バレンシア・クルブ・デ・フトボル(、)は、スペイン・バレンシアに本拠地を置くサッカークラブチームである。リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属している。1919年創設。1923年以来、55,000人収容のエスタディオ・デ・メスタージャをホームスタジアムとして使用している。バレンシア市北西部に建設中のノウ・メスタージャ(75,000人収容)に移転する計画がある。同じ都市に本拠地を置くレバンテUDと長い間ライバル関係にある。同じバレンシア州内にあるエルクレスCFやビジャレアルCFにもライバル意識を抱いている。BチームとしてバレンシアCF・メスタージャがある。プリメーラ・ディビシオンで6度、コパ・デル・レイで7度、インターシティーズ・フェアーズカップ(UEFAカップの前身)で2度、UEFAカップで1度、UEFAスーパーカップで2度優勝している。1999-2000シーズンと2000-01シーズンには2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出したが、前者のシーズンにはレアル・マドリード(スペイン)に、後者のシーズンにはバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れ、いずれも準優勝に終わった。欧州カップ戦の決勝に計7回出場し、そのうちの4回優勝している。G-14(ヨーロッパビッグクラブ連合体)のメンバーだった。ラ・リーガ通算順位表ではレアル・マドリードとFCバルセロナに次ぐ3位である。国際大会の成績でも彼らに次ぐ3番手に位置しており、欧州カップ戦で5つ以上のタイトルを獲得しているのはこの3クラブのみである。2012-13シーズンはバルセロナ、レアル・マドリードに次いでスペインで3番目に平均観客数の多いクラブだった。5万人以上のシーズンチケット購入者を抱え、さらに2万人以上がシーズンチケットの購入待ち状態にある。1919年3月5日に設立され、3月18日に公式に承認された。アスレティック・ビルバオ(1898年設立)、FCバルセロナ(1899年設立)、レアル・マドリード(1902年設立)、アトレティコ・マドリード(1903年設立)、など、スペインの他の名門クラブと比べると比較的遅い設立であり、同じくバレンシアに本拠地を置くレバンテUD(1909年)よりも遅い。オクタビオ・アウグスト・ミレゴ・ディアスが初代会長に就任したが、ディアスの就任はコインを投げて決定されたものだった。1919年5月21日、カステリョンにて初の公式戦が行われ、バレンシア・ジムナスティコに0-1で敗れた。同年にはレバンテとも初試合が行なわれ、1-0で勝利した。同年12月7日からアルヒロスをホームスタジアムとして使用していたが、1923年にエスタディオ・デ・メスタージャに移転し、5月20日にレバンテUD相手に行われたメスタージャでの初試合には1-0で勝利した。1923年には地域リーグで優勝し、当時スペイン最高峰の大会だったコパ・デル・レイに初出場した。1928年に全国選手権(リーガ・エスパニョーラ)が設立されると、コパ・デル・レイでの優勝経験がなかったバレンシアはセグンダ・ディビシオン(2部)に組みこまれたが、1930-31シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝し、1931-32シーズンにはクラブ史上初めてプリメーラ・ディビシオン(1部)に参戦した。プリメーラ・ディビシオン昇格後は黒星が白星を上回るシーズンが続き、1936年に勃発したスペイン内戦によってクラブの発展が妨げられたが、1941年のコパ・デル・レイでは決勝に進出し、決勝でRCDエスパニョールを破って初優勝。当時はまだリーガ・エスパニョーラよりもコパ・デル・レイのほうが重要度の高い大会と認識されていた。1941-42シーズンにプリメーラ・ディビシオンで初優勝すると、1943-44シーズンには2度目のリーグ優勝を果たし、1946-47シーズンにも優勝。1940年代にはリーグ優勝3度、リーグ2位2度、カップ優勝2度、カップ準優勝3度など堅実な黄金期とも言える成績を残した。この時代の主力にはエドムンド・スアレスやエピファニオ・フェルナンデスなどがおり、彼らで構成される攻撃陣はデランテーラ・エレクトリカ(delantera eléctrica、電撃フォワード)と称された。1950年代にはメスタージャが45,000人収容に拡張された。バレンシアはスペイン国内外のスター選手を迎え入れ、スペイン代表のアントニオ・プチャデス、オランダ出身のフォワードファース・ヴィルケスなどによって彩られた。1940年代のようなスポーツ面での成功には至らなかったが、1952-53シーズンにはリーグ戦を2位で終え、翌シーズンにはコパ・デル・ヘネラリシモ(コパ・デル・レイ)で優勝した。1960年代初頭のリーグ戦ではぱっとしない順位が続いたが、ビセンテ・ギジョットやブラジル人のワルド・マチャドなどに導かれ、ヨーロッパの舞台ではインターシティーズ・フェアーズカップ(UEFAカップの前身)で成功を収めた。1961-62シーズンの同大会では決勝でFCバルセロナを破って初優勝し、1962-63シーズンの同大会でも決勝でNKディナモ・ザグレブ(クロアチア)を破って2連覇を達成。1963-64シーズンの同大会でも3年連続で決勝に進出したが、今度はレアル・サラゴサに1-2で敗れて準優勝に終わった。1970年には、バロンドールに2度輝いたアルフレッド・ディ・ステファノが監督に就任し、1970-71シーズンには1947年以来となる4度目のリーグ優勝を遂げた。この結果、1971-72シーズンにはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズカップに出場したが、3回戦でウーイペシュトFC(ハンガリー)に敗れた。同シーズンの国内リーグ戦ではレアル・マドリードに次ぐ2位であり、国内カップ戦では決勝でアトレティコ・マドリードに敗れて準優勝だった。1970年代にはオーストリア人ミッドフィールダーのクルト・ヤーラ、オランダ人フォワードのヨニー・レップ、アルゼンチン代表フォワードのマリオ・ケンペスなどが在籍し、ケンペスは1976-77シーズンと1977-78シーズンの2シーズン連続で得点王のタイトル(ピチーチ賞)を獲得した。1974年のディ・ステファノ退任によって過渡期を迎えたが、1978-79シーズンのコパ・デル・レイ決勝、レアル・マドリード戦ではケンペスが2点を叩きこんで5度目のリーグ優勝に貢献した。ケンペスはアルゼンチン代表として1978 FIFAワールドカップに出場し、決勝のオランダ戦でも2得点している。1979-80シーズンにはディ・ステファノが監督に復帰し、UEFAカップウィナーズカップ決勝ではアーセナルFC(イングランド)をPK戦の末に破って優勝した。1980年のUEFAスーパーカップでは、UEFAチャンピオンズカップ王者のノッティンガム・フォレストFC(イングランド)と対戦し、アウェーゴール差で上回って新たなトロフィーを加えた。1982年にはミラン・ミラニッチ監督が就任したが、1982-83シーズンは終盤戦に至っても降格の危機から抜け出せなかった。ミラニッチ監督が退いてコルド・アギーレ監督が就任し、他力本願ながらかろうじて降格を回避した。ビセンテ・トルモ会長政権下の1983-84シーズンと1984-85シーズンは借金が重くのしかかり、選手やスタッフへの給料未払い、士気の低下など、内部問題によってクラブが分裂した。1931年以来プリメーラ・ディビシオンに留まり続けていたが、1985-86シーズンは18クラブ中16位となり、創設55年目にしてクラブ史上初の降格となった。アルトゥーロ・トゥソンが新会長に就任してディ・ステファノを監督に復帰させ、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオン昇格を決めると、ディ・ステファノ監督は昇格後の1987-88シーズンも采配を振るったが、14位と低迷した。1989年にはリーグでの地位強化のためにブルガリア代表フォワードのルボスラフ・ペネフと契約した。1991年にはオランダ人のフース・ヒディンク監督が就任し、1991-92シーズンにはリーグ戦で4位、コパ・デル・レイで準々決勝に進出した。1992年には公式に株式会社化し、1993年までは続けてヒディンク監督が指揮を執った。1994年には、ブラジル代表監督として1994 FIFAワールドカップを制したばかりのカルロス・アルベルト・パレイラ監督を迎え入れた。パレイラ監督は即座にアンドニ・スビサレッタと契約し、さらにロシア人のオレグ・サレンコ、プレドラグ・ミヤトヴィッチもチームに加えたが、期待されたほどの成績は挙げられなかった。1995年にはルイス・アラゴネスが監督に就任し、ミヤトヴィッチらの活躍によって2位に躍進する。しかし、1996年にはエースのミヤトヴィッチをレアル・マドリードへ放出し、ブラジル代表のロマーリオを獲得したことでチームは混乱する。この年からはボスマン判決によって、アルゼンチン代表のクラウディオ・ロペスやアリエル・オルテガ、ルーマニア代表のアドリアン・イリエなどの外国人スター選手が集まるようになり、アラゴネスに代わって監督に就任したホルヘ・バルダーノが指揮を執るも低迷からは抜け出せなかった。1997年には、低迷したチームを立て直すため、イタリア人のクラウディオ・ラニエリを監督に招聘する。ジョスリン・アングロマ、アメデオ・カルボーニといったセリエAの選手を獲得して守備の強化を図ると共に、攻守にわたって規律をもたらした。個のチームから組織を重視したチームへと変貌したことで、これまで主力を担っていたロマーリオ、オルテガらはベンチを温めることになり、シーズン終了後に放出された。ラニエリの監督就任以降、チームは巻き返してインタートトカップの出場権を獲得。1998-99シーズンには、レアル・マドリードからサンティアゴ・カニサレスを獲得したことで、鉄壁の守備からの鋭いカウンターアタックで上位に食い込むことになり、コパ・デル・レイでは20年ぶりの優勝を飾った。1999年にエクトル・クーペル監督が就任すると、同年夏のスーペルコパ・デ・エスパーニャではバルセロナに勝利した。1999-2000シーズンは、前任者とのサッカーの違いなどから、リーグ戦では序盤戦に低迷したが、クーペルは前任者のシステムを踏襲し、クラウディオ・ロペス、ガイスカ・メンディエタ、キリ・ゴンサレス、ジェラール・ロペスらがチームの中心となったことで、チームは巻き返して優勝争いに加わった。このシーズンは、レアル・マドリードが早々と優勝争いから離脱、優勝候補の筆頭だったバルセロナもリーグ戦での勝ち点の取りこぼしが目立ち、デポルティーボ・ラ・コルーニャとレアル・サラゴサの躍進で、優勝争いが混沌としていた。結局、優勝したデポルティーボ・ラ・コルーニャに勝ち点4差、2位のバルセロナに勝ち点1差の3位であったが、このシーズンのUEFAチャンピオンズリーグではクラブ史上初めて決勝に進出した。しかし、2000年5月24日にパリで行われた決勝ではアメデオ・カルボーニが出場停止。カルボーニの抜けた穴は大きく響き、レアル・マドリードに0-3で敗れた。2000年夏にはクラウディオ・ロペスがSSラツィオ(イタリア)に、フランシスコ・ファリノスがインテル(イタリア)に、ジェラール・ロペスがバルセロナに移籍し、ヨン・カリュー、ルベン・バラハ、ロベルト・アジャラ、ビセンテ・ロドリゲス、ファビオ・アウレリオなどが加わった。2001年1月にはパブロ・アイマールも加わり、バラハ、アイマール、ビセンテ、アジャラらは2000年代初頭の躍進の中心的存在となった。2000-01シーズンは序盤から優勝争いに加わり、10節終了後には首位に立っていた。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでの躍進などによって疲労が蓄積し、リーグ戦の後半戦では順位を落とした。エクトル・クーペル監督に率いられたチームは、UEFAチャンピオンズリーグの2次リーグでマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)などを押しのけて首位通過し、準々決勝ではアーセナルFC(イングランド)を破った。準決勝でもイングランドのリーズ・ユナイテッドFCに勝利し、5月23日にミラノのサン・シーロで行われた決勝はバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)との対戦となった。試合開始早々にガイスカ・メンディエタがPKで先制点を挙げ、キーパーのサンティアゴ・カニサレスがメーメット・ショルのPKを止めたが、後半にステファン・エッフェンベルグにPKを決められて同点とされた。延長を経ても決着が付かず、試合の行方はPK戦に持ち込まれたが、マウリシオ・ペジェグリーノがPKを外したことでバイエルンの優勝が決まった。同シーズンのリーグ戦最終節はカンプ・ノウでのバルセロナ戦であり、引き分け以上の結果でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できたが、ロスタイムにリバウドに得点を許して2-3で敗れ、5位に落ちて同大会出場権獲得を逃した。2001年7月、在任期間中にコパ・デル・レイ優勝1度、スーペルコパ優勝1度、UEFAチャンピオンズリーグ準優勝2度などの成績を残したペドロ・コルテス会長が、個人的な理由により職を辞し、後任の会長にはハイメ・オルティが就任した。オルティ会長はCDテネリフェをプリメーラ・ディビシオン昇格に導いたラファエル・ベニテス監督を引き抜き、クーペル監督はイタリアのインテルに去った。メンディエタ、ディディエ・デシャン、ルイス・ミージャ、ズラトコ・ザホヴィッチなどがチームを去り、カルロス・マルチェナ、ミスタ、クーロ・トーレス、フランシスコ・ルフェテ、ゴンサロ・デ・ロス・サントス、サルバ・バジェスタなどが加入した。2001-02シーズンの開幕戦ではタイトルを争うレアル・マドリードから重要な勝利を挙げた。1970-71シーズンにはディ・ステファノ監督の下でクラブの連勝記録を樹立し、最後のリーグタイトルを勝ち取ったが、2001-02シーズンには11連勝を記録して1970-71シーズンに記録したクラブの連勝記録を塗り替えた。12月9日にエスタディオ・リアソルでデポルティーボ・ラ・コルーニャに敗れて連勝記録がストップした。エスタディ・デ・モンジュイックでのRCDエスパニョール戦はハーフタイムの時点で0-2とリードされていたが、後半に逆転して3-2の勝利を収めた。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードに0-1で敗れるなど、シーズン後半戦には小さな躓きを経験したが、UDラス・パルマス戦以降の6戦で4勝2分を記録して立ち直った。これら重要な試合のひとつがエスパニョール戦であり、前半戦の試合と同じく0-1でリードされて後半を迎えたが、バラハの2得点で2-1と逆転勝利を飾った。さらに、レアル・マドリードがエスタディオ・アノエタでレアル・ソシエダに敗れたため、バレンシアが勝ち点3リードして首位に立った。マラガCFとのシーズン最終戦はエスタディオ・ラ・ロサレーダで行われ、この5月5日はバレンシアのクラブ史に記録される日となった。開始早々のアジャラの先制点に続き、ハーフタイム間際にはファビオ・アウレリオが追加点を挙げ、31年ぶり5度目となるリーグ優勝を果たした。2002-03シーズンはバレンシアにとって失望のシーズンであり、リーグ連覇に失敗しただけでなく、4位のセルタ・デ・ビーゴを上回れず、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。UEFAチャンピオンズリーグでは準々決勝まで勝ち進んだが、インテル(イタリア)にアウェーゴール差で敗れた。2003-04シーズンのバレンシアは長いこと首位レアル・マドリードを追いかけていた。26試合を消化した2004年2月の時点では勝ち点8差を付けられていたが、レアル・マドリードは終盤戦に調子を落とし、ラスト5試合を全敗したため、バレンシアが逆転で2シーズンぶりのリーグ優勝を遂げた。UEFAカップでは準々決勝でFCジロンダン・ボルドー(フランス)、準決勝でビジャレアルCF(スペイン)、決勝でオリンピック・マルセイユ(フランス)を下し、初優勝を果たした。1998年から2004年のバレンシアは、クラブ史上最大の成功を収めた。リーグ戦とコパ・デル・レイで2度優勝し、UEFAカップとUEFAスーパーカップで1度優勝し、さらにUEFAチャンピオンズリーグで2度準優勝した。2004年夏にはベニテス監督が会長との対立からバレンシアを離れ、リヴァプールFC監督に就任した。後任には1999年までバレンシアを率いていたラニエリ監督が5年ぶりに復帰したが、2度目のラニエリ政権時代は失望の残る結果となった。マルコ・ディ・ヴァイオやベルナルド・コッラーディなどのイタリア人を獲得してチームのイタリア化を図ったが、2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ敗退に終わり、リーグ戦でも7位と低迷したため、ラニエリ監督は2005年2月に解任された。ベニテスの下でアシスタントコーチを務めたアントニオ・ロペスが指揮を執ったが、このシーズンはUEFAカップ出場権を獲得できない順位で終えた。2005年夏、ヘタフェCFのキケ・サンチェス・フローレス監督がバレンシアの新監督に就任した。レアル・サラゴサからダビド・ビジャを獲得すると、2005-06シーズンは3位で終えてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2006-07シーズンにはビジャに加え、リヴァプールFCから獲得したフェルナンド・モリエンテス、セルタ・デ・ビーゴからレンタルバックした生え抜きのダビド・シルバらが活躍。しかし、バラハやエドゥ、更にはビセンテ・ロドリゲスなど主力級の選手が怪我により長期離脱し、キケ・フローレス監督とアメデオ・カルボーニSDが対立した。シーズン序盤は好発進を見せたが、国内リーグでは4位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは2次リーグでイタリア王者のインテルを破ったが、準々決勝でチェルシーFCに2試合合計2-3で敗れた。2007年夏、SDがカルボーニからアンヘル・ルイスに代わることで内部対立が収まったが、10月29日、バレンシアの首脳陣は成績不振を理由にキケ・フローレス監督を解任し、オスカル・ルベン・フェルナンデスを暫定監督に任命した。後任監督候補としてマルチェロ・リッピやジョゼ・モウリーニョなどの就任が噂されたが、10月30日、オランダ人のロナルト・クーマン監督がPSVアイントホーフェンを離れてバレンシアと契約することが発表された。クーマン監督は就任直後にダビド・アルベルダ・サンティアゴ・カニサレス・ミゲル・アンヘル・アングロの主力3選手を戦力外扱いしたが、オランダ型の攻撃的な4-3-3のシステムはチームにフィットせず、降格圏からわずか勝ち点2差の15位まで落ち込んだ。UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ最下位で敗退し、リーグ戦でも低迷する一方で、コパ・デル・レイでは順調に勝ち進んだ。2008年4月16日、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンで行われたヘタフェCFとの決勝に3-1で勝利し、7度目の優勝を果たした。しかし、4日後の4月20日にはアスレティック・ビルバオ相手に1-5の大敗を喫し、その翌日にはクーマン監督の解任が発表された。暫定監督となったボロはアルベルダ、カニサレス、アングロの3選手をチームに復帰させると、初采配試合となったCAオサスナ戦(3-0)に勝利し、残留争いから順位表の中位(10位)にチームを引き上げた。2008年5月22日、若手のウナイ・エメリ監督が就任した。2008-09シーズン開幕から5試合のうち4試合に勝利し手順調なスタートを切り、UEFAカップのグループリーグでは1勝3分のグループ2位で決勝トーナメント進出を決めたが、リーグ戦では徐々に調子を落として4位で前半戦を終えた。不調の最中、クラブが4億ユーロ以上の巨額の負債を抱えており、何週間も選手に給料が支払われていないという報道がなされた。UEFAカップの決勝トーナメント1回戦ではFCディナモ・キエフ(ウクライナ)と対戦したが、最終的にベスト4となるクラブにアウェーゴール差で敗退し、クラブの問題はいっそう増した。2009年1月から3月にかけてはリーグ戦10試合で勝ち点7しか獲得できなかったが、3月からの7戦無敗(5勝2分)で一時的に4位まで順位を挙げた。しかし、36節と37節で4位の座を争うアトレティコ・マドリードとビジャレアルに連敗し、6位に落ちてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。財政収支のバランスを取るために、2009年夏にはダビド・ビジャ、フアン・マタ、ダビド・シルバなどのスター選手を放出するという噂が流れ続けた。前シーズンのリーグ王者バルセロナや大型補強をしたレアル・マドリードには及ばないもののリーグ3位を堅守、UEFAチャンピオンズリーグ本戦への出場権を手に入れた。財政面での理由により、2010年夏にはビジャとシルバがそれぞれバルセロナとマンチェスター・シティFCに売却され、負債額が大きく減少した。中心選手ふたりを放出したにもかかわらず、2010-11シーズンは2シーズン連続で3位という安定した成績を残した。UEFAチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦でシャルケ04(ドイツ)に敗れた。2011年3月20日のセビージャFC戦では、9日前に日本で起こった東日本大震災支援として、選手名がカタカナ表記のユニホームを着用して試合に臨んだ。ユニホームはスペイン赤十字社がオークションに出し、その収益は被災者への義援金となった。2011年夏にはクラブの不安定な財政状況改善のため、マタをチェルシーFCに移籍させざるを得なかった。2011-12シーズンは3位でリーグ戦を終了してUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。3シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得したのはクラブ史上初だったが、獲得した勝ち点は61にとどまり、プリメーラ・ディビシオンが20チーム制・勝利勝ち点が3ポイントとなった1995-96シーズン以来では最も少ない勝ち点の3位である。シーズン終了後、4シーズンにわたりチームを率いたエメリ監督が退任し、後任には選手としてバレンシアでプレー経験のあるマウリシオ・ペジェグリーノが就任した。ペジェグリーノ体制になった2012-13シーズンであったが、バルセロナに放出したジョルディ・アルバなどの穴を新戦力が埋めきれず、さらにはトップチームでの監督経験がないペジェグリーノの采配も安定せず開幕から低迷。チャンピオンズリーグではグループリーグを突破したものの、リーグでの低迷が原因で第14節で解任。後任にはリーガでの指導経験も豊富なエルネスト・バルベルデが半年契約で就任した。バルベルデ体制になりチームは復調したものの、前半の出遅れが響き5位でリーグ戦を終了。UEFAヨーロッパリーグの出場権は獲得したものの、3シーズン守っていたUEFAチャンピオンズリーグ出場権を失った。チームはバルベルデを高く評価し契約延長を希望したが、チームの経営環境が不安定である事を理由に拒否し、アスレティック・ビルバオに転出した。1919年にクラブが創設されてから1923年まではエスタディオ・アルヒロスをホームスタジアムとしていたが、1923年にエスタディオ・デ・メスタージャに移転した。1950年に増築されて45,000人収容となったが、1957年10月にトゥリア川が氾濫してバレンシア市全域が洪水に襲われ、メスタージャのピッチは大規模な復旧作業を必要とした。復旧と同時に照明塔の建設など様々な改良工事が行われ、1959年の火祭りの期間中に再オープンした。今日では55,000人を収容し、スペインで5番目に大きなスタジアムである。2008-09シーズンは本来ならばメスタージャでの最終シーズンであり、2009-10シーズンより75,000人収容のノウ・メスタージャに移転するはずだったが、財政難により新スタジアムの工事が中断され、移転計画は遅延した。2011年12月12日、マヌエル・ジョレンテ新会長はスペイン国内に7つの銀行を保有する金融グループであるバンキア(Bankia)と合意に達したが、その後バンキアが極度の経営難に陥って国有化されたため、建設計画は再び暗礁に乗り上げた。 () ()★※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
出典:wikipedia
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