ヤルノ・トゥルーリ(, 1974年7月13日 - )は、イタリア人のレーシングドライバー。姓の は、イタリア語ではトルッリと読まれ、名は正式なイタリア語の発音では「ヤルノ」ではなく「イァールノ」が近い(イタリア語には「ヤ」行の発音が存在せず、JはIと同じ発音となるため)。フジテレビF1中継でのニックネームは「情熱ファンタジスタ」「情熱のトヨタリアン」(トヨタF1在籍時)。両親がモータースポーツ・ファンで、ヤーノ(ヤルノ)・サーリネン(1973年にモンツァで事故死したフィンランドのロードレース・グランプリチャンピオン)にちなんで命名した。このフィンランド風の名前は彼がグランプリデビューした当時、イタリア人らしくないとしてある種の混乱を引き起こした。彼の父親の熱中は他の多くの成功したレーサー同様に、彼を幼年時からカートレースへ参加させた。イタリアおよびヨーロッパカート・チャンピオンのほか、1991年には世界カート選手権を制するなど、カート界で急速に頭角を現す。1996年にドイツF3選手権チャンピオンとなった。また1996年のF3マカオグランプリでは、首位のラルフ・ファーマンがクラッシュしたため2位を走っていたトゥルーリが首位でチェッカーフラッグを受けた。トゥルーリの優勝かと思われたが、赤旗ルールが適用され、クラッシュしたファーマンが優勝者となった。1997年、ミナルディからF1デビュー。この時のチームメートである片山右京とは、以後も深い親交が続いている(デビュー当時、好タイムを出すと「ウキョウが教えてくれた通りに走った」とコメントするのが常であった)。そして7レースに出場後、第7戦カナダGPでクラッシュにより大怪我を負ったオリビエ・パニスに代わり、第8戦フランスGPよりプロストから参戦することとなった。第14戦オーストリアGPではレース中盤までトップ走行を見せるなど印象的な活躍を見せたが、次戦第15戦ルクセンブルクGPからは復帰したパニスにシートを譲ることになる。この時、チームオーナーであり元ワールドチャンピオンであるアラン・プロストは、中野信治のシートに彼を座らせたいほど才能を評価していた。この活躍により、翌1998年にはプロストのレギュラーシートを獲得。2シーズンを同チームに所属することになるが、戦闘力に劣るマシンに苦闘を強いられる。雨による混乱のレースとなった1999年のヨーロッパGPでは見事自身初の表彰台となる2位入賞を果たした。2000年は、前年に引退したデイモン・ヒルが、自身の後任に強く推薦したこともあり、ジョーダンのシートを獲得。第7戦モナコGPの予選では見事2位を獲得。迎えた決勝では、トップのミハエル・シューマッハに離されながらも2位をキープしていたが、マシントラブルによりリタイアした(シューマッハもマシントラブルでリタイアしたため,初優勝のチャンスでもあった)。なおこの年、新人であり後のチームメイトとなるジェンソン・バトンとは幾度も接触事故をおこしている(ほぼすべてバトン側に非があった)。2001年も前年と同じくマシンの信頼性の低さに悩まされ、予選では多くのグランプリでシングルグリッドを獲得するも、入賞は僅か5回に終わった。そして、ジャンカルロ・フィジケラと入れ替わる形で2002年にはルノーへ移籍することになる。2002年も前年と同様、期待を裏切られるシーズンとなる。ルノーが投入した111度のワイドバンク角エンジンのトラブルに悩まされ続け、全17戦中、リタイアは9回を数え、入賞は僅か4回にとどまった。2003年には33ポイントを上げ、第12戦ドイツGPでは移籍後初、そして4年ぶりの表彰台を獲得した。2004年は第6戦モナコGPでF1初優勝を果たすなど、前半戦は僚友アロンソを圧倒して好調であったが、徐々にチームとの関係が悪化すると共に成績も降下していく。モナコGPでの優勝の際にはルノーの会社マークにキスをしたことが話題になり、ルノー関係者からの評価も高かった。しかしルノーの母国フランスGPでは、最終ラップでルーベンス・バリチェロにパスされ表彰台を逃し、それ以降情勢が変化していった。こうした中、同年9月にはトヨタへの移籍を発表するに至るが、チームとの関係はますます悪化し、ついに第15戦イタリアGPを最後にチームを離脱した。その後、第17戦日本GP以降はトヨタから参戦した。2005年は正式にレギュラードライバーとしてトヨタから参戦。第2戦マレーシアGPで2位表彰台を獲得。このGP前に友人を亡くしており、亡き友に捧げる2位となった。その後の第3戦バーレーンGPでも2位、第5戦スペインGPでも3位と相次いで表彰台を獲得。第9戦アメリカGPではトヨタに初のポールポジションをもたらした。期待された決勝レースでは、ミシュランタイヤに問題が発覚し、ミシュラン勢は全車がレースを棄権したため、記録上はリタイアとなった。シーズンを通して開幕前の予想を覆す活躍を見せ、チーム初のコンストラクターズランキングの4位獲得に貢献した。トヨタでの2シーズン目となり飛躍が期待されたが、この年に投入された車体「TF106」は成功作とはいえず、序盤には入賞すらできなかった。その結果、第7戦モナコGPからは改良型「TF106B」が投入された。得意とするモナコGPでは終盤3位を走行する活躍を見せたものの、表彰台を目前にしながら結果はリタイアに終わった。第10戦アメリカGPでは、予選後のパーツ交換によるペナルティをうけ最後尾スタートとなったが、4位でゴールするという力走を見せた。また第12戦ドイツGPでは、トヨタと2009年までの契約延長が発表された。予選ではQ3進出の常連となったが、決勝のスタートでは出遅れることが多く、また予選と比較してレースペースが遅い・安定しないということもあり、入賞は僅かに4回にとどまった。また、このシーズンはチームラジオ(無線)でマシンバランスなどについて訴える場面が度々国際映像で取り上げられている。開幕戦オーストラリアGPでは、予選で6番手を獲得するもリタイア。しかしその後、第2戦マレーシアGPで4位、第3戦バーレーンGPで6位、第4戦スペインGPで8位と3戦連続入賞を果たす。第8戦フランスGPでは3位に入賞し、自身3年ぶりの表彰台を獲得。このグランプリの前にチームトヨタF1の初代代表オベ・アンダーソンがラリーで事故死し、彼に捧げる3位となった。最終戦ブラジルGPでは予選2番手に入る速さを見せた。しかし、天候の変化によるタイヤ交換の際にキミ・ライコネンに先行され、その後も6位走行中にハーフスピンを起こし、スクーデリア・トロ・ロッソのセバスチャン・ボーデとチームメイトのティモ・グロックにも抜かれ、最終的に8位入賞にとどまった。最終的にこの年は31ポイントを獲得し、ドライバーズランキング9位でシーズンを終えた。2009年シーズンはトヨタのマシンTF109の性能が非常によく、開幕戦オーストラリアGPではペナルティで予選タイム抹消、ピットスタートになったもののトゥルーリ3位、チームメイトのグロックも4位に入り、絶好調のスタートを切った。第4戦バーレーンGPでは、予選トヨタ1-2でトゥルーリが2005年アメリカGP以来のポールポジションを獲得した。しかし、決勝は戦略によって後退、3位となった。また、このレースで参戦206戦目にして自身初のファステストラップを記録した。中盤戦はなかなか入賞できずにいたが、トヨタの母国第15戦日本GPでは予選2位で、スタートではハミルトンに抜かれたが、最後のピットでハミルトンを逆転してトヨタの母国で初めて2位表彰台そしてトヨタF1の最後の表彰台を獲得した。この年限りでトヨタが撤退したため5年間所属していたチームを離れることになった。2010年は新規参入チームであるロータス・レーシングに移籍。マクラーレンから移籍してきたヘイキ・コバライネンとタッグを組む。冬季テストでは信頼性はあるが、速さは見せ付けていない。この年はマシンの戦闘力が不足していたため、主に新規参入した3チームの中でのトップを目指すシーズンとなった。シーズンを通した成績は予選結果ではチームメイトのコバライネンに対し11勝8敗と勝ち越したものの、決勝ではコバライネンの後ろでフィニッシュすることが多く、両者が完走してトゥルーリが前でフィニッシュしたのは第10戦イギリスGPのみであった。マシントラブルでのリタイアも多く、全19戦中完走は11戦で最高位は第16戦日本GPの13位であった。また、F1参戦14年目にして自身初のノーポイントのシーズンだった。前年からのマシンの進化が期待されたものの、既存チームに追いつける程の速さは無い状況は変わらなかったが、状況によってはぎりぎりQ2進出も可能な場合もあった。しかしチームメイトのコバライネンに対して予選では18戦中2戦でしか上回れず、Q2進出も1度も無く、まったく速さを示すことが出来なかった。決勝に於いては前半は互角の結果を残したものの、後半は負け続けてしまった。ただし13位に2回入ったためランキング上はチームメイトを上回り、コンストラクターズ選手権に於いても10位になることに貢献した。ドイツGPではリザーブドライバーのカルン・チャンドックに1戦のみとはいえシートを奪われてしまった。他のグランプリでも交代の噂が出てしまったり、2012年もチームとの契約があるにもかかわらずシートを奪われる噂が絶えないなど、ランキング以外ではあまり良いところのない一年となってしまった。チームは新たにロータスからケータハムへ名称が変更されたが引き続きレギュラードライバーとして残留した。新車CT01のテストでは最終日を担当し117周を走行した。2月17日にチームはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフの起用を発表、トゥルーリはシートを失った。チーム代表トニー・フェルナンデスはこの決定を「ヤルノの代わりにヴィタリーを入れるというのは簡単な決断ではなかった。だが、チーム全体に刺激を与えるためにも、また現実的に世界的な経済マーケットを見据えた時にこれは必要な判断だった」と語った。また、トゥルーリのシート喪失に伴って、40年ぶりにF1からイタリア人ドライバーが姿を消すことになってしまった。2014年6月、同年9月より開催されるフォーミュラE選手権にチーム代表兼ドライバーとして参戦することを発表した。これはすでに参戦を表明していたドレイソン・レーシングより参戦権を譲り受けたものである。チームの運営はスーパーノヴァ・レーシングが受け持つ。またチームメイトとしてイタリアの女性ドライバーミケーラ・セルッティを起用した。唯一のF1優勝経験者として紹介され期待されていたが、初戦からセルッティ共々後方グループに沈むことが多く全く見せ場の無いレースが続いた。第4戦ブエノスアイレスGPでついに4位入賞を果たしたが、その後も入賞圏外やリタイアが続いた。この間に第5戦からチームメイトはセルッティに代わり、元F1ドライバーのビタントニオ・リウッツィに交代している。そんな中、第8戦ベルリンGPでは突然ポールポジションを獲得。F1時代から数えると2009年バーレーンGP以来6年ぶりのポール獲得であり、周囲を大きく驚かせた。しかし決勝ではスタートこそ良かったものの、1周目であっさり2位スタートのルーカス・ディ・グラッシにかわされ、さらにチームメイトのリウッツィに抜かれた上にその後もペースが全く上がらず続々と後続に抜かれていき、最終的に2周遅れの20位最下位(全車中唯一の周回遅れ)でフィニッシュしている。その上フォーミュラEにおける初の全車完走だったため、図らずもフォーミュラE史上最低順位を記録してしまった。その後の終盤戦も見せ場を作れず、最終的なドライバーズランキングは20位。これはフル参戦ドライバーの中では最下位であり、また自身のチームもセカンドドライバー共々ポイントを稼げずランキング10位で最下位となり、F1優勝経験者としては寂しい結果で初年度のシーズンを終えた。チームはそのまま継続して『トゥルーリ・フォーミュラEチーム』の名称のまま参戦するが、ドライバーはリウッツィと前シーズンアムリン・アグリから参戦していたサルバドール・デュランの2名を起用し、自身は出走しないと発表されていた。しかし第2戦ではデュランに代わり出走することが発表されたが、2戦とも車検を通過することができず、欠場となった。そして第3戦の直前、2戦連続で車検不通過になったことが原因で様々な問題があることを考慮しフォーミュラEからの撤退を発表。惜しまれつつもチームの幕を下ろした。
出典:wikipedia
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