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原恵一

原 恵一(はら けいいち、1959年7月24日 - )は、フリーランスの日本のアニメーション監督。群馬県館林市出身。自らが作品を起し、絵コンテや脚本を手がけることが多い。群馬県の駄菓子屋を営む家庭に生まれる。4人家族で妹が1人。両親は映画好きで、テレビの洋画劇場を親と一緒によく見ていたという。小学校時代は当初は勉強はわりとできたものの、次第に追いつけなくなり、授業がつまらなくて眠くなった様子を教師から「死んだ魚のような目をしている」と評された。その頃から絵を描くことを好み、幼稚園から小学生の頃は好きだった『ゴジラ』の絵が大半だったという。もっとも小学生高学年になると『ゴジラ』からは自然に離れ、興味がなくなったとのこと。中学生時代には当初陸上部に入ったが、2年生になったときに上級生部員がほとんどいなくなり、スカウトされて水泳部に移る。深夜放送やフォークギターに熱中し、志望校の公立高校には落ちて、滑り止めの私立高校へ進学。原によると、学力の低い不良がかった生徒が多い学校のために学校生活に馴染めず、高校には「行っていただけ」と述べている。中学の頃から自転車旅行を始め、高校時代には日本海側からユースホステルに泊まったりしながら群馬まで戻ったこともあった。また、高校1年生の時に見た『ガンバの冒険』に激しく共感したことを後年述べている。美術大学には学力不足で進学できなかったものの、子供の頃から夢だった「絵を描く」仕事に就くため、アニメーションの専門学校である東京デザイナー学院へ進学。専門学校時代も『ぴあ』を片手に名画座に通いつめる。実写映画では小津安二郎、木下惠介、デヴィッド・リーン作品など、様々な作品を見て影響を受けた。しかしアニメ作品は自ら進んで見ず(周囲の影響でそれなりには見ている)、アニメ好きが好んで見るようなアニメとは距離を置いていた。アニメファンの同級生から「原はどんなアニメが好きなんだ?」と聞かれ、原作も好きだった『サザエさん』を挙げると否定されるなど、専門学校時代も、周囲とは趣味が合わない生活を送る。原は当時誘われる形で見たアニメ作品に関して、『太陽の王子 ホルスの大冒険』はそんなに面白いとは思わなかったが、学院の文化祭で見た『どうぶつ宝島』『パンダコパンダ』『長靴をはいた猫』などは「むちゃくちゃ面白かった。あれで僕はアニメーションを見直した」と述べている。また、絵の上手な生徒の多さに圧倒されたことも、演出への道を進むきっかけとなったという。東京デザイナー学院卒業後、就職活動で参加した東京ムービーの見学コースから勝手に抜け出し、『ルパン三世』演出の御厨恭輔に入社を頼む。絵コンテを描いてくるようにと言われ、『ルパン三世』の完成台本を渡される。一週間か10日ほど後に絵コンテを持参し、数週間後に紹介されたCM制作会社アドックシステムズへ入社する。1年半ほどして黒川慶二郎社長からの紹介でシンエイ動画に入社。最初は『怪物くん』で制作進行を務め、その後、『フクちゃん』の途中で『ドラえもん』に異動し、演出助手に昇格する。そして『ドラえもん』の演出としてデビュー。『ドラえもん』での演出を通じて、当時のチーフディレクターだった芝山努の緻密な絵コンテの描き込み振りに影響を受けた。藤子・F・不二雄の漫画が好きで、シンエイ動画に入る前はアニメの『ドラえもん』よりも原作の方が面白いと思っていた原は、『ドラえもん』の演出となると一日中絵コンテを考える生活になる。原が担当した『ドラえもん』のいつもより凝った構図は早くも注目され、アニメ雑誌『アニメージュ』1987年2月号に半ページの扱いで、傑作を続出させる若手演出家として紹介を受けた。今でこそ『ドラえもん』の担当演出作品はファンから絶大な支持を受けているが、当時のスタッフの中には彼の演出の手腕に難色を示した者も少なからず存在し、作画スタッフと対立を起こしたこともあった。その時に仲裁したのが総作画監督の中村英一であった。現在ドラえもんの監督である善聡一郎は「四次元ポケットのスペア」という話でのび太の悪戯に怒ったドラえもんが両手にタケコプターを持ってのび太の部屋に突入するシーンを一番の名演出とし「どっかで真似しよう」と思ったと語っている。『オバケのQ太郎』の絵コンテを何本かやった以外は数年『ドラえもん』に専念したのち、1987年に『エスパー魔美』のチーフディレクターとして抜擢され、2年半の長きに渡る仕事を務め上げた。しかし、若さ故の信頼度の低さが災いしてあちこちからクレームの嵐が来た(今でこそ20代の監督は珍しくないが、当時は異例だった)ため、ひどくストレスが溜まった。後番組『チンプイ』でもチーフディレクターの打診があったが、『魔美』終了後に東南アジアに旅行することを決め(『チンプイ』のチーフディレクターは本郷みつるになる)、『チンプイ』の絵コンテを数本切った後休職する。旅行は7ヶ月半にわたり、最終的に10ヶ月の休職ののちに復帰。復帰後は『チンプイ』の演出・絵コンテを少し手がけ、そして後番組『21エモン』の監督となるが、人気が今ひとつで39話で打ち切りとなった。1992年には『クレヨンしんちゃん』が開始。スタッフは『21エモン』までの人材がほぼスライドする形であったので、原もテレビ版・劇場版の両方で絵コンテや演出などを担当した。当初はシンエイ動画社内でも力を入れていた作品ではなく、上層部からも「26回持たせてくれ」という状態であったが、段々と視聴率が上がり、社会現象にまで至るブームとなる。原は「最初はやる気が起きなかったが、視聴率が上がるとこの仕事が面白くなって来た」と語っている。1996年10月、本郷みつるから監督をバトンタッチされ、劇場版も1997年の『暗黒タマタマ大追跡』から監督を務める。2001年の『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は各方面で話題となり、その知名度を高め、さらに、翌年2002年の『嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』では、またもや各方面で絶賛され、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で大賞を受賞。テレビアニメの映画版としては史上初かつ2012年現在唯一の受賞であり、特に日本PTA全国協議会の子供に見せたくない番組ランキング常連でもある『クレヨンしんちゃん』で、文化庁から評価を受けたことは話題となった。2003年に劇場版の監督を水島努と交代してからは徐々に関わりを薄くし、2005年『伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』(ムトウユージ監督)では絵コンテに多少関わっている程度となった。降板の理由について「自分が劇場版に関わって10作目と区切りもいいし、ネタも何とか絞り出して出来たのが『オトナ帝国』と『戦国大合戦』の2作。これ以上続けても同じことの繰り返しにしかならない」と語っている。テレビアニメの方も2004年7月には完全に監督をムトウユージに引き継がせて降板。2003年に映画監督の曽利文彦と知り合い、曽利のCGアニメ映画の脚本に抜擢され、実際に脚本も執筆したが、その企画は流れてしまった。そして盟友・茂木仁史(シンエイ動画チーフプロデューサー)と長年温めた企画である、劇場映画『河童のクゥと夏休み』が、松竹系で2007年7月28日に公開された。この作品について原は「この20年間でアニメ化したかった作品の第一位であり続けた」とコメントしている。原は80年代後半、漫画原作のアニメ化が隆盛となり、アニメオリジナル作品が無い事を嘆いていた。そこで児童文学作品を読み漁り、出会ったのが木暮正夫原作の「かっぱびっくり旅」であった。原はアニメ化の許可を得るために木暮の許へ訪れた際、内容を大幅に書き換える旨を伝えた。木暮は「クゥが再び世に出るなら」とこれを快諾。完成の10年程前に、エニックス(当時)が募集するアニメ企画に応募し佳作までに至っているが、それ以降の進展はなかった。原は『週刊少年チャンピオン』におけるインタビューにて『クレヨンしんちゃん』のテレビシリーズと劇場版を演出や監督として手掛けていた当時、本作をアニメ化することが実現出来ないと思っていた。そこで、本作でやりたいと思っていたアイデアを小出しにしていたという(『オトナ帝国の逆襲』で東京タワーが出るシーンなど)。しかし原のこの作品のアニメ化に対する熱意は変わらず、その後「しんちゃん」の成果を見た関係者から「やってみましょう」と言われ、遂にゴーサインが出された。そして、5年に及ぶ制作期間(原曰く、実質的な作業期間は2年間)を経て、世に示す運びとなる。原作者の木暮は、完成を目前にした2007年1月に死去。プレスリリース資料やムック本で、原は木暮に対して完成が遅れたことへの謝罪と感謝の弁を述べている。『戦国大合戦』以来5年ぶりの監督最新作として注目された同作も、多方面から高い評価を受け、平成19年度第11回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞したほか、アニメ作品では『千と千尋の神隠し』以来6年ぶりにキネマ旬報ベストテンに選出された。2007年3月、シンエイ動画を退社しフリーに。2009年9月には『戦国大合戦』が『BALLAD 名もなき恋のうた』(山崎貴監督)として実写映画化された。フリーとなってからの第一作は森絵都の小説『カラフル』を原作とした同名作品で、制作はサンライズ、2010年8月21日に全国東宝系で公開された。「カラフル」の映画化の企画は、サンライズの内田健二社長から原に提案されたもので、サンライズと仕事をするのはこれが初めてとなった。同作は2011年6月に開催された第35回アヌシー国際アニメーション映画祭で長編作品部門の特別賞と観客賞を受賞した。2012年、10月26日にリリースされた木下惠介監督の映画『楢山節考』のデジタルリマスター版ブルーレイディスクに収録されたオリジナル予告編の監督を手掛ける。これについて原は「若いころに木下監督の傑作群を見て以来、常に木下映画が自分にとっての最高の手本となりました。何度見てもその気持ちは変わりません」とコメントしている。2012年9月28日、木下惠介生誕100年記念映画『はじまりのみち』を自身初の実写作品として手掛ける旨が発表され、同年11月29日にクランクアップののち、2013年6月1日に公開された。2014年4月、杉浦日向子原作の漫画『百日紅』の劇場アニメを2015年公開を前提に監督として制作予定であることが報じられた。制作はプロダクション・アイジー。2014年6月に、アヌシー国際アニメーション映画祭で、プロダクション・アイジーのスタッフにより製作発表会見が開かれた。2015年4月17日に完成披露イベントが開かれ、5月9日に公開された。2015年6月に開かれた第39回アヌシー国際アニメーション映画祭で長編部門審査員賞を受賞した。本人曰く、アニメ界には友達が少ない。また、怠け者で仕事中でもよく居眠りをするのでスタッフにたびたび叱られる事があるとのこと。たまに会社を休んでは東南アジアやヨーロッパへ出かける旅行好きでもある。シンエイ動画時代の途中までは、愛好者の先輩社員に誘われて登山にもしばしば出かけていた。樋口真嗣によると原は「どんなに酒を飲んでもヘッチャラ」で、「私は完膚無きまでに叩きのめされ、夜明けの新宿駅に沈み、泣いた」と記している。携帯電話・パソコン・ファックスなどといった通信機器は一切所持しない主義である(存在否定ではなく、「もう余計なものを見たくないし身につけたくない」と述べている)。2005年の矢島晶子との対談では、その時点でも自宅の電話が黒電話であると述べている。そのため、原とコンタクトを取りたい者は非常に苦労する事が多いという。浜野保樹は初めて会う約束をした際に原が「遅れることもなく、定刻通りやってきた」と記している一方、上記の対談で原は矢島から「時間厳守してくださいね」と言われ、文中に「この対談にも原恵一は大幅に遅刻した」という注記がなされている。あるラジオ番組のゲスト出演でリスナーから「遠距離恋愛の相手からメールが来ない」という悩みの相談を受け、原は「携帯を持っていないのでその気持ちは分からないが、手紙で時間と手間をかけて相手に思いを伝えてみたらどうか」という発言をしている。ブルーハーツのファン。自ら脚本まで手がけたアニメ『エスパー魔美』の第96話「俺たちTONBI」では、ブルーハーツのポスターが登場する。原はBGMにブルーハーツの曲を使いたいと思っていたが、版権の都合で実現しなかった。エスパー魔美のイベントでは、曲を使えなかった悔しさから、シーンを無音にして、自分で曲を掛けながら鑑賞したことを語った。『カラフル』ではブルーハーツの「青空」を、miwaがカバーする形でエンディングに使用した。この他にも、井上陽水などのフォークや洋楽も愛好している。ファンタジー作品はあまり好まないが、宮沢賢治の作品は例外で、大人になってから再発見して評価するようになった。杉井ギサブロー監督による『銀河鉄道の夜』のアニメ映画も好きで「賢治の映像化作品の中で自分が見た中では一番いい」と述べ、高畑勲監督の『セロ弾きのゴーシュ』のアニメ映画についても「あれもよかった。ああいうのがあるので、生半可な気分じゃできない」と評価している。「探偵!ナイトスクープ」の大ファン。『河童のクゥと夏休み』の大阪キャンペーンで、ABCの関係者からステッカーと探偵手帳をもらっている。また、NHKの「週刊ブックレビュー」(2008年7月26日放送回)に出演した際には、おすすめ本として「探偵!ナイトスクープ アホの遺伝子」(松本修著)を紹介している。2004年の浜野保樹との対談では、「ここ10年でよかったのは『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督)と『人狼 JIN-ROH』(沖浦啓之監督)くらい」と述べ、理由を「(アニメは)ちょっと気になるのは見るのですが、「これはすごいぞ」と思えるのは好みですが、ここのところあんまりない。「何見てもうんざりする」というか(笑)」と話している。『人狼 JIN-ROH』に関しては、地味な芝居を丹念に描き、アニメの気持ち悪さがないのが良いとしている。原の言うアニメの気持ち悪さとは、「気持ち悪いキャラや、それに合わせて気持ち悪い声を出す声優や、勘違いした演出家などが放つ自意識過剰なナルシシズムとかろくでもないもの」とのこと。この発言について、原は2010年に「昔かなりはっきり言ったことがありますけど、実際はそこまで嫌ってるわけじゃないですよ」と述べている。アニメ声優に関しては、いわゆるアニメ声とオーバーな演技が苦手だとも語っている。『新世紀エヴァンゲリオン』にはハマっていたらしく、『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』のキャラクター「お色気」の担当声優に三石琴乃を起用したのも葛城ミサトを意識したキャラ設定を行っていたためで、しんのすけのことを「しんちゃん」と呼んでいるのも、主人公の碇シンジのことを「シンちゃん」と呼んでいたことからである。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』に登場するチャコについて、小林愛の声を見つけたことが自分のキャスティングの上で大きかったと述べている。小林については、『∀ガンダム』で偶然声を聞き、『しんちゃん』のスタッフで『∀ガンダム』に参加していた池端隆史を介してデモテープを聴き、決定したという。技術の発達で一人で作ったアニメでもパッケージとして売り物になる時代が来て、そういう道もこれからはあるとわかったことは評価しながらも、作品の中身が大事と考えており、新海誠の『ほしのこえ』には「僕はついていけなかった」と述べている。しばしばアニメより実写向けの人材であると評されることがあるが、何故アニメ業界に拘るのかと問われると、一生ものの難問だと苦笑しながらも、現実に存在するものを人の手で描くことで生まれる、全く違った味に惹かれている、と答えている。一方、2004年の浜野保樹との対談では「(実写でも)僕はかまわない。たまたまアニメを選んで20年以上その現場にいるので、アニメの作り方も大分解かってきている。アニメ会社に所属し続けているわけですし(引用者注:この当時はまだシンエイ動画に所属)、それでアニメを作っているということです」という発言もしている。「松竹映画の木下惠介や小津安二郎といった監督の後継者」と東京大学大学院教授の浜野保樹から評された。樋口真嗣は原を「強いトルクを持つ男」「恐ろしい男」と評しており、「そんな恐ろしい男がいる限り、私はアニメーションに関して"手伝い"以上の仕事に関わりたくないのである」と記している。また細田守は『河童のクゥと夏休み』『カラフル』の両作品において応援・評価のメッセージを寄せ、それぞれ作品の公式サイトや宣伝素材で紹介された。劇作家の中島かずきから『クレヨンしんちゃん』の劇場版について、本郷みつるがファンタジー・SF志向であるのに対し、原は日常を淡々と描くリアル志向であると評された。

出典:wikipedia

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