紀州鉄道線(きしゅうてつどうせん)は、和歌山県御坊市にある御坊駅から西御坊駅までを結ぶ紀州鉄道の鉄道路線である。街外れにある紀勢本線御坊駅と御坊市街地とを結ぶ目的で、地元有志により1927年11月に鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣宛申請した。発起人総代の田淵栄次郎は田淵豊吉の実兄で御坊の大地主であり実家の造酒屋を継ぎ、会社経営もしていた。田淵は単身上京し鉄道省へ運動を続け、発起人総会までの諸費用を立替えるなど鉄道敷設に注力し、1928年3月に鉄道敷設免許状が下付され12月に御坊臨港鉄道が設立されると初代社長に就任した。国鉄紀勢西線紀伊由良-御坊間の開通(1929年4月21日)に間に合わせるべく準備をはじめたが、土地買収では停滞をみた。湯川村では土地所有者から土地を買収したところ小作人が耕作権を主張して補償を要求してきたため、示談をみるまで一年を費やし、御坊駅 - 御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)間の開業は1931年6月となった。その後延長工事は財界不況による資金難や一部用地の土地収用法のよる収容審査会の手続きにより遅れ、ようやく1934年8月に日高川まで開通した。営業成績であるが当初からふるわず毎年欠損を重ねていた。1935年上期にはじめて純益金を計上したが主力銀行の日高銀行の破綻とその債務棚上げ操作によるものであったという。会社は増収策として日出紡織(大和紡績)分工場の拡大を機会に西御坊より貨物線の敷設や大阪鉄道管理局のハイキングコース(「御坊大浜日ノ岬コース」)指定をうけ行楽客の誘致に努めた。一方1937年下期より政府補助金の交付を受けたものの1941年下期の累積欠損金は14,487円に達した。やがて戦時体制に入り1943年から1944年にかけて大和紡績第一・二工場が日本アルミニューム製造所に買収され軍需工場(航空機部品工場)に転換されると旅客は激増した。しかしガソリン規制によりガス発生炉装置を取付けた気動車は出力不足であり、物資不足により修理もままならず、1945年6月の御坊空襲では機関庫に直撃弾をうけて気動車2両が被災した。戦後になり国鉄よりキハニ40801の購入と蒸気機関車2両の借入、八幡製鉄所からBタンクを購入し戦後の混乱期をのりきった。ところが1953年7月には紀州大水害により日高川が氾濫し全線が冠水し復旧まで2ヶ月かかる被害をうけることになる。それでも乗客数は徐々に増加し1960年半ばには100万人を数えていた。しかし1965年前後から乗客数は減少、遅れて貨物も減少していく。さらに1970年に組合の賃上げストによる賃金の上昇もあり、バスや他事業を持たない会社にとっては致命的となった。そして1973年に東京の不動産業者に鉄道事業が買収され紀州鉄道が誕生することとなった。今でも地元では「りんこう」と呼ぶ人が多い。また、1955年から1984年までの間、西御坊駅から西方の大和紡績和歌山工場までの引込線(専用線)があり、貨物輸送を行なっていた。すべて御坊駅 - 西御坊駅間の運転で、1時間あたりの本数は日中時間帯でおおむね1本程度、朝夕の一部時間帯のみ2本の運転間隔で1日あたり23往復運転されており、主にJR紀勢本線の普通列車に接続するダイヤパターンとなっている。特急列車との接続はほとんど考慮されていない。また最終列車が西御坊発20時56分、御坊発21時10分と早い。経費削減の観点から2010年10月1日のダイヤ改正で5往復が減便されたが、2011年3月12日のダイヤ改正で以前の本数に戻っている。しかし、2012年3月17日のダイヤ改正で再び3往復の減便となった。車庫が紀伊御坊駅にある関係で、朝と夜には紀伊御坊駅 - 西御坊駅間に回送列車が設定されている。かつては紀伊御坊発着の区間列車も少数設定されていた。紀州鉄道線の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。紀州鉄道線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。