ミネソタ・ティンバーウルブズ(Minnesota Timberwolves)は、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス市に本拠を置く全米プロバスケットボール協会 (NBA) のチーム。ウェスタン・カンファレンス、ノースウェスト・ディビジョン所属。チーム名の「ティンバーウルフ(シンリンオオカミ)」はミネソタ州などに生息するオオカミの一種。「ティンバーウルブズ」を略して「ウルブズ」と呼ぶこともある。1989年にミネソタ・ティンバーウルブズ(ウルブズ)がNBAに加わる以前、ミネソタ州ミネアポリスを拠点としたチームがいくつかあった。ミネアポリス・レイカーズはNBA初期の1950年代を代表する強豪であり、ジョージ・マイカンを中心に5度の優勝を果たしたが、1960年にロサンゼルスへ移転した。1960年代末にはABAのミネソタ・マスキーズとミネソタ・パイパーズがそれぞれ1年間存在したが、以降ミネソタ州にプロバスケットボールチームはなかった。1980年代に入って以降NBAは好調に業績を伸ばし、リーグ拡張の気運が生まれていた。その結果80年代末には4チームがNBAに加入し、ウルブズもその一つだった。この時期、かつてミネアポリス・レイカーズで活躍したジョージ・マイカンを中心とした団体が、当時売却される可能性があったNBAのいくつかのチームにミネアポリス移転を働きかけたが実現しなかった。一方で地元の実業家らがミネアポリス地区にプロバスケットボールチームを設立する動きを見せ始めた。両者の協力により1988年にはミネソタ・ティンバーウルブズ結成の運びとなり、翌年よりNBAのチームとして活動を開始した。「ティンバーウルブズ」の名は投票により選ばれた。初期のウルブズではトニー・キャンベル、タイロン・コービン、アイザイア・ライダー、クリスチャン・レイトナーなどが活躍したが、1990年代末まで勝率が5割に達せずほとんどのシーズンで30勝以下であり、20勝に満たないシーズンも二度あった。1994年に地元ミネソタ出身のケビン・マクヘイルがフロント入りし、翌年実質的なジェネラルマネージャーの職に就いた。マクヘイルは1995年のNBAドラフトでケビン・ガーネットを指名し、フリップ・ソーンダーズをHCに据えた。高卒選手だったガーネットは徐々に成長し、リーグを代表する選手になった。1995年にドニエル・マーシャルと交換でトム・ググリオッタを獲得し、1996年にはステフォン・マーブリーが入団、ガーネットとともにチームを牽引したが、1998年にググリオッタがフリーエージェントとなりチームを離れると、ガーネットがチームと結んだ高額年俸の影響もあり、1999年にはマーブリーもトレードでチームを去った。以降のウルブズはテレル・ブランドン、ウォーリー・ザービアックなどの好選手を迎えたが、ガーネットの年俸が高額なためにスター選手を集められないという批判が続いた。また2000年には、1999年夏にジョー・スミスと結んだ契約がサラリーキャップ規定に反していたことが発覚し、5年間ドラフト1巡目指名権を剥奪と350万ドルの罰金処分を受けた(2003年と2005年は獲得が認められた)、マリック・シーリーが交通事故で他界するという不幸があった。1997年にウルブズは初めてプレーオフに出場したが、以降7シーズンに渡りプレーオフ1回戦で敗退を続けた。2004年、ブランドン、ジョー・スミスらを放出し、サム・キャセール、ラトレル・スプリーウェルらをトレードで獲得。地区首位の58勝24敗と躍進しガーネットはMVPを受賞、初めてプレーオフ1回戦を突破、地区決勝まで進出したが、そこでロサンゼルス・レイカーズに敗れた。翌シーズン以降のウルブズはレギュラーシーズン成績も低下し、プレーオフ出場を逃している。低迷が続いたウルブズは2007年についにガーネットをトレードに出し、ヘッドコーチに長らくアシスタントを務めてきたランディ・ウィットマンを就け、チーム再編の時期に入った。しかし、ガーネットの後継者としてアル・ジェファーソンに期待が掛かっていたが、2009-10シーズン後にユタ・ジャズへとトレードで去ったため、新たなチーム再編を強いられていた。2006年にドラフト1巡目7位で獲得したランディ・フォイ、2007年1巡目7位のコーリー・ブリューワー、2008年に1巡目5位で獲得したケビン・ラブ、2009年1巡目6位のジョニー・フリンと低迷期の財産である連続するドラフト上位指名権を活用した補強の効果を出すにも時間を要し、ヘッドコーチをカート・ランビスへと変えたところで急速には上向かず、2009-2010シーズンはついに67敗と言う惨憺たる成績へと落ち込んでいった。2010-2011シーズンも60敗以上のシーズンとなり出口は見えなかった。2011-12シーズン、ベテランコーチのリック・アデルマンを迎え、2009年のNBAドラフト1順目5位のリッキー・ルビオ加入の効果が出て26勝46敗まで持ち直し、2012-13シーズンは、アンドレイ・キリレンコらを補強し、31勝51敗と僅かずつではあるが勝率を上げていった。2013-14シーズンは、ニコラ・ペコビッチの成長もあり40勝42敗と勝ち越しまであと僅かに迫ったが、強豪犇めくウェストではプレーオフへの道は遠かった。2014年、アデルマンの引退に伴い、5月3日、かつてヘッドコーチを務めていたフリップ・ソーンダーズがウルブズの球団社長に就任し、6月5日ヘッドコーチに就任した。ウルブズは、チームの戦略に不満を訴えていたエースのケビン・ラブに別れを告げる決断を下した。2014年8月23日、ウルブズはクリーブランド・キャバリアーズ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズを交えた三角トレードを行い、ラブをキャブスに、ルック・ンバ・ア・モウテらをシクサーズに放出し、サデウス・ヤングをシクサーズから、更にキャブスから2013年のNBAドラフト1位のアンソニー・ベネットと、2014年のNBAドラフトで、キャブスが1位指名したばかりのアンドリュー・ウィギンスを獲得。チームの命運をウィギンスに託すことになった。しかしウィギンスの奮闘も実らず、2014-15シーズンはリーグワーストの16勝66敗で終了した。2015年のNBAドラフトで全体1位指名権を得たウルブズは、ケンタッキー大学のカール=アンソニー・タウンズを指名。これにウィギンス、ザック・ラヴィーンなどを加えた有望株が揃い踏みし、大きな期待が寄せられていた。ところがシーズン開幕直前、ウルブズの発展に尽力してきたフリップ・ソーンダーズ球団社長兼HCが他界するという事態に遭遇してしまう。悲しみを乗り越え再出発を図ったウルブズだったが、急遽暫定HCに昇格したサム・ミッチェルは、若きタレント陣を纏めることが出来ず、29勝53敗に終わり、ミッチェルはシーズン終了後に解任。一方でタウンズは新人王を受賞するなど、光明も見出だした。!通算勝敗 || 847|| 1,319|| .391 || ||!プレイオフ || 17 || 30 || .362 || ||太文字…殿堂入り選手 (C)…優勝時に在籍した選手 (M)…在籍時にMVPを獲得した選手 (50)…偉大な50人1990年代 (プレイオフ進出:3回)2000年代 (プレイオフ進出:5回)2010年代 (プレーオフ進出 : 0 回)なし1999年11月に、サクラメント・キングスと共に来日し東京ドームで開幕2試合を行なった。この時ジェイソン・ウィリアムスを擁するキングスの方が人気があり、1試合ずつのホームゲーム扱いだったが2試合ともキングスを応援するファンの方が多かった。しかし、試合ではエースのガーネットが、第1戦で31得点17リバウンド、第2戦で34得点12リバウンドと活躍し(ともに試合最多)、1勝1敗のタイにした。ミネソタ・ティンバーウルブズのチーム記録
出典:wikipedia
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