進藤 達哉(しんどう たつや、1970年1月14日 - )は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。2014年から横浜DeNAベイスターズコーチ。高岡商高時代はクリーンナップを務め、チームメイトには尾山敦、干場崇永がいた。第69回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦の対長崎商業戦は先制適時打も放っている。3回戦は後にチームメイトとなる野村弘のいたPL学園と対戦したが敗退。非凡な守備を評価され、にドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。に新人ながら初の一軍昇格(同学年で、大洋に同期入団した盛田幸妃と野村弘も、高卒新人で一軍昇格を果たした)。からは控えとして一軍に定着し、には高橋雅裕から遊撃手の定位置を奪ってレギュラーに定着し、二けた本塁打を記録。翌には初の規定打席に到達した。翌は多くを1番打者として出場。中盤に右肩を故障し、新人の波留敏夫にポジションを奪われるもシーズン終盤に復帰。翌は主に下位打線で出場して、自身二度目の規定打席到達。、新監督の大矢明彦の内野コンバート案によって、3年連続で三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞していた石井琢朗が遊撃手に、ロバート・ローズ二塁手が三塁手に、そして進藤が二塁手にコンバートされたが、二塁手となったことで送球が逆スローになった影響から背筋を痛め、ローズも三塁で失策を多発したため、ローズを二塁に戻し進藤が三塁に収まった。しかしその後も怪我が続き、規定打席には届かなかった。からまで3連続で三塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得。は開幕から好調で、打率上位にランキングされていたが、頭部に死球を受けた後は失速する。7月8日の阪神戦、前日の7日にシーズン無失点記録と連続セーブ記録が途切れたクローザーの佐々木主浩が前日に続き1アウト2塁のピンチを招き、矢野に三遊間にヒット性の打球を打たれる。チームの絶対的な勝ちパターンが揺らいだ、シーズンのターニング・ポイントともなった場面であったが、三塁手・進藤がゴロを横っ飛びの好捕をして即座に一塁送球。アウトにしてチームの危機を救った。石井、ローズ、駒田徳広らとともに、当時12球団でも随一の守備力と呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守でチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打撃でもいずれも生涯自己最高となる打率.241、14本塁打、54打点を記録し、リーグ優勝決定試合でも勝利打点を叩き出すなど、マシンガン打線の一員として活躍した。はアルキメデス・ポゾの加入によってスタメンを外れることが多くなり規定打席未達に終わるも、打率.286を記録。当時のチーム打率の日本記録をたたき出した打線の7番打者として活躍した。オフにはFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズが獲得に乗り出したが、二塁手としての出場を強く希望していた進藤に対し、オリックスはゴールデングラブを獲得した三塁手としての起用を予定していたために交渉は破談。西武、ロッテも既に編成が終了していたこともあり一転して横浜に残留した。これに伴い、当時横浜へのFA移籍が最有力視されていた江藤智は、三塁手のポジションが重なってしまうことから、読売ジャイアンツへと移籍することになった。は右足首の故障もあり、わずか59試合の出場、打率.224、2本塁打にとどまる。に戸叶尚・新井潔と共に、小川博文・杉本友・前田和之との3対3の交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。監督の仰木彬の期待の表れとして福本豊以降事実上の永久欠番であった背番号7番を福本承諾の上でつけた。限りで現役引退。から監督の山下大輔に招聘され、古巣・横浜の内野守備コーチに就任。限りで退任し、2008年より横浜のスカウトに転出。、出身地である富山県の富山サンダーバーズのコーチに就任。、監督に昇格した。、富山の監督を退任し、DeNAのコーチに復帰した。2015年からヘッドコーチを務め、2016年は球団11年ぶりの3位に貢献した。詳細情報
出典:wikipedia
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