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厳島

厳島(いつくしま)は、日本の瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する島。通称は宮島(みやじま)、また安芸の宮島ともいう。行政区分は広島県廿日市市宮島町。松島・天橋立とならび、日本三景のひとつとして知られる景勝地である。古代から島そのものが自然崇拝の対象だったとされ、平安時代末期以降は厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性からたびたび歴史の表舞台に登場した。江戸時代中期からは、日本屈指の観光地として栄えてきた。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており、2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した。原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つとなっている。景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である。海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山(みせん)原始林は、1996年にユネスコの世界遺産に登録されている。海岸の一部が2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録された。島の最高峰・弥山(535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、それまで渡し船に頼っていた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。島の全域(周辺海域を含む)が1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年に廿日市市と合併した。正式な名称は「厳島」(国土地理院管轄)だが、「宮島」という呼称も広く使われる。「厳島」と「宮島」という呼称の使い分けについては、明確な決まりはない。観光PR上、読みやすさや漢字の平易さから「宮島」を選ぶことも多いという程度である。自治体としても、1889年に町制が施行されたときには「厳島町」であったが、戦後の1950年に「宮島町」に変更されるなどゆれがあった。一般的には、学術的な文献や行政文書では「厳島」が多く使われ、観光地として指すときには「宮島」が多く使われる傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出するために「厳島」を用いたりする例外もある。江戸時代中・後期には、両者の併存が始まっていた。一例として、浮世絵の題名における併存を挙げる。広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmにあり、対岸の本州(廿日市市阿品-大野)に寄り添うように北東から南西方向に伸び、北東方向に約9km、南西方向に約4kmの楕円形の形をしている。1周は約30km、面積は30.2km。大野瀬戸を挟み、対岸とは最も近いところで300メートルしか離れていない(フェリーの航路は1.8キロメートル)。外海側の宮島瀬戸には絵の島、大奈佐美島、能美島(江田島等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によりやや崩落して、満潮時に「蓬莱島」という島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。中国山地の断層運動によって隆起し、氷河期の終了による海面上昇で島になったと考えられている。全島が花崗岩で構成されている。平地は少なく弥山や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。東西方向と南北方向に断層が見られる。瀬戸内海気候に分類され、温暖であるが、夏は30を超す日も多くあり、また冬は太田川の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろす。これは弥山おろしと呼ばれ、冬の寒さを引き起こしている。典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイ(ハイノキの一種。高地性である)と針葉樹のモミ(西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。固有種として、ミヤジマカエデとミヤジマシモツケがある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。近年、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。中国地方に一般的に棲息するタヌキ・ニホンアナグマ・モグラ類のほか、100種を超す鳥類が確認されている。厳島のシカとサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。なお、厳島のシカは神の使い「神鹿(しんろく)」として神聖視されていたが、第二次世界大戦後に厳島を接収したGHQの兵士がハンティングの対象として撃っていたために激減した。現在島にいるシカは、GHQ撤退後に奈良公園から人為的に6頭移入されたものの子孫が含まれている。サルについては、江戸時代以前には記録がなく、古い絵巻でもサルの絵は猿回しに現れる程度で非常に少ない。このため、外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、1962年(昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために小豆島にある日本モンキーセンターからニホンザル45頭が移入されている。これに関連して、2011年(平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により愛知県犬山市へのニホンザルの移送が行われている。シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも1998年には旧宮島町が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。2000年頃の被害としては「植物の樹皮や新芽がシカにかじられる」「雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する」といったものが主であったが、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に『宮島地域シカ保護管理ガイドライン』(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。この管理対策により2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという。餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとみられる。この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。広島県に寄せられた意見には「シカが餌やり禁止で餓死に追いやられている。虐待されている」「餌やりを禁止し野生に返すのであれば、芝生の造成などにより餌を確保すべきである。山にはシカの餌となる植物が生えていない」「シカの個体数を調整するために、避妊手術で計画的に減少させるべきである」等があった。この意見に対して広島県は「廿日市市の『宮島地域シカ保護管理計画』の中に位置付けられており、県はこの計画に基づくシカの保護管理を支持しているところです」とし、虐待については確認された事実は存在しない。それでも餌やり禁止に反対する一部の動物愛護団体が入島して餌やりを続けているなど、問題は依然として継続している。昆虫の固有種として、ミヤジマトンボ "Orthetrum poecilops miyajimaenisis" (Yuki and Doi, 1938) があり、国の絶滅危惧種に指定されている(2007年版では「絶滅危惧I類(CR+EN)」。昆虫類レッドリスト (環境省)を参照)。これは中国大陸南部に分布するシオカラトンボ属の "O. poecilops" (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている。島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値は,国土地理院発行の2万5千分1地形図上では529.8メートルと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている。厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている。広島大学による考古学的調査(2004年)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代の土器や石器が数多く発見されているほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられるが、その時期以前の遺物として赤石や大川浦において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜や大川浦、御床浦において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる遺物は確認されていない。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。上述の大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の製塩土器が数多く採集されており、盛んに塩作りが行われていた事が伺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している。弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある。平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下のような和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。伝承では593年(推古天皇元年)、豪族佐伯鞍職により厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌していおり、後に厳島神主家となった。文献上の初出は811年(弘仁2年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。1146年(久安2年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、1156年(保元6年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、1241年(仁治2年)の造営による(現在の本社社殿は1571年(元亀2年)、毛利元就の再建によるもの)。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市の倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。清盛の庇護によって京の雅な文化が移入され、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、宋の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の地層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている。厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片などの遺物が出土しており、平安時代末期に平家一門によって埋納された経塚とみられている。平家の滅亡(壇ノ浦の戦いを参照)後、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は1207年(承元元年)と1223年(貞応2年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけて荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣する人は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条は1302年(乾元元年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。1300年(正安2年)に水精寺の座主坊が対岸の外宮(地御前)から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。1538年(天文7年)には厳島大願寺の僧尊海が、一切経(高麗八萬大蔵経)を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風「瀟湘八景図」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の重要文化財)を遺しており、日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている。戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされ、1555年(弘治元年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、大内氏を滅亡に追い込む(厳島の戦いを参照)。これ以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理(1571年)によるところも大きい。1587年(天正15年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが伺えるが、秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままで今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治の廃仏毀釈のときに厳島神社末社豊国神社本殿となって現在に至る。1595年(文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している。江戸時代、厳島は広島藩に4か所ある町制(広島城下・三原城下・尾道・厳島)の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは厳島神社・大聖院・大願寺の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島では平清盛以来舞楽の伝統があったところへ、毛利元就が1563年(永禄6年)に能を奉納したのを皮切りに観世太夫が演じる(1568年、永禄11年)など芸能が発展した。歌舞伎や大相撲の興行も盛んで、井原西鶴の『浮世草子』には西国三大芝居どころとして金比羅・備中宮内(吉備津神社)と並び称されている。富くじも盛んに催された。参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧誓真は、弁財天の琵琶に着想を得てしゃもじを名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、高校野球では広島県代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう雁木を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。1866年(慶応2年)8月、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。桂小五郎(木戸孝允)も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりするなどしている。1876年(明治8年)、老朽化していた海上の大鳥居が建て替えられた。これが現在の朱の大鳥居である。初代の内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、たびたび島を訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるもの。また大願寺境内には、「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する銘菓となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかったエピソードを基に発案された」という説が広く流布している(→もみじ饅頭)。島の東沖合いにある江田島に海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。1889年(明治22年)、町村制により厳島町が発足。区域は厳島全島。1897年(明治30年)8月、広島湾要塞の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌年、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは1926年(大正15年)に廃止されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。1923年(大正12年)、厳島は国の史蹟名勝に指定され、以後近代的な保護・整備体制が充実していく。第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風により島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。1950年 - 瀬戸内海国立公園の指定区域に厳島が加えられる。町名を「宮島町」に変更。1952年 - 厳島神社社殿の「昭和大修理」竣工。1959年 - 宮島水族館が開館。現在では広島県唯一の水族館である。1991年 - 台風19号により厳島神社左楽房(国宝の附指定)・能舞台(重要文化財)などが倒壊し、甚大な被害が出る。1996年 - 厳島神社が世界遺産(文化遺産)に登録される。同時に原爆ドームも登録された。2004年 - 台風18号により厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水する。近年、海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出ており、地球温暖化との関連を指摘する説もある。2005年11月3日 - 宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。ちなみに「廿日市市宮島町1-1」は、厳島神社である。厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏・毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家の棚守房顕が記した「棚守房顕覚書」(1580年(天正8年))には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い(「棚守房顕覚書」は、説明を付して1975年に宮島町から出版されている)。島全体が神域(御神体)とされたため、血や死といったケガレの忌避は顕著であった。鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、「女神の御神体内」であることから、古来より女性の仕事の象徴とされた機織りや布さらしも禁忌とされていた(山の神を参照)。「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」(房顕覚書)。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市(二十日の市)は鎌倉時代、厳島のために立った市場から発展した町である。厳島のシカは太古から生息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良の春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神の使いとして大切に扱われた。シカが家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えた。房顕覚書によると、シカを害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。サルが家に入り込んで食べ物を盗っていっても、捕まえて罰することはなかった。町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。元旦に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。戦後は数人が行うのみにまで減っていたが近年見直され、行う家や店が増えつつある。毎年8月11日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館、宮島歴史民俗資料館、広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台(2009年の船舶運輸実績(片道)は約346万人)。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。2007年から毎年1回、廿日市商工会議所により「宮島検定」が行われている。検定では、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問う問題が出題される。合格者には認定カードが発行される。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した「宮島本」(宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。最寄り駅はJR山陽本線の宮島口駅と広島電鉄宮島線の広電宮島口駅。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20km/h、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの速度制限がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される。そのため広島市街地からは西広島バイパス、山陽自動車道からは廿日市ICをそれぞれ経由して国道2号に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。JR西日本宮島フェリー(宮島連絡船)と宮島松大汽船のフェリーが、宮島口桟橋(JR宮島口駅から徒歩3分、広電宮島口駅から徒歩1分)から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は宮島港行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。広島港からは瀬戸内シーラインの高速船(所要約30分)があるほか、瀬戸内海汽船の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。アクアネット広島は、厳島神社と同様に世界遺産である原爆ドームと合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の平和記念公園近くの元安桟橋と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、大野桟橋と宮島港3号桟橋間の「宮島行大鳥居遊覧航路」を毎日運航している。またアクアネットサービスはマリーナホップと宮島の間に高速船を就航させている。島内ではかつて広電バスが運行されていたが廃止されてからは、宮島交通が「メイプルライナー」をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - 宮島水族館間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある。2012年に宮島交通は「メイプルライナー」をカープタクシー傘下の宮島カープタクシーに譲渡した。公共交通でないものでは、人力車がある。広島観光開発が紅葉谷駅から弥山山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している。1900年(明治33年)に大和田建樹によって作詞された『鉄道唱歌』第2集山陽九州編では、大和田が歴史的意義のある地において多く歌詞を割く傾向があったことから、厳島も4番にわたって歌われた。なお19番の宮島駅は、現在の宮島口駅を指す。

出典:wikipedia

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