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御嶽山 (長野県)

御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。2014年9月27日に7年ぶりに噴火。山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063. m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。東海地方特に尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として郷土富士のように親しまれている山である。日本百名山、新日本百名山、花の百名山、ぎふ百山のひとつに選定されている。旧開田村を代表する山として飛騨頂上、旧三岳村を代表する山として剣ヶ峰が「信州ふるさと120山」のひとつに選定されている。1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社などにより日本二十五勝のひとつに選定されている。国立公園に指定されている飛騨山脈や赤石山脈と異なり、木曽山脈とともに国定公園にさえも指定されていない。長野県の御岳県立自然公園および岐阜県の御嶽山県立自然公園には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽ヒノキを主とする林業の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの滝があり、木曽川水系の源流部の山であり、その下流部である中京圏の水がめとなっている。以前は死火山や休火山であると思われていた山であるが、1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火した。気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した。2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下り、噴火警戒レベルが3に引き上げられた。遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。御嶽山は日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m) 、継子岳(2,858.9 m) 、継母岳(2,867 m) などの外輪山があり、南北約3.5 kmの山頂部による台形の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、郷土富士として「日和田富士」とも呼ばれている。なお、長野県側に寄生火山として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。火山灰の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の開田高原は蕎麦の産地として知られている。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している。2007年(平成19年)5月10日に、日本の地質百選選定委員会により「日本の地質百選」の第1期選定(全国83箇所)のひとつに選定された。御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている。1970年代以前の認識では、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われた。1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている。2014年現在、気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置されている。2001年から名古屋大学大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前の三ノ池が白濁し池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と6時間前の火口直下での地震は、その前兆現象であったとみられている。2011年(平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。1979年(昭和54年)の水蒸気爆発以前において、御嶽山は火山学者の多くと一般大衆から死火山と認識されていた。実際、当該爆発を伝える新聞見出しも『死火山大爆発』などと報道された。このことから、この時点において御嶽山は死火山であるとの認識が一般的であった。ところがこれは不正確な認識が一般的となっていたことを示しているにすぎない。例えば19世紀前半の文献には実際に噴気活動の証拠を示す現象が記録されている。また 気象庁も、1968年(昭和43年)刊行の「火山観測指針」 において御嶽山を「御岳山」として63座の活火山の一つとして掲載しており、直前の1975年(昭和50年)刊行の『日本活火山要覧』の77活火山にも包含されていた。1979年当時は、定常的な観測体制が整備されていなかったため明確な前兆現象が観測されず、また活動自体も山麓から噴気が観察できる規模ではないまま同年10月28日に水蒸気爆発を起こし、約1,000 mの高さにまで噴煙を噴出した。同日5時頃に発生した噴火は14時に最大となり、その後衰退した。噴出物の総量は約二十数万トン。噴煙は北東方向に流れ軽井沢町や群馬県前橋市にまで降灰が観測された。この噴火をきっかけとして、日本国内における火山の分類(死火山、休火山、活火山の定義)そのものが見直されるに至った。現在では「活火山」以外の用語は使用されない。御嶽火山の活動史は休止期を挟み古期と新期の2つの活動期と新期以降から現在までの静穏期の3つに分けられる。なお、各々の始まりと終わりの年代に関しては研究者により5万年程度の差違がある。また、最後のマグマ噴火は三ノ池を埋めた五ノ池のスコリア噴火と考えられているが噴火年代は不明である。古期御嶽火山は現在と同じ位置に噴火口を有する中心火山により形成された、標高3,200-3,400 mほどの安山岩、玄武岩、デイサイトにより構成される4つの火山の集合体の成層火山と考えられる。主に溶岩流を噴出する活動で顕著な火砕流痕跡が確認されない事から、活動は比較的穏やかだったと考えられている。古期火山は更に4つの活動に細分化される。約10万年前まで約30万年の活動休止期間が続く。山体は浸食を受け深い谷と和村泥流を形成。活動域からは摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される。2000年代以前は、約2万年前からはマグマを噴出しない活動が主体で静穏な期間と考えられていたが、近年の研究では最近1万年間で4回のマグマ噴火と10数回の水蒸気爆発が起きたと考えられているほか東山腹で山腹割れ目噴火も生じている。『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、774年と1892年に噴火活動があったとされているが、後の研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている。有史以降最も活発な活動は1979年に始まった。1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した長野県西部地震(M6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な山体崩壊が発生した。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した。平均80-100 km/h、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある。濁川温泉、住宅、営林署の建物を流失させ、15人が犠牲となった。1927年(昭和4年)に京都大学地理学者に田中阿歌麿が湖沼の調査を行った。御嶽山には、5つの火口湖があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、エメラルド色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にあるお盆形状の水深3.5 mの湖沼で、集水面積は湖面の数倍あり、ミクリガ池などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 cm程と大きいのが特徴である。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも雪渓が残り北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・伏流水を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は酸性度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用している。三ノ池は御嶽山で最大の池で、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 低層で9.5 である。三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされていている。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている。四ノ池は高層湿原となっていて、小川が流れており、高山植物の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の滝 (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流し小坂川となって、飛騨川に注いでいる。三ノ池のみにオンダケトビケラ(学名:"Pseudostenophylax" sp.)の幼虫が生息する。「御嶽山は滝の山である」と言われるほど、御嶽山を源とする河川には滝が多い。地形が急峻で高低差が大きいこと、独立峰で山体が大きいこと、降水量が多いこと、豊かな森林を育んでいて水が涸れることがないことなどがその成因となっている。人が近づきにくいところにあるものが多いが、黒沢口から油木尾根の遊歩道沿いにある百間滝(西野川の支流の南俣川)、開田高原の尾ノ島滝、王滝口の滝・清滝、濁河温泉付近の仙人滝・緋の滝、日本の滝百選に選ばれた根尾の滝など、比較的簡単に目にすることができる滝もいくつかある。新滝と清滝は御嶽教の行場で、新滝には洞窟がありここに籠って断食を行い滝に打たれる行場となっている。冬に新滝(落差約30 m)と清滝は氷柱となる。黒沢口四合目の霊神場周辺には、日ノ出滝、明栄滝、大祓滝、松尾滝などがあり不動明王などの神霊が祀られた行場となっている。下呂市小坂町には落差5 m以上の滝が200以上あり、多数の小坂の滝めぐりコースが紹介されている。御嶽山は北アルプス(飛騨山脈)の延長線上にあり、北アルプスに含めるという説もあるが、北側の乗鞍岳との間には稜線らしき峰々はほとんどないため、一般的には御嶽山は飛騨山脈には含まれないというのが定説である(ただし、旧乗鞍火山帯には含まれる)。しかし、間を横切る河川は1本もないのも事実であり、明確な結論は出ていない。著名登山家でも意見は分かれている。なお、ガイドブック等で日本アルプスを3つに分けて紹介する場合、中央アルプスの山数が少ないので御嶽山を中央アルプスと合わせて掲載されるケースが多々ある。このため、御嶽山を中央アルプスの山と思いこんでいる人も数多く存在するが、中央アルプスとの間には木曽川が流れており、明らかに中央アルプスには属さない。国土地理院の日本の主な山岳標高の一覧では、鎌ヶ峰までが「飛騨山脈南部」、御嶽山は「御嶽山とその周辺」とされている。御嶽山と鎌ヶ峰との鞍部には長峰峠(標高約1,350 m)がある。御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162でと記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行ったものだけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終え後登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。その後普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つのスキー場が建設された。御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、木曽御嶽神社王滝口の奥社は王滝頂上、木曽御嶽神社黒沢口の奥社は山頂の剣ヶ峰にある。1882年(明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった。御嶽神社黒沢口では太々神楽が奉納されている。遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」と呼ばれていて、鳥居などが設置された御嶽山の遥拝所がある。これらは仏教の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった。覚明行者(かくめいぎょうしゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた。出身地の愛知県春日井市立牛山小学校の校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。1818年(文政元年)10月の『連城亭随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で巡礼修行を行い行者となった。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした。1782年(天明2年)御嶽山を管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている。1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場が現存する。その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった。信者が増加し福島宿に経済効果が生まれるようになったこともあり1791年(寛政3年)6月には麓の庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、1792年(寛政4年)1月1日に許可が下された。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野で村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が1806年(文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている。御嶽山を中興開山させた先駆者とされている。普寛行者(ふかんぎょうしゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期江戸に出て剣術を学び酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山にために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。普寛行者はの辞世の句を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り)でもある。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた。その後普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まった。濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していた。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された。各講の先達の魂は霊神として、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められている。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴のひとつである。江戸時代から関東や尾張から中山道が利用されていたが、1919年(大正8年)の中央本線が全線開通すると木曽福島駅から御嶽山へ歩き始めるようになった。1923年(大正12年)に木曽森林鉄道が敷設された後、木曽福島駅から黒沢と王滝までおんたけ交通の乗合バスが利用されるようになった。1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった。現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い。御嶽教、木曽御嶽教、神進大教、神理教、禊教、大成教、神道修成派、丸山教、稲荷教、天台宗寺門派や古くは講社と呼ばれていた旧教派神道系の教団などの御嶽信仰の教団がある。御嶽教(おんたけきょう)は、奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。1984年(昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった。木曽御嶽教(きそおんたけきょう)は、1946年(昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠。1757年(宝暦7年)に松平君山が『吉蘇志畧』を刊行し、御嶽山についてと記載し、ハイマツ、コマクサ、オンダテ、オコジョなどの解説とホシガラス、ライチョウなどの鳥類の詳細なスケッチを残している。標高3,000 mを越える高山であり、木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」と歌われている。1979年の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、2002-2003年頃から若芽が確認されている。御嶽山のコマクサの昔話がある。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 haが、木曽御岳自然休養林に指定されている。田中澄江は、『花の百名山』著書で代表する花に一つとしてリンネソウを紹介した。標高1,500m以下の山麓では、ヒノキ、アスナロなどの木曽五木が見られる。1836年(天保7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に林野庁により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。3万年前の旧石器時代にオオツノシカが生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった。柳又遺跡からは石器や土器が出土している。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、クジャクチョウなどが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で特別天然記念物に指定され、環境省によりレッドリストの絶滅危惧IA類、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され絶滅が危惧されている。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している。2012年12月に、西側の前衛峰である御嶽山系の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている。山域にはイタチ、イノシシ、タヌキ、ツキノワグマ、ニホンザル、ホンドギツネなどが生息し、アトリ、イカル、キジ、キバシリ、ヒガラ、ブッポウソウなどの鳥類も豊富である。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている。開田高原ではその産地であった木曽馬が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている。チョウ目ヤガ科のオンタケクロヨトウ(学名:"Apamea ontakensis" Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する。本州の限られた山岳地帯に分布するチョウ目シャクガ科のウチジロナミシャク(学名:"Dysstroma truncata fusconebulosa" Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている。江戸時代末期に御嶽山の高山植物は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され多くの自生のものが消滅した。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に植物学者の白井光太郎が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には三好学らも採集し、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した。山の上部の森林限界の高山帯には、アオノツガザクラ、イワウメ、ウラジロナナカマド、オオヒョウタンボク、ガンコウラン、キバナシャクナゲ、クロマメノキ、コケモモ、コメバツガザクラ、タカネナナカマド、チングルマ、ハイマツ、ミネズオウ、ミヤマハンノキなどの樹木とイワギキョウ、イワツメクサ、オンタデ、クモマグサ、クロユリ、コマクサ、シラタマノキ、チシマギキョウ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、モミジカラマツなどの多くの高山植物が自生している。日本の固有種であるオンタデ(御蓼)の和名は、この山で最初に発見されたことによる。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの雑種のオンタケナナカマド(学名:"Sorbus" x "yokouchii" ex )が自生している。中腹の亜高山帯では、オオシラビソ、オガラバナ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバ、トウヒ、ナナカマド、ハリブキ、ミヤマザクラなどの樹木とオサバグサ、カニコウモリ、キソアザミ、キソチドリ、ゴゼンタチバナ、コバイケイソウ、サンカヨウ、セリバシオガマ、タケシマラン、ツバメオモト、バイカオウレン、マイヅルソウ、ムシトリスミレ、ユキザサなどの草花が自生している。下部の山地帯では、イヌブナ、カエデ類、カツラ、クリ、シラカンバ、シナノキ、ミズナラなどの落葉広葉樹とトチノキ、クロベ、サワラ、ヒノキなどの自然林の針葉樹とカラマツ、スギ、ヒノキなどの人工林、イワカガミ、クガイソウ、ササユリ、ススキ、ツルアジサイ、トリアショウマ、ホタルブクロ、マツムシソウ、ヤナギランなどの草花が分布している。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽のヒバ」とともに『日本三大美林』に選定されている。南側は現在も火山活動中であり植物相は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている。1910年に植物学者小泉源一がこの山でトリカブト属のオンタケブシ(学名:"Aconitum metajaponicum" )を採集しその和名の由来となっている。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている。多くの薬用植物が分布し江戸時代に本草学の研究が盛んに行われ、この地域を領有していた尾張藩が薬草の採取を行っていた。1716年-1735年(享保年間)に本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。1804年-1818年(文化年間)に水谷豊文が山麓を中心とする『木曽採薬記』を刊行し、山頂付近にコマクサが自生していることが記載されている。1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物のおしば帳である『木曽産草花根皮類』が刊行され、アオノツガザクラ、オヤマリンドウ、クロユリ、スミレ、チングルマ、ミズバショウなど50種類などが図鑑型式にまとめられていた。そのうちの24種が現在の和名で記載されていた。本草学が進んでいた尾張藩に属していて、山村代官により薬草の調査、栽培、管理が行われていた 。王滝口を開いた普寛行者により、『御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え。』と村人などに伝授された。1849年(嘉永2年)に王滝口を開いた普寛行者の弟子である寿光行者が、御嶽山の霊草百種を採り集め煎じて生薬としたと伝えられていて、王滝村には「百草元之碑」には同村の胡桃沢弥七と小谷文七が普寛行者の遺法を基に百草を製造したと記載されている。御嶽信仰の広がりと共に木曽御嶽の「御神薬」の百草が各地に広まった。百草は御嶽参りのお土産とされていた。南山麓では長野県製薬(御岳百草丸)と日野製薬(御嶽山日野百草丸)が、キハダの樹皮の内側の木の層の「オウバク」を主成分とした「百草丸」(胃腸薬)を製造している。この薬箱には「山三丸マーク」と呼ばれる御嶽信仰を象徴するマーク(御嶽神社や登山道の霊神碑の刻印などでも使用されている)が印刷されている。なおこの山三丸マークを使用する商標権について製薬会社間で訴訟「平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件」が行われた。明治以降は兵士の常備薬として需要が高まり、山域のキハダは昭和初期には伐採し尽くされ、他の地域や海外から輸入する事態となり現在は大半を中国のから輸入に頼っている。百草には「御嶽山の五夢草」であるコマクサ、オンタケニンジン、オウレン、トウヤク、テングノヒゲが含まれ、タカトウグサとゲンノショウコなども利用されていた伝えられている。鎌倉時代から昭和初期まで山腹から山麓にかけての森林で木曽五木などが伐採され、その伐材は木曽川を利用して川流しが行われていた。山域の森林は江戸時代には尾張藩により管理され、明治になると御料林となり、現在山域の多くは国有林となっている。その大部分が水源かん養保安林に指定されている。御岳特定地理等保護林(旧御岳垂直森林帯植物群落保護林、面積1,540 ha)などで、自然環境の維持や動植物の保護ための国有林の保護管理が行われている。千間樽国有林と胡桃島国有林の一部が、「御岳自然休養林」に指定されている。古来より信仰の対象として少数の修験者によって登られ、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。江戸時代の御嶽登山者の病気や凍死による死亡者の記録(御嶽山遭難者遺族差出証文など)が多数残されていて、1847年(弘化4年)7月16日には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きた。1868年(明治元年)に黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていてた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていた。明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まった。1894年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようになった。ウェストンと同時期にアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来訪した際に登頂し、『オカルト・ジャパン』(第1章「御嶽」)で当時の様子を記している。1907年(明治40年)の馬やかごに乗る御嶽山登山者の写真が残されている。御嶽山の登山口は木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)が昔から利用されていたが、その後日和田口が比較的新しく開かれた。1979年10月の噴火後上部の4合目までが入山規制され、1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除された。気象庁が発表する噴火警戒レベルにより入山が規制される場合がある。木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされている。3,000 mを越える高峰であるが登山口の標高が高いため日帰りで登山されることもある。麓の開田中学校や王滝中学校、下呂市の小学校などで学校登山が行われている。黒沢口などでは御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいる。1954年(昭和29年)から8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭が行われている。大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されている。積雪期の登山において難所はないものの、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山である。百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われている。各方面から登山道が開設されている。小坂口、日和田口利用者の中には、剣ヶ峰まで登らずに、飛騨頂上・継子岳あるいは、摩利支天山までの登山を目的とする登山者も多い。一ノ池を取り囲むの西側の稜線に登山道があり、剣ヶ峰からニノ池小屋へのルートの一つとなっている。以前は、王滝川の支流の濁川に沿って濁川温泉(現存せず)を経て、剣ヶ峰と継母岳の鞍部に登る松原新道があったが、1984年の長野県西部地震により発生した伝上崩れにより崩壊し、廃道となった。車道で上がれる登山口は御嶽山で最も高い標高地点(田の原、標高2,160 m)であり、山頂の剣ヶ峰への最短ルートである。途中での眺望が優れており、登山口から王滝頂上までのコースが常に上から下まで見渡せる。登山口の田の原から王滝頂上までの間には8合目と9合目に避難小屋がある。山開きに相当する開山祭は7月1日に行われる。積雪期には登山口の田の原への道路が閉鎖されるが、春先におんたけ2240のスキー場のゴンドラを利用して、雪山登山を行う例がある。1合目に国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。3合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている。5合目には子授け神霊である十二権現、6合目には眼の神様の八海山大神がある。標高約2,190 mの田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができる。覚明行者によって開かれた最も古い登山道。御嶽教、木曽御嶽本教に最も関わりの深い登山道でもある。夏には「懺悔反省、六根清浄」を唱える白衣の登拝者が見られる。有人山小屋が合目ごとにある。現在は7合目付近にロープウェーの飯森駅(標高2,150 m)ができ、王滝口登山口の田の原とほぼ同じ標高まで歩かずに登ることができるようになったため、大半の登山者がロープウェイを利用するようになったが、6合目から歩く登山者は現在でも少なくない。山開きに相当する開山祭は王滝口と同じ7月1日に行われる。1合目に大己貴命を祀った御嶽神社若宮と少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。登拝道場には多数の霊神碑が並べられていて、4合目の屋敷場には御嶽山で最大規模の霊神場があり講社単位で建てられた多数の霊神碑がある。松尾滝から油木尾根を経て百間滝から8合目の女人堂に至るルートは百間滝道と呼ばれている。百間滝には百間滝小屋があり行場となっている。木曽側の3つの登山口のうち、唯一、信仰のためでなく作られた登山道。営林署(現・森林管理署)の作業道として開かれた。距離は長いが、大自然を満喫することが出来る。水場は4合目付近に湧き水があり、それ以外は三の池まで無し。登山口の標高が低く(1,500 m)標高差が大きいため、健脚向き。剣ヶ峰へのアプローチが長いためか、現在は信仰登山者はほとんど見かけず、一般登山客が多い。このルートの山開きは、毎年6月15日に御嶽神社飛騨口里宮で開催されている。下山時に温泉を楽しめるのが魅力のコース。なお、登山口を胡桃島とし、のぞき岩避難小屋下で濁河温泉からの道と合流するコースもあるが、このコースを特に胡桃島コースと称することもある。飛騨頂上の五の池小屋は、2010年に新館が増築され収容人数が100人に倍増した。継子岳頂上を目指して登るコースで宗教登山に由来しないコースのひとつ。1998年のチャオ御岳スキー場の開発に伴い、通年運行されるゴンドラリフトの「フライングチャオ」を利用することが多くなり、旧来の登山口からの登山は減った。ゴンドラリフトを使用した場合は王滝口とほほ同じ標高(2,190 m)まで登ることができるが、継子岳から最高峰剣ヶ峰までの距離が長い。また、ルートは他のコースに比べてあまり手入れがされていない。2010年現在、フライングチャオはスキーシーズン(12月初旬 - 5月初旬)のみの運行となっており、春 - 秋の登山には利用できなくなっている。御嶽山は宗教登山が盛んであるため、山小屋も宗教施設としての側面がある山小屋が多い。五の池小屋は近代的なアルペンスタイルの山小屋である。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がある。登山道上にキャンプ指定地はないが、胡桃島口の登山口に「胡桃島キャンプ場」がある。それらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られている。また、王滝口・黒沢口の開山祭の7月1日以降の営業開始となる小屋が多く、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多い。御嶽神社・御嶽教・木曽御嶽本教は山開きを7月10日から9月10日までとしているため、その間は特に白装束の宗教登山者の宿泊利用や立ち寄り利用が多い。なお、五の池小屋は例外的に例年6月1日から10月15日までの営業と、長期間の営業を行っている。8合目と7合目の山小屋は紅葉シーズンも営業する。宗教施設としての側面が多い山小屋群の中で、五の池小屋は御嶽山では唯一アルプススタイルの山小屋である。山頂地域に多くの有人山小屋があるが、黒沢口には途中にも合目ごとに有人山小屋が営業している。二ノ池の水を飲料水などの水源としている山小屋が多く、二ノ池から遠い「五の池小屋」や7合目以下の山小屋以外の山小屋は「二の池水組合」を設立し、共同で水道施設の設置・維持・撤去を行っている。また、日頃の水源ポンプ施設の操作は「二ノ池本館」のスタッフが行っている。豊富な水を使って「二ノ池本館」「二ノ池新館」「石室山荘」「覚明堂」では、宿泊者向けの風呂を毎日用意するほか、宿泊者が少ない時のみ宿泊者にスタッフ用の風呂を提供する山小屋もある。環境問題としてトイレのし尿処理施設の改善が必要な山小屋が多い。阿蘇山に設置されているような火山活動による噴石から身を守るシェルターは設置されていない。多くの有人山小屋や山頂神社社務所では、宗教登山に使われる金剛杖に焼印を押印するサービスを有料で行っている。1891年(明治24年)に登山道の神社などで、「登山杖に記念の印を捺します」の看板が設置されこの焼印が行われていた。富士山で特にポピュラーなサービスであるが、御嶽山でも実施する山小屋を少し減らしながらも現存しており、貴重な存在である。ただ、富士山ほど押印希望者は多くなく、希望者が現われてから焼印を加熱するところが多いため、焼印に時間がかかることが多い。また、押印の料金も富士山よりも割高になっている。昭和中期までの木曽側からの御嶽山の登山者数は下表のように推計されている。2010年頃の黒沢口から入山者は年間3万人を越える程度であった。木曽川水系の源流の山であり、西側から飛騨川、東と南側から王滝川などの本流へと流れ太平洋側の伊勢湾へ流れる。剣ヶ峰の山頂には一等三角点(点名が「御岳山」、標高3,063. m)が設置されていて、一等三角点百名山のひとつに選定されている。最高点は御嶽神社の西側のある岩の標高点。日本で14番目に高い山。南東中腹の王滝村の区域は「御岳高原」と呼ばれている。独立峰であるため、周囲の多くの山からその山容を望むことができる。山頂部は広く、複数のピークから成る。濃尾平野からも北東にその大きな山容が望める。岐阜県側には前衛の山として、ぎふ百山の一つである御前山(1,646 m)と続ぎふ百山の一つである下呂御前山(1,412 m)がある。源流となる以下の河川は木曽川水系で伊勢湾へ流れる。山頂の南東13.4 kmにある王滝川の牧尾ダムの御岳湖に貯水された水は愛知県などの飲料水、工業用水及び農業用水に利用されていて、その上流部には関西電力の水力発電用の三浦ダム(山頂の南西11.0 km)がある。王滝川の支流の濁川上流部の赤川では浸食と崩落が激しく「地獄谷」と呼ばれている。南面の王滝川の支流の濁川は、1979年10月28日噴煙後地獄谷上部の火口から白いガスと火山灰で黒色となった温泉水が大量に流れ出て白く濁った。南山麓の王滝川沿いには1923年(大正12年)に竣工された木曽森林鉄道の王滝森林鉄道が敷設され、1975年(昭和50年)5月30日まで国有林の材木の運搬に利用されていた。1925年(大正14年)に御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業、おんたけ交通は山麓や御嶽山の登山口まで路線バスを運行している。1963年(昭和38年)に西山腹の名古屋営林局小坂営林署が運営する小坂森林鉄道濁河温泉線が開通し伐採した木材の運搬に利用されていたが、林道が敷設されトラックによる輸送への切り替えに伴い1971年(昭和46年)に廃止された。1966年(昭和41年)に山麓の王滝村の長野県道256号御岳王滝黒沢線から田の原までの「有料道路林道黒石線」が全線開通し、1997年(平成9年)4月1日に村道41号線(御岳スカイライン)として無料開放され、おんたけ2240のスキー場利用者、登山者、観光客などに利用されている。長野県道473号上松御岳線が南東の山麓から通じ無料化された白崩林道を経て中腹の中の湯まで通じている。東山麓を長野県道20号開田三岳福島線が通り、木曽町三岳の木曽温泉付近から御岳ロープウェイスキー場まで東山腹に「御岳ブルーライン」が通る。その鹿の瀬温泉から上部は冬期閉鎖されている。南東山麓の県道20号開田三岳福島線沿いに道の駅三岳がある。北東山麓に国道361号が通り、北山腹に岐阜県道463号朝日高根線、北西山腹に岐阜県道435号御岳山朝日線が通る。西山麓の下呂市小坂町から濁河温泉の山腹方面まで岐阜県道441号落合飛騨小坂停車場線が通り、「御嶽パノラマライン」と呼ばれている。小三笠山(標高2,029 m)の南面には御岳林道と王滝林道が通る。岐阜県側のJR東海高山本線小坂駅及び高山駅から御嶽山の登山口である濁河温泉への濃飛バス路線は2007年(平成19年)11月30日に廃止された。北側と東側の山腹には以下のスキー場があり、標高の高い位置(上部は標高2,000 m以上)にあり雪質が良く、ゴールデンウィーク頃の遅い時期まで滑走が可能である。王滝村は、村営であった旧おんたけスキー場の負債により厳しい財政状況となっている。3,000mを越える高山であるが、奥深い山中にあるため、山体全体を眺められる場所は意外と少ない。高山市中切町の「中切町付近の山より望む御嶽山」、高山市久々野町無数河の「舟山山頂道路より望む御嶽山」、高山市朝日町西洞の「鈴蘭高原より望む御嶽山」、高山市朝日町胡桃島の「胡桃島キャンプ場近く展望台より望む御嶽山」と「秋神地域より望む継子岳」が、「新高山市100景」のひとつに選定されている。独立峰である御嶽山の大きな山容を、濃尾平野(尾張や美濃)や遠方の山からなどの各方面から望むことができる。東海地方の多くの小中高等学校の校歌で山名が歌い込まれている。木曽谷では開田高原以外に麓から御嶽山を望める箇所は少ない。5月中旬ごろ、東面の9合目付近に残雪の白い背景に黒色の種をまくお爺さんの姿の雪形(ネガ型)が見られる。深田久弥は1965年(昭和39年)に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した『日本百名山』の著書で御嶽山の山容をと表現している。山上部からは東に八ヶ岳、中央アルプス、南アルプス、富士山、南に小秀山などの阿寺山地、濃尾平野、西に白山などの両白山地、北にニノ池、乗鞍岳などの北アルプスが望める。

出典:wikipedia

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