瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」というダンテの言葉を信条としていた。瀧川の評伝を著した京都大学教授の伊藤孝夫は、瀧川は座右の銘のとおり自己の信念を貫きとおす人生を送ったと評している。少年時代に叔父から貰った『福翁自伝』をよみ感銘を受けている。その後も愛読し、京大総長時代の1957年(昭和32年)の入学式で福沢のエピソードを引いて告辞している。京大の法学部教授であった大石義雄は、滝川を「漱石の『坊ちゃん』そのままの性格」と評している。京大で新派刑法理論に立つ勝本勘三郎の刑法総論の講義を受け、1回生の期末試験で新派刑法理論を批判し、応報刑論で答案を書いた。勝本は瀧川の答案を2回生の刑法各論の講義に際し、学生達の前で読み上げ、「この答案はなかなかおもしろいが、自分の子供の頭を思い切り殴られたようで思い切った点数があげられなかった」と言って笑ったという。滝川事件で大学を追われるが、第二次世界大戦後、大学に復帰、京都大学総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返した。特に「第2次滝川事件」と呼ばれる学生による瀧川への「暴行」事件は有名である。なお総長が理系学部から選ばれる傾向の強い京都大学(および前身の京都帝国大学)では、現在のところ、瀧川が文系学部から選出された最後の総長となっている。滝川事件後は立命館大学で講義を行なっていたが、その際新入生に対して、「困難に居てしかも、結果は人並いや人並以上なものを得るというのが、真に困難に処する道であります。諸君は決して自己弁解に陥ってはいけない。同情は人に対してするもので己に対してするものではありません」という言葉を送った。。東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーにならって国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。その立場は佐伯千仭、中山研一、平野龍一らに継承されているが、瀧川の刑法理論は、当時の左翼的・マルクス主義的な思想を背景に、階級対立社会では、罪刑法定主義が厳守されなければ、刑法が階級抑圧の手段とされてしまうとして客観主義を強調するもので、このような立場からは、社会防衛・主観主義を強調する牧野英一らの新派刑法理論が批判されるのは当然のことながら、同じ客観主義を主張する小野に対してもその道義的責任を強調する国家主義的な刑法理論は批判されることになり、このような反国家的な思想が危険思想とみなされ後に滝川事件を引き起こすきっかけとなった。瀧川家は旧岡山藩士族で、戦国武将瀧川一益に繋がるという。父・豊三郎は逓信省の下級官吏で、母・芳子は香川県の旧丸亀藩士族の娘であった。7歳のとき、大阪郵便電信局に勤務していた父を失い、弟・豊とともに鐘紡の社員であった叔父・定次に引き取られて育てられた。妻・静子の兄は三高の同級生で商工省に勤務した北村保太郎。子息は一男二女がおり、長男は元大阪高裁判事・元大阪大学教授(刑事法)の瀧川春雄。
出典:wikipedia
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