貴陽市(きようし、、、)は、中華人民共和国貴州省の省都。市内に森林が多いことから林城の別名がある。市名は貴山の南にあることに由来する。省中央部に位置し、東及び南は黔南プイ族ミャオ族自治州、西は安順市、北は畢節市・遵義市に接する。古来より少数民族が割拠し、戦国時代には夜郎国の地であった。唐代になると烏河以南の地域に羈縻州を設置、市域は矩州に属した。宋代になると貴州と改称、1279年(至元16年)には八番羅甸宣慰司、1282年(至元19年)、順元等路軍民宣慰司を設置、1292年(至元29年)には順元、八番の両宣慰司を統合、八番順元宣慰司都元帥府を貴陽に設置し貴州と称された。明代になると1413年(永楽11年)、貴州等処承宣布政使司を設置され、省級行政単位が成立した。1568年(隆慶2年)、省会は程番府が貴州城に編入、1569年(隆慶3年)に程番府が貴陽府と改称され、貴陽の行政区画名称が使用されるようになった。1601年(万暦29年)、貴陽府は貴陽軍民府と改称され、明末には新貴県、貴定県、開州、広順州、定番州を管轄した。1659年(順治16年)、清朝は貴州巡撫駐貴陽軍民府 を設置、1666年(康熙5年)には雲貴総督が貴陽に駐留している。1687年(康熙26年)、貴陽軍民府を貴陽府と改称、清末には貴築県、貴定県、竜里県、修文県、開州、広順州、定番州、羅斛庁の4県3州1庁を管轄した。中華民国が成立すると1914年(民国3年)、貴陽府が廃止され貴陽市が成立、当初は黔中道の管轄に於かれた。1920年(民国9年)、道制が廃止されると貴州省長公署の直轄とされ、1936年(民国25年)の行政督察区制度の施行に伴い第一行政督察区の所管とされた。1941年(民国30年)7月1日、行政院により貴陽市設置が正式に認可され、1949年(民国33年)には市内に9区を設置している。1949年11月5日、共産党軍が貴陽市に入城、11月23日に貴陽市人民政府が成立している。翌日貴陽行政督察専員公署が修文県に成立、下部に修文、竜里、貴定、息烽、開陽、貴築、清鎮、恵水、瓮安、長順、羅甸の11県を管轄した。1952年、貴陽区行政督察専員公署が廃止となり貴定専区に改編、1954年3月には貴築県の大部分が、同年12月には安順専区管轄の清鎮、修文、開陽の3県及び黔南州管轄の恵水県が貴陽市に移管されている。1963年10月、開陽県は遵義専署、修文、清鎮県は安順専署、恵水県は黔南州に移管された。1972年、市内に白雲区を新設、1996年には安順地区管轄の清鎮市、修文県、息烽県、開陽県が貴陽市に移管されている。2001年1月、市内に小河区が新設された。6市轄区・1県級市・3県を管轄する。標高1,100mに位置する高原都市で、年間を通して、極端な寒さや暑さも無い過ごしやすい気候である。1月の平均気温は5.5度、7月の平均気温は24.4度、年平均気温は15.7度、年間降水量は1117.7mmである。1992年貴州省内唯一の貴陽ハイテク産業開発区が成立し、2000年に再編が行われて、新天ハイテク産業パークと金陽科学技術産業パークが新設された。2004年の全市生産総額(GDP)は対前年比13.8%増の438.5億人民元であった。空港鉄道道路
出典:wikipedia
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