真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(外野手、遊撃手、二塁手)、野球解説者。2009年から2011年まで阪神タイガース第32代監督を務めた。名字の漢字は、本来眞弓と書くが、NPB公式サイトや阪神タイガース公式サイトなどでは、真弓と表記されている。真弓という名字は、隠岐次郎左衛門広有が後醍醐天皇から与えられた姓であり、真弓明信は、この隠岐次郎左衛門広有の子孫であるという。愛称は「ジョー」(Joe)。アメリカに野球留学した際、アメリカ人にとって「Mayumi」は発音しづらいことから、青木一三と和田博美から名づけられた。「ジョー」となったのは、アメリカにはジョージやジョーンズなどの「ジョー」のつく名前が多かったことが理由で、ものの数分で決定した。当時流行していた『あしたのジョー』とは全く関係ない。通算先頭打者本塁打歴代2位の記録を持ち、に首位打者を獲得、には一番打者として打率.322、34本塁打というクリーンアップ並みの成績を残したことなどから、「史上最強の一番打者」とも言われている。熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校が夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった。歴木中学校進学後に本格的に野球を始めるが、野球部以外の運動部も掛け持ちで参加していた。特に、陸上部では三段跳で11 m 99 cmを記録し、大会で2位に入賞したことがある。柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は、中学校時代に地元のライバル校だった羽犬塚中学校に在籍しており、地区大会の準決勝で対戦したこともあった。高校では1年次からベンチ入りし、2年次からは遊撃手のレギュラーとなった。チーム自体は「九州一の強豪」という評価を受けていたが、在学中に甲子園に出場することはなかった。若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。電電九州では、正遊撃手およびその控え選手の故障で、1年目から遊撃手のスタメンを得ることとなり、第43回都市対抗野球大会でベスト8となり日本産業対抗野球大会にも出場した。それらの活躍もあり、1972年のドラフト会議で西鉄ライオンズに3位指名されプロ入りし、1年前に入団した若菜と再びチームメイトになった。背番号は2。担当スカウトは武末悉昌。だが西鉄ライオンズは、その後すぐに経営権が移り、太平洋クラブライオンズに球団名が変更されている。5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回裏に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった。から背番号が42に変更される。本人は、スポーツ新聞の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った。に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。に、福本豊の使うタイプのバットを使用するようになり、116試合に出場する。同年のシーズン後に結婚。後に、3人の娘を授かっている。に遊撃手のレギュラーとなり、初の規定打席に到達。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた。1978年オフに田淵幸一、古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史、竹田和史とともに阪神に移籍することになる。本人は、球団が売却(→西武ライオンズ)され、チームが埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。トレードは、テレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという。移籍後の背番号は7となった。移籍一年目のから、一番・遊撃手として定着。長打力のある一番打者として活躍し、同年5月20日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)ではサイクル安打を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った。は、一番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する。は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした。には岡田彰布の故障に伴って二塁手に転向し、打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。残り10試合になった際に、首位打者のタイトルのために安藤統男監督から欠場を勧められるが、これを断固拒否し試合に出場した。も岡田が一時外野手にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。同年に、通算1,000試合出場と通算1,000安打を達成している。には再び二塁手に戻った岡田と入れ替わる形で外野手(主に右翼手)に転向。しかし同年6月9日の対横浜大洋ホエールズ戦でセカンドランナーだった真弓はかつてのチームメイト若菜と本塁で交錯し、左肋骨不全骨折で1か月弱戦線を離脱するものの、一番打者として、打率.322, 34本塁打、84打点の好成績でチームのリーグ優勝・日本一に貢献し、外野手のベストナインにも選出された。この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった。日本シリーズでは、打率.360, 2本塁打で優秀選手に選ばれた。は、7月6日の対巨人戦(甲子園)で、水野雄仁から自身2回目の5試合連続本塁打を記録。同本塁打は、阪神球団通算4,500本目の本塁打であった。同年は、2年連続の打率3割を記録、本塁打も28本放った。は、10月13日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)で、荒木大輔から通算41本目(セ・リーグでは38本目)の初回先頭打者本塁打を記録。同記録は歴代2位で、セ・リーグのみの記録としてはリーグ最多である。は、自身2度目の全試合出場を果たす。また同年には、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立している。7月23日の対巨人戦(甲子園)で、桑田真澄から本塁打を放ち通算250本塁打を達成するも、12年間続けていた100試合出場が途切れる。以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心の出場となった。同年には、代打満塁本塁打を放つなど活躍し、チーム唯一のファン投票でのオールスター出場を果たす。また、通算3,000塁打も達成している。には代打の切り札として、代打逆転満塁本塁打を放つなど活躍。代打で17安打・30打点と勝負強さを発揮した。同年の代打30打点は日本記録である。のシーズンでは、終盤からフロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して現役にこだわった。しかし交渉は決裂し、他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。なお、真弓が現役を引退したことで、「福岡時代のライオンズ」のユニフォームを着た現役選手が球界から姿を消すことになった。この年のシーズン開幕前に阪神・淡路大震災が発生し、自宅には被害がなかったが甲子園球場までの移動が困難になったため、若手選手に交じって虎風荘に寝泊まりしていたことがあった。現役引退後は朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。に大阪近鉄バファローズの打撃コーチに就任。背番号は75。当時、監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁とともに「男前首脳陣」として話題となり、地元関西の洋菓子メーカーモロゾフのバレンタインデーイメージキャラクターにも起用された。にヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦(西武ドーム)では、前の試合で退場処分を受けて出場停止だった梨田に代わって監督代行を務めた。2回途中で西武先発の松坂大輔をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたが、近鉄先発のジェレミー・パウエルが突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に吉岡雄二が同点本塁打を放つものの、その裏に松井稼頭央の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。に近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併に伴ってコーチを退任し、翌から前述の解説に復帰した。また、一時期洋服の青山のイメージキャラクターを務めており、降板後もチラシのモデルで登場している。朝日オートセンターのCMには長く出ていて、同社でイベントがあるときは、解説者時代にもゲストとして呼ばれることがあった。に阪神がリーグ優勝を逃した責任を取って監督を辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神の監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。就任時の会見で「投手を含めた、センターラインもそうだが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語った。背番号は本人の希望から太平洋入団時の2と阪神時代の7を合わせた72となり、秋季キャンプからチームの指揮に当たった。キャンプ視察などもありこの年のドラフト会議は12球団の監督の中で唯一欠席した。就任1年目のに、盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩の一塁からのコンバート、今岡誠のファーストコンバート、新外国人ケビン・メンチの右翼手固定を行ったが、成績は上向かず、自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、打線ではシーズン途中に入団したクレイグ・ブラゼルの活躍、鳥谷敬と新井の後半戦での復調、投手陣は入団以降伸び悩みが続いていた能見篤史をエースとして一本立ちさせた好材料もあり、8カード連続で勝ち越すなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げた。しかし結局、10月9日の最終戦でヤクルトに敗れ4位となり、クライマックスシリーズ出場はならなかった。は前年とは比較にならないほど打線が好調で、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率となる.2895, 3割打者5人、90打点以上5人(うち100打点以上3人)、チーム安打は1,458を記録して60年ぶりにセ・リーグ記録を更新した。オールスター前は首位で折り返したが、8・9月と2か月連続で負け越し、特にナゴヤドームでは2勝10敗と大きく負け越したことが響き、ペナントレースは2位となった。から新たに2年契約を結んだが、このシーズンは打線に前年ほどの好調さはなく、6月には最下位に沈むこともあった。同月に開かれた親会社阪神電鉄の株主総会では株主から真弓の選手起用や続投に苦言が呈される一幕もあった。その後、一時は2位まで順位を上げたものの失速し、3位争いをすることとなった。9月には、順位に関係なく来季続投との報道がなされ、一部では続投要請が出されたとも書かれたが、坂井信也オーナーは続投が既定路線であるとも述べつつも、要請自体については否定した。しかしながら、続投への反発がファンから沸き起こり、9月末の試合では応援メガホンがスタンドから投げ込まれ、10月には観戦に来ていた坂井オーナーにファンが野次を飛ばすこともあった。チームも4位に沈み、巨人とのクライマックスシリーズ出場権争いを行っていたが成績は上向かず、10月中頃に前月の報道を覆して、成績によって解任するとの報道がなされた。10月16日にレギュラーシーズン4位以下が確定して2年ぶりのBクラスとなり、同日、クライマックスシリーズに駒を進めることができなかった責任を取るとして監督を辞任することが球団から発表された。シーズン最終戦まで指揮を執り、最終的なチーム打率は2割5分5厘でリーグ1位、防御率は3位だった。カード別勝敗では優勝の中日に9勝13敗と負け越したものの、ヤクルトに14勝10敗、横浜に12勝10敗2分け、巨人とは11勝11敗2分け、広島にも12勝12敗と、数字上は中日以外とは互角、もしくは勝ち越している。しかし、最大連勝はわずか「4」と、ここぞという勝負時に勝てない試合がシーズンを通して続いた。25日の辞任会見ではBクラスに終わった理由を「監督としての力がなかった」と語った。阪神OBの江夏豊は「通算勝率は5割を上回っており、決して悪い監督ではない」とフォローする一方で、采配については問題があったと指摘している。また現役時代を通じて真弓の人間性を否定、または酷評するような記事やそういった話が一切出なかったことから、所謂「監督としては人が良すぎた」面が災いしたのではないか?と指摘されることもある。からは再び朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家を務める。初球を打って本塁打・長打になることが多かった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、福本豊に次ぐ歴代2位の記録を持っている。その為、福本豊と共に「史上最強の一番打者」として名前を挙げられることも多い。堅守・俊足の選手でもあり、3つの異なるポジション(遊撃手・二塁手・外野手)でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。また、三塁手や一塁手の守備経験もあることから、ユーティリティプレイヤーの素質も兼ね備えていた。プロ入り当初は主に守備固めとして、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続規定打席に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった。のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で加藤博一とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。ヒッティングマーチ(応援歌)の原曲は「ミッキーマウス・マーチ」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった。1980年代後半頃は、真弓の打席で外野スタンドのファンがこの曲に合わせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながら1列になって左右に移動する光景が見られた。この動きは真弓ダンスと呼ばれたが、このダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかながら揺れていることが明らかになり、スタンドが老朽化していた(耐震補強工事は阪神淡路大震災の後に行われた)こともあってこのダンスは自粛されることになった。なお、同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカの応援歌にもこの曲が使用されていた。2010年9月9日の試合で、延長10回裏にブラゼルの退場処分によって野手を使い切ったために交代する野手がいないという緊急事態が起こり、投手の西村憲を外野手として起用。なんとか引き分けに抑えた。他にも西村を2011年9月23日に代走で出場させたこともある。投手采配はすべて投手コーチの久保康生に任せていた。また、肩に故障のある金本知憲を左翼手としてスタメンで起用しつづけることにはファン、メディアから大きな批判を浴び、これが基で退任の一因になった。(詳しくは金本の項を参照)監督としては非常に疑問の声が多く、江本は、真弓がなぜ監督をしているのかと一般の人にまで聞かれたことがあると著書の「「アホ」がプロ野球を滅ぼす」に書いており、江本は、球団のいう事を聞くイエスマンだから監督にしたのではと推測している。※通算成績には2002年近鉄での監督代行1試合(敗戦)を含む全て2012年復帰
出典:wikipedia
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