ヤークトティーガー()は、第二次世界大戦後期に開発され、実戦に投入されたドイツの重駆逐戦車である。重戦車ティーガーII の車台を延長して砲塔を撤去し、戦闘室を構築して12.8cm砲を搭載した。制式番号はSd.Kfz.186である。1943年初期、前線から「3,000メートルの距離で敵戦車を撃破可能な自走砲」を要望する声に応え、「12.8cm砲付き重突撃砲」の名で開発が始められた。開発はティーガーII とほぼ並行に進められ、同年12月から量産に入る予定だったが、製造工場のニーベルンゲン・ヴェルケ(製作所)がIV号戦車の生産に追われていたため、量産を開始したのは翌年2月からとなった。また、生産開始に伴い、正式に「ヤークトティーガー」と命名された。1945年1月までに150輌を完成させる予定だったが不可能であるとされ、1945年に入ってからの生産計画で100輌生産後にティーガーIIに生産切り替え、5月以降は(装甲戦闘車両の生産経験の無い)ユング社が生産引き継ぎ、と変更された。工場側の記録では、1944年7月から1945年4月までの生産数は82輌に留まった。48輌のみが完成したとする説もあるほか、逆に部隊配備のための輸送記録では100輌を越え、生産中に工場が爆撃されたこともあり、実際の生産数は不明確である。主砲は超重戦車マウスに搭載される予定だった巨大な128mm砲(12.8 cm PaK 44 L/55)を搭載し、射角は左右各10°ずつ、俯仰角は-7 - +15°の範囲で動かすことが可能であった。砲弾のみで28kgもの重さだったので砲弾と薬莢が分離式の装填方法がとられ、装填手は2名搭乗していた。他に、128mm砲の生産が遅れぎみであったため、代わりに71口径88mm砲(8.8cm PaK43/3 L/71)を搭載した型が計画されたが、2両が生産されたのみに終わった。主砲は移動時から戦闘態勢に入るまで、車外のトラベリング・クランプを解除するのに時間がかかる欠点があった。128mm PaK44は大戦中最強の対戦車砲であり、連合軍のいかなる戦車であろうとも撃破が可能で、建物の反対側に隠れたM4中戦車を撃破した記録もある。前面最大250mmに達する分厚い装甲と、55口径128mm戦車砲という巨大な攻撃力を兼ね備えていたが機動性は劣悪で、1日に移動できる距離が30 - 40kmであればいい方であり、2日で90km移動したことが「大記録」とみなされるほどであった。長距離の移動を列車で行う場合、スカートを外して幅の狭い履帯を装着して貨車の幅に合わせるようになっていたが、現実には列車の手配が間に合わず自走することが多かった。高い防御力の対価である大重量は、敵軍に撃破される前に、重量によるエンジンや変速器、ブレーキの故障の頻発や燃料消費が多いといった事態を引き起こした。また、行動不能になった場合の牽引も通常の牽引車では力不足で、戦闘による被撃破より、燃料切れや故障、軽度の損傷により放棄され、自爆処分された車輌の方が多かった。生産数が少ないこともあって戦局に大きな影響を与えることは出来なかったが、正面からヤークトティーガーを撃破できる連合軍の火砲は存在しなかった。ヤークトティーガーは愛称ではなく制式名称である。1943年2月から本車は開発が検討された。開発当初から「12.8cm砲付き重突撃砲」、「ティーガーHシャシーの12.8cm戦車駆逐車」等と呼称の揺れが見られる。「VI号戦車駆逐車」(Pz.Jg.VI、パンツァーイェーガーVI)という呼び方は、1944年3月4日に機甲兵総監部が作成した書類の1つに記されている。1944年2月27日に作成された陸軍参謀本部部長の書類では、ティーガーの車体を用いた重戦車駆逐車が「ヤークトティーガー」の暗号名で呼称されることを示している。1944年3月4日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ティーガーIIシャシーの55口径12.8cm対戦車砲44)との呼称が記載された。しかし、それ以後も各部局の書類上ではヤークトティーガーもしくはティーガーII戦車駆逐車など、さまざまな記載がなされている。1944年9月11日、陸軍参謀本部部長作成の書類では、部隊における名称がヤークトティーガー、書類記載上の名称はヤークトティーガー型であることが記載された。しかし、最終段階にあっても記載される名称は揺れており、1944年11月28日の告知書では戦車駆逐車ティーガー、1945年2月25日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ポルシェ式走行装置)という名称が見られる。最初のヤークトティーガーは1944年6月ミーラウの機甲猟兵教導師団へ配備された。その後、エレファントから装備転換された第653(重)駆逐戦車大隊と、1945年2月6日に編成命令が出された第512(重)駆逐戦車大隊に配備された。第653大隊はアルデンヌの戦いを援護するノルトヴィント作戦に投入されることになっていたが、連合軍の低空からの襲撃で夜間にのみ移動が可能であり、さらに長距離の移動は列車によらねばならず、その確保が遅れたり、移動途中で次々に故障するなどのトラブルにより、結局参加できたのはわずか3輌であった。一方、第512大隊はリンツのニーベルゲン工場から送られ、20輌を受領して第1中隊・第2中隊にそれぞれ10両ずつ配備し、補佐する突撃砲や対空自走砲小隊を付けた2個戦闘大隊を編成した。射撃訓練はデーレルスハイムで行われ、ルーデンドルフ橋(通称レマーゲン鉄橋)を渡ったアメリカ軍が築いた橋頭堡への攻撃に参加するが、ヤークトティーガーは少数ずつ到着次第順番に投入されてしまい、攻撃は失敗に終わった。アルバート・エルンスト中尉率いる第1中隊は残った6輌のヤークトティーガーで、撤収の援護を行う殿として活躍した。この功績でエルンストは大尉に昇進している。ジーゲン地区に後退した後、エルグステ地区に進出。エルンストの第1中隊は残余4両のヤークトティーガーに突撃砲4両、Ⅳ号戦車1両、4連装自走対空砲4両の小規模な戦闘団を編成、イーザーローンの街でアメリカ軍戦車24両を撃破するなど悩ませた末、アメリカ第1軍にルール包囲網の中では唯一堂々と降伏し、武装解除された。ティーガー戦車を駆ってソ連戦車150輌以上を撃破したドイツ国防軍戦車エース、オットー・カリウス少尉の著した『ティーガー戦車隊』(英語版題名:Tigers In The Mud) には、彼が率いた上記の第512大隊第2中隊に所属する10輌のヤークトティーガーの戦いが記録されている。戦車兵であったカリウスは1944年7月、ある村を偵察中にソ連兵に撃たれ、首を貫通される負傷を負った。しかし奇跡的に一命を取り留め、病院で治療した後の1945年からはヤークトティーガー10輌を指揮することとなった。ヤークトティーガーは全重72トンもの重駆逐戦車だが旋回砲塔を持たないため、照準を合わせるには巨大な車体を方向転換させる必要があった。このため、操向変速機、転輪、履帯に過大な負担がかかるという無理のある設計であった。また、8メートルもの長砲身はわずかな距離でもトラベリングクランプによる砲身固定をせずに走行すると、振動で砲身が揺動し、砲架のギアが摩耗して狂いによる照準誤差が発生したり、砲が使えなくなることも多かった。トラベリングクランプは車体正面の傾斜した前面に設けられており、解除するには乗員が車外に出る必要があった。しかも砲身の解除が必要になるのは戦闘中であることが多かったため、しばしば乗員を危険にさらすこととなった。それまで旋回砲塔のある戦車の指揮官であったカリウスは、全周方向に即応できないヤークトティーガーに非常に苦労させられた。さらにこれらの技術的問題に加え、1945年のドイツ軍では練度の低下が問題となった。10輌のヤークトティーガーの車長のうち、東部戦線での従軍経験のある指揮官は3人程度で、残る7割は実戦経験が無かった。一例として、うまく偽装されていた2輌のヤークトティーガーの指揮官2人は、約1.5kmという迎撃に最適な距離でアメリカ軍戦車の縦隊を発見したにもかかわらず、存在しないアメリカ軍戦闘爆撃機からの攻撃を恐れて交戦しなかったうえ、現場を放棄して撤退する始末であった。その結果、過重なヤークトティーガーは走行による負荷で2輌とも故障し、うち1輌は自爆処分された。同様の事態が再び起こることを恐れたカリウスは、部隊を指揮してジーゲン (Siegen) 谷の奥の高所から待ち伏せを行った。しかし、今度は味方であるはずのドイツ市民が谷に侵攻したアメリカ軍へ待ち伏せを通報し、カリウスの攻撃は失敗した。ヴァイデナウではアメリカ軍戦車と遭遇戦となった。このときM4戦車は直ちに家屋の裏に隠れたが、ヤークトティーガーの128mm砲は家屋を貫通してそれを撃破することに成功している。その直後、アメリカ軍機に発見されて爆撃されたが、損害は無かった。ただしその夜、後退時に爆弾のクレーターに落ちた1輌が破損した。もう1輌は、ヤークトティーガーを見たことの無いドイツの国民突撃隊が誤射したパンツァーファウストにより撃破された。ウンナを出発してイーザーローンへ向かった時、距離600メートルでアメリカ軍戦車5輌を発見し、カリウスはヤークトティーガー1輌を迎撃に送り出したが、経験の無い車長は迎撃を行えなかった。地形は坂道であったが、敵に発見される前にこれを登りきり、照準可能なよう砲の俯角をとれる場所まで下ることをしなかったため、直ちに射撃できなかったのである。その間、アメリカ軍戦車5輌中2輌は逃走し、残り3輌との砲撃戦が展開された。アメリカ軍の砲撃はいずれもぶ厚いヤークトティーガーの前面装甲を撃ち抜けなかったが、ヤークトティーガーの方も1発も反撃できなかった。この際、前面装甲を敵に向けたまま後退すべきであったが、旋回して側面をさらしたヤークトティーガーは撃破され、6人の乗員全員が戦死した。この戦闘に関してカリウスは「一番良い兵器でも、訓練された兵が扱わねば何の役にも立たない」と記録している。カリウスは、最終的には残存したヤークトティーガーの砲の破壊を命じ、アメリカ軍に投降した。以上、第512大隊第2中隊のヤークトティーガー10輌の戦果はアメリカ軍戦車1輌撃破のみで、ヤークトティーガー側は1輌が被撃破、1輌は味方の誤射で撃破され、残る8輌は戦わずして故障による放棄や自爆処分という結果に終わった。車台はティーガーII の物を基本に、128mm砲を搭載する関係で約26cm延長し、転輪の配置の間隔も変更された物を使用しているが、走行装置は2種類存在する。1つは生産初期につくられたポルシェ型で、ポルシェ社がエレファント駆逐戦車などで採用した外装式縦置きトーションバー・サスペンションを使用したものである。外観上、ポルシェ型では転輪が8枚見える(これは見えた通り8枚であり、ティーガーIやパンターは8組16枚または24枚であるので同一配置ではない)。もう1つは内装式トーションバー・サスペンションを使用したヘンシェル社製の走行装置であり、ヘンシェル型ではティーガーIIと同じく転輪が片側9組18枚である。ポルシェ型は生産コストと製造時間の短縮、整備性、重量軽減に優れると言う触れ込みで初期の車台に用いられたが、兵器局の走行装置試験で履帯が上下に脈動する問題が発生している。これは時速15km/hに達するまで乗員に不快な振動を感じさせるもので、生産第3号車にエレファント用の履帯を装着してみたが問題は解決せず、結局10輌(シャーシNo.305001 - 305011。305002はヘンシェル型)のみの生産に終わり、このうち5輌が第653重駆逐戦車大隊に実戦配備されるに留まった。
出典:wikipedia
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