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宇部市

宇部市(うべし)は、山口県西部の周防灘(瀬戸内海)に面した市。山口県西部の拠点都市の一つであり、県内では下関市、山口市に次ぎ3番目となる約17万人の人口を擁する(1km²当たりの人口密度は防府市、下松市に次ぐ県内第3位の604.0人)。本市を中心として人口約26万人の宇部都市圏が形成されているほか、福岡県北九州市などとの交流も深く、関門都市圏の一部でもある。宇部市の前身である宇部村は、江戸時代まで厚狭郡南部の半島状地形の先端部にある一寒村であったが、明治以降に宇部炭鉱での採炭が本格化したことで炭鉱都市として急速に発展した。石炭産業は後に宇部興産の一部となり、現在でも同社は本社機能の一部および主力生産拠点を市内に置いている。市の沿岸部は同社を中心とした工業地帯が形成されており、宇部港が津久見港(大分県)、苅田港(福岡県)に次いで国内3位のセメント輸出量を誇るなど、北九州工業地帯・瀬戸内工業地域の一翼を担う。炭鉱採掘とともに人口が急増したこともあり、1921年(大正11年)に村制から町制を経ずに市制に移行し、厚狭郡から離脱した。山口県内では下関市に次いで2番目の市制施行であり、村から市に直接昇格した例は全国的にも珍しい。山口県南西部の瀬戸内海側に位置する。市域は県中西部を南北に貫流する厚東川水系の下流域および有帆川水系の上流域にあたり、南は周防灘に突き出した半島状地形の先端部から、北は中国山地の丘陵地帯におよぶ。厚東川河口付近の両岸に広がる平野部および海岸沿いの平地に市街地が広がり、人口集中地区を形成する。南部の平地は大部分が海底炭田により埋め立てられた跡地であり、「鵜の島」「浜町」などの地名はその名残である。市の中部から北部にかけて穏やかな山地が広がっており、近年は工業団地や新興住宅地の建設などにより開発が進められている。また、市西部の厚南地区は「中野開作」「妻崎開作」などの地名に見られるように、大部分が稲作を目的とした干拓により開墾された地域である。このため、かつて同地区は水田が広がる田園地帯であったが、近年は国道190号沿線やゆめタウン宇部周辺を中心にロードサイド店舗の進出が活発化し、分譲マンションの建設が行われるなど市街化が著しい。かつては宇部市に属する島が複数存在したが、いずれも干拓や埋め立て等により消滅し、最後まで残った鍋島も山口宇部空港の滑走路延伸工事のため埋め立てられ1999年(平成11年)に消滅した。国土地理院の世界測地系によると、宇部市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは16.5km、南北の長さは27.4kmである。(2009年(平成21年)末)年間を通じて天気や湿度が安定し、雨も比較的少ない典型的な瀬戸内海式気候とされる。しかし、中国山地の西端部の地域に位置するため冬の季節風が完全には遮られず、他の瀬戸内海側の都市と比べると冬季の降水日数がやや多いなど日本海側気候の特徴も見られる。過去の観測史上最高気温は 35.1 ℃(2004年7月31日)で、同最低気温は -5.8 ℃(2011年1月16日)である。宇部市は全国的にも地震の発生率が低い地域であるが、台風や高潮による被害は過去に幾度か受けたことがあり、特に1942年(昭和17年)の周防灘台風や1991年(平成3年)の台風19号、1999年(平成11年)の台風18号などは本市に大きな被害をもたらした(詳細は「歴史」節を参照)。市域が南北に細長いこともあり、市街地が広がる南部の平地で降雪・積雪するのは年に数日のみである一方、小野地区や万倉地区をはじめとする北部地域では、日本海側ほどではないものの南部より降雪・積雪は多い。過去に豪雪の被害を受けたことがあり、昭和38年1月豪雪期間中の1963年(昭和38年)1月23日には山口県立宇部農業高等学校(現・山口県立宇部西高等学校)前で積雪21cmが観測されたほか、市内では最大50cmの積雪を記録した。1968年(昭和43年)2月16日の豪雪では電柱が折れるなどして市内全体のうち7割の世帯や事業所が停電した。2009年(平成21年)7月19日から同年7月26日にかけて発生した平成21年7月中国・九州北部豪雨の際には、7月21日に10分間あたりの降水量では観測史上最大となる 28.5mmを記録した。市内では北部地域を中心に被害を受け、小野地区で土石流等の土砂災害が多発したほか、二俣瀬地区や厚東地区では厚東川の水位上昇による水害が発生し、各地で道路の寸断が生じた。気象庁が天気予報を発表する際の一次細分区域は「山口県西部」、警報や注意報の発表に用いる二次細分区域は「宇部・山陽小野田」に含まれる。2015年10月現在、久保田后子が市長を務める。2009年(平成21年)6月28日執行の宇部市長選挙で初当選した。選挙の結果は以下のとおりであった。歴代宇部市長の就任・退任年月日および経歴等は以下の通り。宇部市議会議員の定数は28人で、現員も同数である任期は2015年(平成27年)5月1日から2019年(平成31年)4月30日まで。2015年5月20日現在の会派構成は以下の通り。宇部市の行政機構は2009年(平成21年)12月25日に改められ、総務管理部、総合政策部、市民環境部、健康福祉部、産業経済部、土木建築部、下水道部の7部および公園整備局、工事検査室に再編された。"[表示]をクリックすると一覧を表示"宇部市役所の位置は、1955年(昭和30年)11月24日に現在地(宇部市常盤町一丁目7番1号)と定められた。本庁舎の他に、小串庁舎、港町庁舎を置く。このほか宇部市では、市長権限を分掌する施設として総合支所を1箇所、市民センター(支所)を7箇所、出張所を2箇所設置している。かつて都市ガス供給事業を行っていたが、2014年(平成26年)に民営化し、山口合同ガスに事業を継承した。地名の由来については諸説あり、以上の3説が主なものである。12世紀の歌集「散木奇歌集」で源俊頼が詠んだ歌の中に、「むべ」「むへ」という地名があり、これが文字の記録として歴史上初めて宇部の地名が登場したものであるとされる。また、1335年(建武2年)に厚東武実が持世寺に土地を寄進した際の書状「厚東武実寄進状案」(持世寺文書)には、漢字の「宇部」という地名が初めて登場している。1921年(大正10年)の市制施行以来、宇部市は周辺の町村を編入合併することにより市域を拡大してきた。宇部市として最初の合併である1931年(昭和6年)の厚狭郡藤山村編入を皮切りに、1941年(昭和16年)に厚東川対岸の厚狭郡厚南村を編入、1943年(昭和18年)には吉敷郡西岐波村と合併した。なお、かつて長門国に属していた宇部市(当時)と周防国に属していた西岐波村が合併したことにより、現在の宇部市は市域内に旧国境が通っている。1953年(昭和28年)から1961年(昭和36年)に至る「昭和の大合併」の動きの中においては、1954年(昭和29年)に宇部市が厚狭郡の厚東村、二俣瀬村、小野村および吉敷郡東岐波村を編入合併したほか、1955年(昭和30年)には厚狭郡の船木町、万倉村、吉部村が合併し楠町が誕生した。また、1999年(平成11年)年から2000年代前半期を中心とした「平成の大合併」の動きの中においては、2001年(平成13年)7月9日に周辺の小野田市、美祢市、阿知須町、楠町、山陽町、美東町、秋芳町(いずれも当時)とともに「宇部小野田地域市町村合併調査研究会」を設置した。その後、2002年(平成14年)12月27日には前述の3市5町から美祢市および美祢郡を除く宇部市、小野田市、阿知須町、楠町、山陽町の2市3町(宇部市の5%通勤圏)で構成する任意合併協議会を設置し特例市への移行を目指したが、新市の名称や市庁舎の位置について意見が割れ、同協議会は2003年(平成15年)1月20日に休会となった。休会直後の2月4日には宇部市、阿知須町、楠町の1市2町からなる「宇部市・阿知須町・楠町合併研究会」が発足したが、阿知須町が「山口県央部合併協議会」への参加を表明したため、2月24日に宇部市と楠町の1市1町で「宇部市・楠町合併研究会」を設置した。上記の動きの中で、宇部市と楠町は「将来的に宇部小野田地域を視野に入れた広域合併を目指す」との共通理解のもと、あくまで「先行合併」を行うとの位置づけで「宇部市・楠町合併協議会」を設置し、約1年間の協議の後2004年(平成16年)3月26日に合併協定書の調印を行い、同年11月11日に宇部市が楠町を編入した。結果、平成の大合併において最初の動きとなった宇部小野田地域市町村合併調査研究会の構成市町は、最終的に宇部市、山陽小野田市(小野田市、山陽町)、美祢市(美祢市、美東町、秋芳町)、山口市(阿知須町)の4市に分散した。2005年(平成17年)に実施された第18回国勢調査によると市内の15歳以上就業者総数85,543人に対し、第一次産業へ2,947人、第二次産業へ23,774人、第三次産業へ56,824人が就業している。宇部興産を中心とした重化学工業を基幹産業としており、製造品出荷額は山口県内第5位の 48,131,355万円である(詳細は「工業」節を参照)。商業面では、1990年代以降における郊外への大型商業施設の出店攻勢の影響で中心部の商店街が衰退した一方、幹線道路沿線などへのロードサイド店舗の出店は盛んに行われており、市内全体の商業施設売場面積は増加傾向にある。市内の小売業売場面積の合計は265,285平方メートル、同事業所数合計は1,627で、いずれも下関市、山口市に続く県内第3位である(詳細は「商業」節を参照)。(産業別事業所数上位5位まで。2006年10月1日現在)(産業別就業者数上位5位まで。単位・人。2006年10月1日現在)2012年1月現在、宇部テクノパーク、宇部臨空頭脳パーク、瀬戸原団地、神元団地等の主要産業団地に合計46事業所が立地している。宇部市では、市内の産業団地において革新的な事業を実施する事業者から事業計画を募集し、最も優れたものに対し宇部市が上限1億円の奨励金を交付する制度「宇部市イノベーション大賞」を2010年度(平成22年)より実施している。宇部市の全ての農家の戸数は2,676戸で、うち販売農家は1,776戸である。販売農家の内訳は、専業農家が445戸、兼業農家が1,331戸(うち第1種兼業農家が174戸、第2種兼業農家が1,157戸)である。また、耕地面積は 2,770haで、うち田耕地面積が2,250ha、畑耕地面積が522haである。山口宇部農業協同組合(JA山口宇部)が宇部市全域の農業協同組合業務を行っており、市内には38の生産組織が設置されている。農業従事者の高齢化や農地転用が進んだことで、農家数および農地面積は減少傾向にあり、同組合では担い手の育成と農地の有効活用を最重要課題としている。人口が集中する市中心部の周辺地域では近郊農業が行われており、東部の西岐波、東岐波両地区ではイチゴ、キャベツ、キュウリ、ハクサイ、ブロッコリー、ホウレンソウ、ミカン、ミニトマト等、西部の厚南地区ではニンジンやレンコン等の生産が盛んである。北部の小野地区は「小野茶」で知られるお茶の名産地であり、その生産量は県内最大であるほか、ズッキーニの産地でもある。また、万倉地区ではナス、パセリ、はなっこりーの生産が盛んである。林家の戸数は、967戸(2005年2月1日)で、2000年の1,248戸と比較して281戸減少しており、減少傾向にある。林産物生産量は、5,245m³(2010年)である。漁業経営体数は、358(2008年11月1日)で、1998年の経営体数568と比較して210減少しており、減少傾向にある。漁獲量は 2,734t(2009年)で、内訳は以下の通りである。明治期から石炭産業で栄え、その後セメントや硫安の製造などとも結びつき発展してきた。企業間の合併買収の過程を経て宇部興産はその中心となってきたため、宇部市は同社の“企業城下町”であるとされている。現在も同社を中心に同社の関連企業、取引業者が集積しており、瀬戸内工業地域・北九州工業地帯の一角を担う一方で、エネルギー需要の変化とともに基幹産業の一つであった石炭採掘事業は1960年代に終焉を迎えた。1980年代以降は科学技術産業の蓄積を模索し、高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)に基づきテクノポリス(宇部フェニックステクノポリス)の母都市に指定された。この構想によって、宇部市周辺に多数の工業団地が造成され、市内には山口日本電気(現・ルネサス セミコンダクタ マニュファクチュアリング)山口工場などの半導体工場が進出している。なお、炭鉱の閉山以降も宇部興産は石炭事業として海外炭の輸入販売、貯炭事業を行っており、同社が宇部港沖ノ山地区に開設している貯炭施設「沖の山コールセンター」は国内最大規模のものである。2000年代以降は電力産業の進出も見られ、2004年(平成16年)から宇部興産の電力卸供給事業 (IPP) 部門としてユービーイーパワーセンター発電所(出力21.6万kW)が稼働している。このほか、中国電力、山口宇部ソーラー、JR西日本の3社が宇部市内に大規模太陽光発電所(メガソーラー)の建設を予定している。工業事業所数は 234(2008年)で、産業別事業所数上位5位までの内訳は以下の通りである。工業従業員数は 11,158人(2008年)で、産業別従業員数上位5位までの内訳は以下の通りである(単位:人)。工業製品等出荷額は 54,850,057万円(2008年)で、産業別出荷額上位5位までの内訳は以下の通りである(単位:万円)。宇部市の商業は、炭鉱採掘による石炭産業の隆盛とともに発展してきた。海岸の各炭鉱を中心として商店街が発達したことで、東西約5kmにわたり帯のように広がる市街地が形成された。太平洋戦争中の1945年8月、市街地中央部の宇部市役所(現在の宇部郵便局付近)周辺地域は米軍による空襲の被害を受け、一部の建物を除き全焼した。空襲の被害を受けた市街地は、戦災復興都市計画により幅員50mの常盤通りをはじめとした都市基盤の整備が進んだことで1950年代には復興し、宇部新天町名店街を中心に多数の商店街を形成した。一方、空襲の被害が少なかった新川地区の中央町等では戦後まもなく闇市が発生した。この地区は宇部新川駅から宇部興産へ徒歩で通勤する炭坑労働者の通り道でもあり、後に宇部中央銀天街、三炭町商店街、興産通り商店街等の商店街が形成され宇部市内最大の商業地区となった。1960年代になり炭鉱が閉山すると宇部市の人口は急減し、帯状に広がった市街地の両翼に当たる藤山地区・岬地区等の商店街が衰退していった。閉山の影響は中心市街地にもおよび、主要な商店街のひとつであった三炭町商店街では多くの店舗が閉店したが、市中心部には「大和(だいわ)中央店」「大和(だいわ)駅前店」「ダイエー宇部店(後に「Let's O9」)」「宇部丸信」「エムラ宇部支店」「宇部井筒屋(現・山口井筒屋宇部店)」等、多数の商業施設があったこともあり、これらを核店舗とした宇部中央銀天街、新川駅前商店街、宇部新天町名店街等の商店街では影響は少なく、1970年代ごろには最盛期を迎える。1983年10月、宇部市の西側に隣接していた当時の小野田市(現・山陽小野田市)に大型ショッピングセンター(SC)のサンパークおのだ(現・おのだサンパーク)が開業した。モータリゼーションが進展しつつあった宇部都市圏において、無料の大型駐車場を備える大型SCの開業は市中心部の商業にも大きな影響を与え、これ皮切りに中心商店街から郊外型の大型SCへと客足は遠退いていった。1990年代に入ると、郊外への大型SCのさらなる出店と中心市街地の既存商業施設の閉店が相次いだ。1995年2月、売り上げの減少と店舗の老朽化を受け大和駅前店が中央店に統合される形で閉店した。その翌年の1996年3月、宇部市の東側に隣接していた当時の阿知須町(現・山口市)にサンパークあじすが開業し、これと入れ替わる形で同年8月にLet's09が閉店した。大型SCの進出は周辺市町から宇部市内にもおよび、同年9月にゆめタウン宇部、翌1997年3月にハイパーモールメルクス宇部が開業した。1998年末、大和中央店が店じまい宣言をし一旦閉店したものの、地元住民からの再開要望を受け大幅に規模を縮小した上で営業を再開した。再開した同店は商店街の核となる大型店とは言い難く、この時点で宇部中央銀天街は事実上核店舗を失った。1999年3月、宇部都市圏で最大の売り場面積をもちシネマコンプレックス等の娯楽施設も備えたフジグラン宇部が開業した。中心部から近く車で容易にアクセスできる同SCの開業は中心商店街にさらなる打撃を与え、宇部東宝等の中小規模映画館が相次いで閉店したほか、2000年2月には宇部新天町名店街の核店舗であった宇部丸信が破綻した。これら一連の流れの中で、1982年に2,800店を超えていた宇部市内の小売業の商店数は2007年までに約1,600店舗に減少した一方、同売り場面積は約16万mm²から265,285m²に、年間商品販売額は約150,000百万円から約174,936百万円に増加している。中心部(神原・新川地区)の年間商品販売額は1991年に60,000百万円を超えたが、バブル景気崩壊後の消費不況や前述のように消費者が郊外へと流れたこともあって、2007年には約36,438百万円に減少している。商業事業所数は 2,061(2007年度)で、1994年度の事業所数3045に対し984減少しており減少傾向にある。内訳は以下の通りである。年間商品販売額は 46,985,249万円(2007年度)で、1994年度の55,589,316万円に対し5,604,067万円減少しており減少傾向にある。内訳は以下の通りである(単位:万円)。2011年現在、宇部市内には下記26団体の商店街組織がある。2011年現在、宇部市の中心市街地には、以下のような大規模小売店鋪が存在する。郊外に多くの店舗が出店している。県内では数少ない三菱東京UFJ銀行(宇部支店、徳山支店のみ)と福岡銀行、西日本シティ銀行(両行とも宇部支店、下関支店のみ)の支店が立地している。福岡銀行については1998年に支店を閉鎖した後、2010年に再出店している。市内のときわ公園とその中にある緑と花と彫刻の博物館(ときわミュージアム)の野外彫刻展示場(旧・宇部市野外彫刻美術館)は、箱根の箱根 彫刻の森美術館と並んで、野外の彫刻美術館としては国内の双璧をなす。国内屈指の彫刻ビエンナーレであるUBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)の会場としても全国的にその名が知られており、同展は若手彫刻家の登竜門となっている。市内には村野藤吾の建築作品が散在しており、主なものとして村野の最初期の作品である宇部市渡辺翁記念会館や生前最後に完成した宇部興産ビル等がある。宇部市渡辺翁記念会館については、村野自身も「私の出世作」と語っており、2005年(平成17年)12月27日には村野の作品として初めて国の重要文化財に指定された。また、実現はしなかったものの、「宇部図書館」「宇部商工会議所」「宇部鉱業会館」等の建設計画の設計図が、現在も村野・森建築事務所に保管されている。吉部地区には特産の米を活かした「幽霊寿司」という珍しい食文化が残っている。これは、白米が食べられることへの感謝をこめた押寿司で、色白の「幽霊」を表現するため表面に具材を置かないのが特徴である。現代に見られる色白で足のない幽霊のイメージは江戸時代に形成されたものであり、「幽霊寿司」という名称からも成立時期は江戸時代以降とする説が有力である。宇部市の平均寿命は男性が77.3歳、女性が85.0歳である。市内には山口大学医学部附属病院、宇部興産中央病院、国立病院機構山口宇部医療センターの3つの病院をはじめ、多数の大規模病院が点在しており、人口1万人あたりの病院・診療所数は全国第38位、人口1万人あたりの医師数は全国第19位(山口県内第1位)である。市の東部に遊園地や動物園等を併設した総合公園のときわ公園がある。同公園では野外彫刻の国際コンクール・展覧会のUBEビエンナーレが隔年で開催されており、「大賞(宇部市賞)」と「宇部興産賞」に選ばれた作品は、宇部市が買いあげた上で市内各所に展示している。毎年7月下旬に宇部港で開催される宇部市花火大会は単独開催の花火大会としては山口県内最大規模である。毎年11月に中心市街地で開催される宇部まつりには市内外から多くの人々が来場している。近年では、宇部都市圏の企業や行政機関等の団体で構成する宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会が中心となって、宇部興産の工場や専用道路(宇部興産専用道路)のほか、地域の産業施設を見学する産業観光ツアーが開催されている。市の中央部を山陽自動車道(宇部下関線)が貫き、鉄道は山陽本線、宇部線、小野田線が通ずるほか、重要港湾の宇部港と市街地に近接した定期旅客便発着空港である山口宇部空港を擁し、陸・海・空の交通網が整備されている。市内に所在する山口宇部空港に、全日本空輸、日本航空、スターフライヤーの3社が東京国際空港便を1日合計10往復20便就航している。同空港は、旧空港法の規定における第3種空港から第2種空港に昇格した唯一の空港であり、延長2500メートルの滑走路を有する。滑走路は1980年(昭和55年)に2000m化しジェット機対応、2001年(平成13年)には2500m化し大型機の就航も可能となった。就航航空会社は長らく全日本空輸のみであったが、2002年(平成14年)に日本航空が就航しダブルトラック化、2014年(平成26年)にスターフライヤーが就航しトリプルトラック化した。また、かつては大阪国際空港、新千歳空港、那覇空港、北九州空港にも航空路線が就航していた。宇部市内を通る鉄道路線として、西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陽本線・宇部線・小野田線がある。このうち山陽本線と宇部線は幹線、小野田線は地方交通線に指定されている。山陽本線は、宇部市が工業都市として発展を始める以前に計画・建設が行われたこともあって、遠回りとなる宇部を経由せず、当時宿場町などが発展していた山陽道に並行するルートで建設された。このため、地元資本により宇部鉄道や宇部電気鉄道などの鉄道会社が設立され、市の中心部への鉄道路線建設および宇部地域の石炭輸送を目的に、現在の宇部線・小野田線にあたる鉄道路線が建設された。一方、江戸時代に旧山陽道の宿場町として栄えた船木(旧・楠町の中心集落)では、山陽鉄道(現在の山陽本線)が南方へ迂回して敷設されたことに伴い、地元資本が中心となって設立した船木軽便鉄道(のち船木鉄道)により軌間762mmの軽便鉄道が建設された。同鉄道はその後全線に渡って軌間1067mmへの改軌工事を実施し、船木以北への路線延長を進めていった。最盛期には美祢郡美東町(現・美祢市)への路線延長する免許も取得していたが、戦時中の鉄材供出による一部区間の休止や沿線の石炭産業の斜陽化に伴い利用客が減少し、1961年に全線が廃止となった。宇部線は市の中心部を通る都市型路線であり、また戦前から電化されるなど比較的早期に整備が進んだ路線であったが、貨物輸送の減退後からは設備の更新が進まず、現在では全線が単線であり運行本数も毎時1本-2本と利便性が悪く、高速運転が行えないなどといった事情から、都市輸送機関としての役割を果たしているとはいえない状況にある。また、中心市街地周辺を除く郊外では鉄道駅周辺の基盤整備が進まず、同路線に並行する国道190号などの幹線道路沿線を中心に無秩序な市街地化(スプロール現象)が進んだため、鉄道沿線では人口も少ない。このため、市内を通る鉄道路線の利用者数は近年一貫して減少傾向にある。市の中心駅にあたるのは宇部線の宇部新川駅である。山陽本線の宇部駅は、市名を冠する駅であるものの前述の経緯から市の郊外(厚南地区)に位置している。なお、1943年に宇部鉄道が国有化され宇部線となった際に、同線の宇部新川駅は「宇部駅」に、山陽本線の宇部駅は「西宇部駅」に改称されたが、1963年に宇部商工会議所等の地元団体から元の名称に戻すよう要望が提出されたこともあり、1964年に再び改称し現在の駅名となった経緯がある。市内の一般路線バスは以下の3社が運行している。宇部新川駅前バスセンターおよび宇部中央バス停(中央町)を中心に市内各地に路線が延びている。市街地から厚南地区へ向かう路線は3事業者が運行しており、他方面に向かう路線と比べて本数が多い。市内を経由する高速バスとして、宇部新川駅前を経由して山口市と福岡市を結ぶ「福岡・山口ライナー」(中国JRバス・JR九州バス)が運行されている。かつては東京都方面へ向かう「ふくふく東京号」、大阪市方面へ向かう「ふくふく大阪号」や、広島市方面へ向かう「ふくふく広島号」、北九州市方面へ向かう「宇部・小野田 - 小倉線」が運行されていたが、いずれも廃止された。市内の道路網は、市の沿岸地域を結ぶ国道190号が東西方向の主要な軸となっている。国道2号も宇部市域を通過するが、市街地から離れた旧山陽道の街道筋にあたる厚東地区・船木地区を通過しており、通過交通が主体となっている。南北方向は厚東川の左岸を国道490号が、厚東川の右岸を県道小野田美東線が貫いており、これらが主要な交通軸を形成している。宇部市内には長らく高速道路が通っていなかった(中国自動車道が市の北部をかすめるのみであった)が、2001年(平成13年)に市街地の北縁を東西に結ぶ山陽自動車道宇部下関線が開通し、国道490号との交点に宇部ICが設置された。このほか、国道190号の交通混雑解消や宇部都市圏の連携強化等を目的として、地域高規格道路山口宇部小野田連絡道路の一部区間である宇部湾岸道路の整備が進められており、2013年(平成25年)までに西中町ICから東須恵ICまでの区間が開通している。周防灘に面した重要港湾である宇部港のほか、漁港3港を擁するが、旅客定期航路は就航していない。

出典:wikipedia

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