3試合に登板したが失点はなかった。は7試合に登板したが打ち込まれた。は6月8日の広島東洋カープ戦ではプロ入り初先発し、6回無失点で勝利投手となった。これがプロ入り初勝利となった。9月16日の読売ジャイアンツ戦では先発して3勝目を挙げたが、この試合ではチームは19点を挙げ大勝した。なお巨人は1試合における最多失点は19だが、この年はこの試合も含め、2回も記録してしまった。この年は中継ぎだけでなく先発で12試合投げた結果、40試合で4勝6敗防御率3.34の成績を残した。また投球回数は97回だったが、翌年以降はリリーフ専門となったため、これがプロでのシーズン最多投球回数である。から完全にリリーフに専念する。中継ぎ右腕として自己最高の63試合に登板し、防御率2.03、9勝4敗の成績を挙げてオールスターゲーム初出場、さらに最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。この年からクローザーを任された岩瀬仁紀とともに、中日中継ぎ陣のエースとしての地位を確立した。しかし、西武との日本シリーズ第3戦にアレックス・カブレラに逆転満塁ホームランを打たれ、負け投手となった。は前半戦だけでリリーフとして10勝をマークした。背筋痛で後半に離脱したが、それでも57試合に登板して防御率3.14と活躍した。、この年も中継ぎとして活躍するが、二段モーションからのフォームチェンジに苦労したこともあって、安定した状態がなかなか長続きせず、不安定な投球から打ち込まれて継投失敗となる場面がたびたび見られた。交流戦では活躍したが、同リーグとの対戦では防御率4点台と冴えなかった。また日本ハムとの日本シリーズ第2戦では1点ビハインドの8回にフェルナンド・セギノールに試合を決める2ランホームランを打たれた。、新しいフォームにも馴染んだのか、前半では防御率0点台で推移する驚異的なピッチングも見られた。後半は疲れからか打たれる場面も間々あったが、シーズンを通しては安定したピッチングで、先発陣が決して好調とは言えなかったこの年のチームを支え、チームの勝利の方程式の一角を引き続き担った。3年ぶりに60試合以上に登板して防御率2点台、リーグ3位で自己最多の38HPを記録、中日のCS制覇・日本一・アジアシリーズ制覇に貢献した。1月、FAで移籍してきた和田一浩の人的補償として埼玉西武ライオンズへ移籍。移籍後は西武の弱点でもあった中継ぎとしての役割を与えられ、5月の中旬頃までは防御率が1点台と評判通りの活躍を果たし、北京オリンピック野球日本代表の第一次候補選手に選出された。しかし、シーズン後半は山崎武司、アレックス・カブレラに本塁打を打たれるなどと大事な場面で打ち込まれるケースが目立ち、防御率が一時4点台へと悪化、そのため二軍落ちも経験した。前年ほどの安定した投球内容ではなかったが、6年連続となる40試合登板を達成した。巨人との日本シリーズでは、第2戦の9回から登板。最初の打者は打ち取ったが4番ラミレスにサヨナラホームランを打たれて敗戦投手となった。しかし、最終的にチーム2位の18ホールドを挙げて西武のリーグ優勝・日本一・アジアシリーズ制覇に貢献した。2月4日、登録名を岡本 慎也へ変更。このシーズンは打ち込まれるケースが目立ち、6月27日に二軍落ち、その後は一度も一軍へ上がることがなく10月2日に球団から戦力外通告を受けた。本人は現役続行を希望し、11月に12球団合同トライアウトを受けたがオファーがなく、同月に古巣中日時代に投手コーチを務めていた高橋三千丈の勧めもあり、高橋がコーチを務める韓国・LGツインズの入団テストを受ける。1月に正式契約。背番号は56に決定し、登録名も岡本 真或に変更した。シーズン開幕当初はリリーフとして起用され、3月27日の三星ライオンズとの開幕戦で韓国初セーブ、4月3日の対ネクセン・ヒーローズ戦で韓国初勝利をそれぞれ記録した。7月までは抑えとして起用され16セーブを記録したが、夏場から信頼を失って登板機会が減ってしまい、結局この年限りで退団。11月19日に星野仙一が東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任したことで、楽天の入団テストを受けて合格し、日本球界復帰を果たす。背番号は61に決定。しかし、二軍で24試合に登板したものの防御率は4.01で、プロ入り初の一軍登板なしに終わったため、同年10月9日に二度目の戦力外通告を受け12月2日に自由契約公示された。結局限りで現役を引退することとなり、1月21日にLG在籍時に交流のあった韓国プロ野球関連の業務を手がける室井昌也の主催で、YMCAアジア青少年センター(東京都千代田区)で引退セレモニーをかねたトークライブイベントを実施した。2012年7月に仙台市青葉区国分町でもつ鍋とうどんの飲食店を開業した。
出典:wikipedia
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