葛飾郡(かつしかぐん)は、東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に存在した郡。古代には下総国の郡だったが、西寄りの部分が分割され武蔵国へ移された。江戸時代以前の渡良瀬川(江戸湾に注いでいた。)の流域全体をカバーする郡であった。渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河))となったので、現時点では江戸川(及びその後に成立した中川)の流域を占める郡といってよい。したがって、その範囲は南北に細長いものとなっている。現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大な郡であった。葛飾郡総社は、船橋市西船五丁目にある葛飾神社である。1878年(明治11年)の郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、翌1879年(明治12年)に残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅した。現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。律令制の時代に、南流する太日川(渡良瀬川の下流、後の江戸川)の右左岸域に下総国の葛飾郡が定められたといわれる。下総国の国府が葛飾郡に置かれ(現在の市川市)、下総国の政治的な中心であったといわれる。万葉集においても葛飾の名は残っており、特に真間の手児奈伝説は有名である。かつしかの地名については、奈良正倉院文書には「葛餝郡」と記されている。また、『万葉集』では勝鹿・勝牡鹿・可豆思賀と様々に表記されている。また、『万葉集』・『延喜式』中には「かとしか」とよませている例がある。現在、埼玉県・東京都を流れる中川(足立区中川からは足立区・葛飾区の境を下り、旧綾瀬川・隅田川)が利根川の本流であり、ここを武蔵国と下総国の境界としていた。したがってこれより東側の葛飾郡全域は下総国であった。郡内に下河邊荘、下河邊野方荘、八幡荘、松戸荘、風早荘、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿俣荘、大結牧といった荘園が成立した。また、この地域が広大であった事から中心線の太日川を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称する慣習が現れた(ただし、正式な郡名ではない)。利根川東遷事業により、太日川が利根川下流になったこともあり、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川より西の地域を下総国から武蔵国へ編入した(この地域を「葛西」と呼ぶ場合もある)。しかし、同じ寛永年間に関宿(現野田市)・金杉(現松伏町)間の東側に新たな流路が開削され、これが江戸川の本流となったために、この区間については、後も下総国葛飾郡が江戸川の両岸にまたがることになった。江戸時代、江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれた。一方、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された(古河藩、関宿藩)。初期には山崎(現野田市)や栗原(現船橋市)、藤心(ふじごころ。または相馬郡舟戸。ともに現柏市)に規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた。近世までは、後の南葛飾郡域を指して葛西と呼んでいた。
出典:wikipedia
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