国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車。国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年(昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。また、本項ではインドネシアの鉄道会社 (PT. Kereta Api) に譲渡された車両についても記述する。基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策などを施して改善した車両も存在した。なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と言われたこともあったが、当時の関係者によって完全に否定されている。最高速度は100km/hとなっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である。本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系にも応用された。新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両であるが、全車が同時に存在したことはない。JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれたが、老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)では2001年、東日本旅客鉄道(JR東日本)では2009年に形式消滅となった。1957年に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定ではピーク電流が、き電設備に負荷をかけすぎることがわかり、試作車による12月の営業運転開始時から101系は本来の性能を出すことができず、せっかくの高性能車としてのオール電動車編成をもてあますことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかどうかのチェックを見落としていた。すでに昭和32年度にモハ90形が150両予算計上されており1958年(昭和33年)春から夏にかけて続々と落成されたが、これら量産車も試作車同様本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる。き電設備が原因で全てのモーターを有効に活用できないのであればモーターの数を減らした編成で運転した方が車両新製コストが安いことから、昭和33年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。1959年に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成のみの8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6%以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法についても、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が101系にて可能かどうかの検討が始められる。これらの観点から、1959年11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T+付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年秋頃から実用化され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、MT比が1:1でなくてもモーターを冷やす時間が少ないことから、計算上でも101系に不利になってしまった。101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用として国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電鉄が1959年2月以降1650形の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000形の営業運転を開始した。また、小田急では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)年度中に落成している。性能を殺しつつも中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)年には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84%に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上してきた。この問題は、架線を平行に並べるダブルトロリー方式を用いることで改善できることもあり、取り急ぎ中央線と中央緩行線の工事を行っている。101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、イニシャルコストが高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120kWのMB3039A形電動機を101系2両に搭載し、1961年1月に中央線や山手線にて試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、増備車と合わせて編成単位での長期試験を行うことも検討されている。1960年初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足にあったことから、101系の編成を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入しようとした。これを実現させるには中央線の編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた。一方、首都圏の通勤事情は年々悪化し、1961年1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始したのである。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、同線を走っていた旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備せざるを得なかったのは待ったなしのラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低コストで大量に量産しうる新形通勤電車が必要となった。(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。101系では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標とされたが、6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/s程度の加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指すことになった。国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を閉塞という区画で区切り信号機により追突を防止する信号保安というシステムを用いている。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が進行信号で走行する必要があるが、特にラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。京浜東北線と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔をさらに縮めようとしたが、電力設備が追いつかずに挫折し旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたわけだが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なので、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄+黄)や65km/h以下で進む減速信号(黄+緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた。ホーム中間信号機が設置してある線区での運転時隔は、列車最後部がホーム中間の信号機を通過するまでの走行時間が重要となり、その場合は4.0km/h/sの高加速度でも2.0km/h/sの加速度でも運転時隔にはさほど差がないことが判明した。ホーム中間に信号機がある場合、後続列車への影響は駅を出た列車の最後尾がホームを出た先にある出発信号機を通過する時間ではなく、ホーム中間の信号機を通過するまでの時間が重要となり、ホーム中間の信号機は列車停止位置の最後尾から100m以下であるため、列車の起動加速度を究極まで高めたとしても得られる効果が低いためだ。運転時分の算定にはブレーキ初速度やホーム中間の信号機の位置、列車の長さなど、いくつかのパラメータを与えれば求まる計算式があり、それらを様々な条件を当てはめてシミュレートした結果、起動加速度2.0km/h/s・減速度2.5km/h/s程度、ブレーキ初速度60km/h程度、ホーム中間の信号機を設けていることが適していることがわかった。これらのことから、新形通勤電車の設計にあたっては、起動時の電流量が多くなり電力設備に負荷をかける加速度を高めるのではなく、加速度は低く2.0km/h/s程度に抑え、ブレーキ減速度を3.5km/h/sと高めにとることにした。なお、場内信号機の建植位置は、運転保安設備基準規程により駅の列車停止位置より150m以上外方と決められているが、表の路線では特例としてこの基準によらずホーム中央などに場内信号機を設置することができるようになっている。1961年当時の山手線品川 - 新宿 - 田端間でホーム中間に信号機が設置されていたのは一部の駅だけであったが、ホーム中間信号機ありきの運転時隔計算とそれを元に設計した新形通勤電車の登場もあり1974年までに全駅でホーム中間に信号機の整備が完了している。車体は101系をベースにしているがいくつか変更点がある。床材は、101系のリノールを塗り固めた構造が修繕作業に手間がかかることから、103系では床鋼板の上に床仕上げ材を貼った簡単なものとなった。モーター付き車両の側面には主電動機などの回転機の冷却風の取込用として風取り入れ口を設けた。101系が中央線など駅間距離が長い路線でないと使えない電車になってしまったのは、オール電動車で設計されていたものを最終的に6M4Tとモーターの付いていない車両を編成中に増やしたことによるモーターの過負荷が原因である。特に通勤線区は駅間距離が短い路線が多いため、101系電車で運転しようとすると、モーター車の比率を高めるか限流値を下げて運転速度を落とすしかなかった。これは、ひとえに101系に用いられているMT46Aという主電動機の熱容量が小さかったことが原因である。熱容量にはモーターの絶縁材が大きく関わっており、MT46Aの温度上昇限度は電機子が特別B種の120度まで、界磁がH種で150度までの制約があり、電流を流した時に発生する熱は電流の二乗に比例するため、大きな電流を流して加速度を高めると電動機の大きな過熱を招いて絶縁材の寿命が短くなる。温度が8度上がるだけで絶縁材の寿命が半減するという「8度半減則」という法則もあり、保守を考えるなら、許容温度以上の負荷使用は、特別な場合を除き避けなければならなかった。RMS電流は求める線区の運転曲線から列車の電流量を計算により求める手法である。その列車が実際に運転を行った後は、当然主電動機の温度が上昇するが、これを最初から一定の電流を流して同様な温度上昇になる数値を計算により求めることともいえる。よって、その列車が計算上与えた運転曲線通りに運転できるかどうかは、RMS電流を計算して主電動機の連続定格電流以下か、一時間定格電流の80%以下の電流値であることが求められる。ちなみに、基準運転時分作成のための速度定数業務では速度定数査定基準規程(昭和39年12月10日)によって様々な条件が課せられるが、主電動機の温度制限に関する第33条の内容は下記の通り。限流値を一時間定格電流以下に設定して運転する旧形国電と違い、MT46以降の電車用主電動機は電流の過負荷に対する耐性が一時間定格電流の160%までで設計されており、起動電流を大きく取って加速度を高めると、場合によってはモーターが過負荷運転になる場合もあった。そこで1959年(昭和34年)の秋頃から、主電動機の温度上昇限度をオーバーせずに運転線図を作成し運転計画を立てることが当然となり、そのためにはRMS電流計算により推定することが基本となった。前述のように、101系をモデルチェンジした新型車両では回生ブレーキの採用や出力の増強が見送られ、運転時隔や架線への影響、消費電力量などの経済性なども含めて通勤用途に適した主電動機を新たに設計することになった。消費電力量や起動電流の面からは定格速度を低く取る方が良いが、あまり低く取りすぎると力行率が増して回復運転余力がなくなるほか、高速運転のために界磁を極端に弱める必要が出たり、電気ブレーキ使用時に過電圧になる可能性もある。これらを勘案し、下記の通り標準形通勤電車用としてMT55形主電動機を開発した。回生ブレーキの採用は、製造時のコストが後のランニングコストの低減をはるかに上回る試算になったため見送られた。103系通勤電車用として、端子電圧375VのMT55が設計されたが、想定される速度域や消費電力量などを考慮し、全界磁定格回転数は1,250rpmで103系に搭載した場合の定格速度は33.5km/hという中速形の電動機となった。高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で最大限弱めることとし、弱め界磁率を35%と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時におけるRMS電流を1時間定格の80%、回復余力を10%と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、主電動機出力は110kWとした。定格速度は36.5km/hとなり、定格回転数は1,350rpmとなった。これは定格速度が低く、実際の運転では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85%界磁上においてバランスをとっている。また最大許容端子電圧をMT54などの750Vではなく900Vまでにしたことで、電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年10月の山手線10両編成化の際には6M4Tとなるため、MT比が3:2となった。単純に編成出力だけを見れば101系の2,400kWに対し本系列は2,640kWと大きく、「10両ならば103系は不要で101系でいい」という意見も存在した。実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、定格引張力が小さい101系は本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならないという問題がある。同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線における101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)がおおむね不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足りないとの試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていたさらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300%にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことができるメリットがある。そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線本系列10両編成投入の際に、運転局で長短所について検討しているが、省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認している。したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことも長所となる。主電動機の能力を示す指針としては出力よりもSRPを用い、電動機進歩の比較としてSSRPを用いるケースが多いが、専門的な分野であるため一般的ではない。その結果、本来SRPやSSRPで比較すれば低い定格回転数で高い許容回転数を出す103系のMT55電動機は優秀な電動機であるのだが、103系の高速運転時のモーターがブンブンと回るだけと、あたかも高回転では103系のモーターが能力外であると勘違いさせるような記述も一部に見受けられる。ただしMT55を定格速度が低い103系のセッティングで使う場合、定出力領域は64km/hで終わり、それ以上高速になると出力が落ち始める。これは113系や115系の84km/hに比べて低いばかりか、定格出力の小さい101系の67km/hよりも低い数値であり高速域では持てる出力を出し切れていないといえる。なお、参考までに下記に国鉄の主な主電動機のSSRPとSRPを示す。SRPとは許容回転数÷定格回転数×電動機容量(馬力HP)で、SSRPはSRPを主電動機重量で除したものである。新形通勤電車の概要がまとまってくると、どの線区に投入するかが焦点となった。1962年(昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、さらに限流値を350A→480Aにするための変電所増強計画が提案・検討されていた。変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415Aの場合、101系6M2Tの限流値480Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と判断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、捻出される101系を総武緩行線に転用することが決定された。1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。電動車比率が上がったことから限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように変電所増強が完了するまで、新性能化がなされていながらも旧性能車並の運転速度に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつかの問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。1964年(昭和39年)以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、1970 - 1980年代(昭和40 - 50年代)の首都圏や近畿圏など日本の都市圏通勤輸送を支えた。1964年(昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度だけで202両が製造された。捻出された101系(カナリア色)は当初の予定どおり総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも本系列が投入され始めることになった。1962年の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い常磐線(平均速度52.8km/h)と京阪神緩行線(同56.7km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定に関しては、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離 (1.34km) や平均速度が参考にされた。比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40%からさらに弱めた35%にするなどの措置が必要であり、MT55形が35%まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。もとより当時の多くの路線の最高速度は95km/hであり、80km/hを超える高速域では101系より加速力が高いため特に大きな問題にはなっていない。しかし、快速列車から逃げ切るために高加速高速の通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局には1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、関西支社として本系列で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した(詳細は京阪神緩行線#新形通勤電車構想を参照)。35%まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30km/h台であることから、平均駅間距離が2km台の京浜東北線に1965年(昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。しかし、いずれも本系列に比べて特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても本系列の経済性が高く、無理に高速タイプにする必要はないとの結論を得た。これらの調査結果を受け、1967年(昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーのディスクブレーキ付きTR212形付随台車を採用した。1968年10月1日のダイヤ改正において、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭なこともあり、夜間は山手線の車両を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に収容する必要があり、山手線で使用する56編成のうち実に34編成をこれら電車区に夜間疎開しなければならなかった。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年3月に開始すると共に山手線のホーム延伸工事も進めていった。1967年4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らすことが可能になった。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて急ピッチで準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した。9月から増結用の新製車が続々と山手線に配属されて、10月1日から既存の8両編成の中間に増結し10両運転を開始した。このことによって山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみのいわゆる貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事であり、運転中に余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増結用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が目に見えて緩和された。ラッシュ緩和に効果のある貫通編成だが、車庫の検修庫の設備が貫通編成の長さだけ必要な関係で、10両運転をしている他の線区では設備の都合で3両+7両編成などの分割編成にしなければならないケースもあったが、常磐線・京浜東北線など設備の整っている電車区の編成は一部が1970年から10両貫通編成にて運転されるようになる。阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年6月から6両運転を開始していたが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年11月現在で319%となっていた。このような状況において、さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて一部の設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山) - 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用にこれまで使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。京阪神緩行線への投入から3年後の1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキが作動せずに故障と紛らわしいと運転士から苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧継電器を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された。阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間は3両編成の旧形国電により運転されていたが1977年春に阪和線用を含め33両の増備車があり同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。この一連の投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線によるものが最初のケースとなった。昭和40年代前半になると家庭でもクーラーが普及し始め、通勤型電車についてもクーラーの要求が増していく。そこで国鉄では103系と113系にて冷房装置の試作を昭和45年に行い、昭和48年度より103系は基本的に冷房車による製造を行っていく。冷房装置付きの103系が増備されることで各線区の冷房化率が上がっていった。国鉄広報部が毎年1回出している「数字でみた国鉄」では昭和49年版から通勤用車両の冷房化率が掲載されている。以下に201系の量産が始まる昭和57年版までの冷房化率の推移を示す。一部は101系冷房改造車によるものも含まれるが、103系が昭和50年代に大量に増備された結果、通勤輸送における冷房化率が向上した。3500両近い103系がJRに承継されて使用されたが、各社それぞれの経営計画に従って運用線区の変更や置き換えなどが行われていくようになった。常磐線は上野 - 取手間の通勤形電車を用いた運転と、取手以北の近郊形電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年3月改正において近郊形電車については15両に編成を増強したが、取手以南の通勤形電車は依然10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252%と首都圏でも最も混雑する路線となった。そこで、通勤形電車の編成増強のため、1988年3月改正をめどに設備などの工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完成することから、着ぶくれによる混雑が始まる昭和62年12月から一部の通勤形電車の15両運転を開始した。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである。1991年度からJR東西線の開業を見越し同線に乗り入れる予定であった片町線では、103系から地下乗り入れ対応の207系に置き換えを始めた。同線から捻出された103系は100両を超えそのほとんどが冷房車であったことから、関西本線・阪和線の非冷房車置き換えに転用されたが、一部は115系に非冷房車が残っていた山陽本線下関運転所に冷房化率改善のため転出した。103系は過去にも通勤区間で駅間の長い路線に投入されたことはあったものの、近郊形電車の運用区間に直接転用されたことはなかったがゆえに、趣味誌では、その使用方法について疑問が投げかけられ始めた。特に下関所の105系で山陽本線岩国以西についてはトイレなし編成での運用の実績はあったものの、103系の投入により約半年で広島運転所に転配され、広島付近の運用に改められている。JR西日本阪和線鳳 - 東羽衣間で3両編成で運転してきたが、日中は1両編成でも事足りることから1987年6月1日よりクモハ123+クモハ123+クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両編成、夕ラッシュ以後は2両編成と柔軟な運用に改められた。その後1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で初めて開始した。同様なワンマン運転はその後JR九州の筑肥線でも行われている他、車内に運賃箱を設置した車内収受タイプのワンマン運転はJR西日本の播但線や加古川線でも行われている。103系は長期間にわたり使用されているため、国鉄時代から様々な改造工事が行われている。工事内容などの詳細は後述する。車両自体の用途を変更するための改造工事で、他系列から103系化されたもの、103系から他系列に改造したもの、中間車の先頭車改造、中間車の電装解除などが必要の都度行われている。車両の寿命は各社の規程などにより決められているが、本来の車両の置き換え時期を延命工事により伸ばし、その間の車両投資を抑制しライフサイクルコストを低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。電車においては1981年(昭和56年)度に国鉄小倉工場が423系に対して施行したのが最初であるが、103系は翌1982年(昭和57年)年度から延命工事が行なわれるようになった。103系は様々な線区に転用され使用されたこともあり、線区固有の設備を車両に追加設置する工事などもあった。また、機能的な面や腐食対策などでも改善が加えられるケースも含めて、下記のような項目にて改造された。103系は大量に製造されたために、JR化後20年経過した2007年4月時点でもまだ600両近い車両が在籍していた。廃車のほとんどは老朽廃車であるが、一部事故による廃車が下記の通り存在する。1970年5月20日、根岸線新杉田 - 洋光台間で下り電車が土砂崩壊に乗り上げ、前位側2両にあたるクハ103-548とモハ102-169が大破した。その結果この2両は1971年3月27日付けで廃車となっている。モハ102-169とペアを組むモハ103-105は整備の上、新たに製造されたモハ102-445とペアを組んで復帰している(窓枠の異なる車両同士でのユニット)。1988年12月5日、中央緩行線東中野駅構内に停車中の103系10両編成に、後続の201系10両編成が追突。103系の後位側9両(クハ103-277・モハ103-334・モハ102-490・サハ103-326・モハ103-21・モハ102-21・サハ103-327・モハ103-336・モハ102-492)のうち中間車8両が回復不能として1989年3月23日付けで、先頭車で被追突車であるクハ103-277が1989年7月25日付けで廃車となっている。1994年8月3日、福知山線三田 - 新三田間で上り電車がトラックと衝突、前位側先頭車であるクハ103-839が大破した。その結果同車は1994年8月10日付けで廃車となっている。日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#福知山線川除中踏切踏切事故を参照。本形式は、製造期間が20年以上に及んだため、その間の技術向上などを反映しにくく、製造後30年近く経っても大量に残っていたこともあり、技術的に陳腐化しているとの指摘もあった。特にオイルショック以後の省エネという観点において回生ブレーキを装備していなかったことの指摘もある上、JR東日本が製造した209系通勤形電車の車内に103系電車との消費電力量比較が掲示されたことと相まって、浪エネと表現した記事も見られるようになる。鋼製車体で回生ブレーキを装備しない本形式が過去にどのような比較等をなされているかを示す。103系が経済性が高いと言われる所以は、単にMT比1:1による運転が出来て車両費などが安いという点だけでなく、高い加速度と高い減速度によって経済運転が可能な部分が大きい。設計当時は後者のメリットを語る記述が多かったのだが、回生ブレーキ車が広まり、軽量ステンレスやアルミ車などが標準になった21世紀以降では、その経済性が目立たなくなったばかりか、103系が他系列よりも消費電力量が少なく経済的であるということすら過去の話になりつつある。下表は103系が量産され始めた当時に試算された他形式との比較表であり、103系が他形式よりも有利であることがわかる。電力消費率は、1kmまたは1000tkmあたりの消費電力量だが、ここでは1000tkmを用いている。また、消費電力量は運転時分の伸ばせばそれだけ減る傾向にあるが、103系の消費電力量、消費電力量率は他の形式に比べて運転時分が短い状態での数値である。同じ運転時分ベースで考えるとさらに103系の消費電力量等は下がる。同一駅間における運転時分は、起動加速度を高くとり低い速度で惰行に移る方が省エネになる。このように103系は駅間距離が長くても到着時分は113系などと遜色なく、消費電力量も少ないという結果が出ている。車両の最高速度が高いからといって、必ずしも目的地への到達時間が短くなるわけではない。下表は113系と101系の主電動機をMT54にした架空形式、そして103系の3種類の形式を2M2T300%乗車、回復余力10%という条件で1km - 5kmの駅間距離の運転時分と消費電力量を計算したものだが、113系は限流値が低く起動加速度が低いため、省エネ率なども低くなっている。鉄道車両の電力消費量は、物理的に考えると編成重量に比例する。つまり車体が軽量であればあるほど、同じ乗客を乗せている場合の電力消費量は低くなるため、昭和30年代中頃よりステンレスやアルミによる車両軽量化が始まった。国鉄では、ライセンスの問題もありステンレス車は一部の試作車両のみに終わるが、営団地下鉄5号線(現、東京メトロ東西線)乗り入れ用として、昭和41年にアルミ車体の301系が103系をベースに設計されている。しかし、アルミ車体は製造費が高いこともあって301系の製造は合計56両で終わり、その後は地下乗り入れ用の車両も103系が製造されていく。特に営団地下鉄9号線(現、東京メトロ千代田線)では営団側がアルミ車体回生ブレーキ付きの6000系を使用していたのに対し、国鉄側が回生ブレーキを持たず、電動車比率の高い103系であり、営団側からも早期のチョッパ制御など省エネ車の導入を要請されていた。一時はコスト高で断念した車両の軽量化であるが、昭和48年末のオイルショック以後、省エネが社会問題となっていた事から、アルミ車体にした場合の効果を再考し、山手線などの冷房付き103系10両編成をアルミ車にした場合で各車両に10t荷重がかかった状態(満車は20tで査定される)では消費電力量が11%削減できると予測している。また、営団千代田線でも我孫子 - 代々木公園間で乗車率50%で実測したのが下表で、車体の軽量化と回生ブレーキを有する事で営団6000系は103系に比べて消費電力量が40%少ない結果となった。経済運転については、動力費が原価の部分であると考えるなら企業内で取り上げられて当然であり、各鉄道会社でも古くは蒸気機関車の石炭消費量の節約方法など活発に行われてきた。103系のような通勤電車の場合も同様に経済運転の手法が確立されており、通勤電車のように起動・停止が連続するものに関しては、定格速度を低く取る事で起動抵抗を早く抜け抵抗ロスを少なくし、高速域は界磁を弱めて対応することが得策である。一定駅間を同一時分で運転する場合は、加速度を高くとり惰行時間を多く取ればブレーキ初速が遅くなりブレーキによるエネルギー損失を防げ、加速度を大きく取ると103系のような直流直巻電動機を用いる場合、定格速度が低くなるが、これは逆に起動時の抵抗ロスを減らす効果がある。抵抗損失は抵抗の抜ける速度の二乗に比例して増大するため、101系や旧型国電に対して抵抗を抜ける速度が約30km/hと低い103系は、これらの形式に比べて格段に抵抗損失が少なくなっている。結果として、103系を用いることで首都圏などの通勤線区では10%程度省エネとなっている。103系電車が阪和線や東海道・山陽緩行線などに投入されると、駅間距離が長い路線では、一般に最高速度やブレーキ初速が高い運転がなされているため、投入当初は運転士などからの苦情も多かった。しかし、原因の追及などによりそれらの不満は解消されることになるが、このことが恒久的な問題点だと記事にしたケースなどもあり、駅間が長く高速運転をする線区では103系は全く適さないと思われるようになった。しかし車両設計事務所の川添雄司は、103系は駅間の長い路線や最高速度が高い路線など別形式が有利に見える路線でも、データを見ると103系に有利な数字が出るとしている。東海道本線・山陽本線などでは、3ドアの113系を4ドアにしたような車両でよいのかもしれないが、比較すると103系の方が消費電力量が少ない。103系は駅間の短いところから長いところまで使える上に、価格も安いと述べている。このことは前述の113系等との1km - 5kmの運転時分や消費電力量の比較などを見ても明らかである。昭和60年9月から昭和61年9月まで山手線の103系と205系それぞれ1編成に積算電力計を設置し、実車による消費電力量調査を行っている。力行時の効果は205系が軽量ステンレス車体やボルスタレス台車などの採用で編成あたり65トン軽いという要素があり、補機については103系が主抵抗器の強制冷却用ブロアモーターがあること、冷房装置が205系の省エネタイプのAU75Gに比べて古いタイプであることなどによる差も含んだデータとなっている。回生率などのデータはその路線での運転方法と綿密な関連があるので、このデータはあくまでも山手線のものである。京浜東北線に209系が配置されると、実際の消費電力量を車両サイドで調査している。この結果を受けて、209系などのJR東日本の新系列通勤形電車には「この電車は、従来の半分以下の電力で走っています」のステッカーが貼られた車両もあった。補機は考慮されていないが、山手線205系での比較にあるように、103系は消費電力量の大きな冷房装置などを使っていることや抵抗器を強制冷却していることなどから、これらを含めると差はさらに広がる。103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、特に試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が一部の短区間路線を除き1990年代初めには置きかえられていた反面、103系は最終増備車が1984年(昭和59年)製であることから、21世紀に入っても大量に残っていた。初期に製造された車両を少量数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、最新の車種との格差が広がる結果となった。通常の大量生産される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは考えにくい。例えばスーパーカブのように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられてきた。しかし、103系電車は試作車が落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に205系が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えるには至らなかった。これらは下記のような理由によるものである。国鉄では1960年(昭和35年)頃から日本国有鉄道規格、いわゆるJRS (Japanese National Railways Standards) が整備されはじめる。標準化の効果はコストが低減すること、品質が安定すること、作業能率が上がること、安全性が高まることなどメリットが多く、大量の資材調達を行う国鉄が導入することは当然のことであった。標準化による技術の阻害については、標準品を継続して使いつつ技術の進歩を蓄積し、一定のタイミングでモデルチェンジをおこなうことで技術開発との調和ができると考えられていたが、結果的には単純化の考えにより特定メーカーごとの特徴が出にくくなったこと、特定会社に有利にならないように配慮したことが逆にメーカーの競争力を奪ったことなど、技術革新テンポに合致せず技術の停滞を招く原因にもなり、JR後に規格自体が廃止された。車両を軽量化すればランニングコストが下がるほか、加速力が質量と関係があることから、加速性能や高速性能のアップが見込める。1960年代に入ると各社ともアルミやステンレス車体の試作車を製造しはじめ、国鉄でも関門トンネル用や営業車ではサロ153形やキハ35形などでステンレスを用いた車両を製造していたが、地下鉄東西線への乗り入れ用として1966年(昭和41年)にアルミ車体の301系を完成させる。301系では1両あたり5t近い車体軽量化が図られたほか、台車を空気ばね付きとして乗り心地を改善している。アルミ車体の採用によって103系と同一走行システムでありながら問題点を解決できることが判明していながら、素材の価格が鋼板の6倍から7倍するアルミを用いた車両を大量に製造することは当時の国鉄には難しく、地下乗り入れ用の301系ですら1971年(昭和46年)の西船橋延長用の増備車は製造コストの安い103系1200番台になってしまった。これは軽量化で顕著な効果があったとしながらも、財政事情が悪い国鉄では同じ予算で1両でも多くの車両を製造したいという考えがあり、財政赤字が車両の改善をも影響を及ぼしていることがわかる。イニシャルコストの著しい低さ(短期的コストの安さ)と、「いくつかの欠点を度外視すれば、大方の用途において必要性能を充足しうる」という103系の特性は、旧弊化してもなお、財政赤字の国鉄に増備を続行させる動機となったのである。営団地下鉄が1965年(昭和40年)に銀座線の2000形を使用して国内初のチョッパ試験を行い結果的に6000系電車として量産を開始した。国鉄でも1967年(昭和42年)3月に101系電車を改造して力行チョッパ試験を行ったのち1969年(昭和44年)11月には装置を一新し回生ブレーキも含めたテストを行った。しかし、回生ブレーキの結果に難があり、翌1970年(昭和45年)年11月にも現車試験を行ったが、回生ブレーキ時の界磁電流制御が今後の課題とされた。力行制御としては既に合格の域に達していたが、抵抗を低い速度で抜ける103系電車との比較では、重い装置を積んでチョッパ制御を力行だけで使うメリットがほとんどなく、回生ブレーキとの組み合わせが求められた。電機子チョッパ制御による回生ブレーキは発生電圧を抑える必要があるのだが、103系で用いているMT55は定格速度が低く、高い速度からの発電ブレーキでは発生電圧が高くなるという特性があった。これらを改善するため、1972年(昭和47年)に直並列チョッパ装置を開発し、工場での試験では高速からの回生ブレーキに対しても有効であることが確認された。しかし、当時の労使関係のこじれから、この装置を使った現車走行試験が運転できない状態となっており、1974年(昭和49年)6月まで現車試験は行われなかった。国鉄の場合、標準化の観点もあり、同一システムを通勤形のみならず近郊形などにも波及させなければならない困難さがつきまとい、地下鉄のようにブレーキ初速度が低い場所や誘導障害の範囲が限定される状態では導入できる技術も、多くの路線で使うことが前提になる国鉄車での採用には、様々な問題点をクリアしていかねばならなかった。特に標準品との兼ね合いで設計が制約されることがあり、直並列チョッパのような余計な開発時間が必要になる要因を作っていたのも事実である。1975年(昭和50年)頃からは回生ブレーキの特殊性が理解され、チョッパ制御に適した主電動機の設計が認められることになり、チョッパ制御と対になるMT60主電動機の開発と、それを用いた回生システムなどが詰められていく。結果的には、チョッパ制御の201系試作車が登場したのは1979年(昭和54年)1月であった。右表は電機子チョッパ制御車と103系の消費電力を試算したときの比率で、103系を100とした場合の節減率だが駅間の長い中央線では電機子チョッパ制御のメリットがほとんどないことがわかる。なお、回生失効は考慮していない。103系は様々な線区で使用されたことにより、線区特性などに合致しないケースなども多く見受けられた。それは経営判断としての投入なのであるが、それ自体に疑問を投げかけられる場合もある。故障などの頻度を他形式と比べた場合、103系は車両の絶対数が多いことから同じ故障率の場合他形式より件数が多くなることに留意する必要はある。なお、原因を解明したとしても、それが水平展開されずに他線区でも同様な問題点が発生する場合もある。山手線の103系が40km/hから50km/hの間で電気ブレーキを掛けた場合に前後衝動が激しく、乗客にけが人が出ることもあった。そこで運転士が2段ブレーキを用いて対策を講じたが、ブレーキ距離などの問題があった。そこで、原因究明の結果、103系のMT55は電気ブレーキの立ち上がり時に急激に電流が流れることで大きなブレーキ力が発生していたことがわかり、対策を講じた。それによって、101系よりもブレーキ時の衝動は少なくなった。技術の発達に伴い、電車の主電動機や台車等の走行機器から走行中に発生する車外への騒音は年々低減される傾向にあるが、基本構造が1960年代の技術水準に留まる103系は、その面でも改善がほとんど図られてこなかった。同時代に開発された旧型車両の置き換えが進行する中、残存する103系は周辺環境対策でも不利な状況に陥りつつある。奈良線では2015年時点で103系が他系列と並ぶ主力車として運用されているが、環境省が2015年に国土交通大臣に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、ロングレール化や、鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系車両からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が求められている。特定の車両形式名を挙げて代替措置が求められるのは異例である。103系は大量に生産されたが、そのおのおのに何の目的で製造されたかという製造名目がある。年度計については早期債務や1次債務での発注は年度初めに投入される部分であるが、1960年代前年度末までに入っていたことがあり、それに従い、年度末までに投入された予算は年度をまたいでも前年度で計上しているものもある。車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、外観は前面以外において101系とほとんど差がないが、床下機器が大きく変更された。製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低回転数域トルク特性を重視して定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形とした。原設計は日立製作所が担当。なお同一機能で完全互換性があるものの、製造年度により初期型のMT55、中期型でISOネジ採用のMT55A(内扇形冷却ファン)、後期型でMT55Aの外扇形冷却ファンタイプの計3種類が存在し、走行時の音が異なる。本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。車両の方向は東海道本線基準で奇数向きは東京寄り、偶数向きは神戸寄りを表す。103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。1964年から1984年まで計3184両が製造された、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。クモハ103-1 - 133・モハ103-1 - 159・モハ102-1 - 292・クハ103-1 - 114・501 - 616・サハ103-1 - 225の計1039両が該当する最初の量産車グループ。山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。試作編成に存在しなかったクモハ103形とサハ103形が追加された。山手線に先行投入されていた試作車は、のちにこのグループに合わせた仕様に改造されている。1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアがステンレス製に変更されており、それ以前に製造された鋼製ドア車も一部を除いてステンレス製のものに交換されたが、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在している。上記に続いて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305の計447両が該当する。1967年(昭和42年)に「昭和42年度本予算追加車」が常磐線に、続く「昭和42年度第3次債務車」が阪和線にと高速運転中心の路線への投入が開始され、本系列の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループでもある。クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。本グループからは高速運転対策として、付随車の台車を踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更している。地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年(昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、後年になってシールドビーム2灯に改造された車両が多数である。1975年に大井工場(現在の東京総合車両センター)で事故復旧工事施工のクハ103-544、同じく1977年施工のクハ103-4をはじめ、1979年からは本格的に施工された。一方で未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、2000年(平成12年)11月6日廃車の京葉電車区所属クハ103-562が、最後の白熱灯車両である。1968
出典:wikipedia
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