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フェルナンド・トーレス

フェルナンド・ホセ・トーレス・サンス(Fernando José Torres Sanz, 1984年3月20日 - )は、スペイン・マドリード州フエンラブラダ出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・アトレティコ・マドリード所属。元スペイン代表。ポジションはフォワード。リヴァプールFCに所属していた2007-08シーズンにリーグ戦1シーズン24得点をあげるなどプレミアリーグを代表する選手とみなされている。スペイン代表としてはUEFA EURO 2004、2006 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2008、2010 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2012、2014 FIFAワールドカップの6つの主要大会に出場し、UEFA EURO 2008では決勝のドイツ戦で決勝ゴールをあげ、チームの優勝に貢献した。またUEFA EURO 2012ではベンチスタートが多く約190分という長くはない出場時間ながら3得点1アシストを決め大会得点王に輝いた。1984年3月20日、マドリード州のフエンラブラダに生まれた。幼少時代からサッカーに興味を持ち、5歳の時にパルケ84(Parque 84)というクラブチームに入団した。父親は仕事があったため、母親が毎日の練習への送り迎えをした。祖父は熱狂的というほどのサッカーファンではなかったが、アトレティコ・マドリードサポーターとしての誇りを持っており、彼の影響もあってフェルナンドはアトレティコファンになった。サッカーを始めた頃は兄と同じくゴールキーパーだったが、7歳の時にアニメの登場人物であるキャプテン翼をモチーフにしたマリオズ・オランド(Mario's Holland)という近くのクラブに移ってストライカーにポジションを移し、インドア・リーグの試合に出場した。3年後、10歳の時にラージョ13(Rayo 13)の11歳以下チームに移ると、1シーズンに55得点を奪い、同じチームの2人とともにアトレティコのトライアルを受けた。彼はスカウトに良い印象を与え、11歳だった1995年にアトレティコの下部組織に加入した。アレビン(11〜12歳のカテゴリー)チームに加入したトーレスは順調に下部組織のカテゴリーを昇格していき、1998年にはイタリア国内外のU-15世代のクラブが争うナイキ・カップ(Nike Cup)に参加し、FCバルセロナ、ACミラン、ユヴェントスなどを破って重要なユース年代のタイトルを初めて獲得した。大会最優秀選手賞の副賞としてナイキからシューズの無償提供を受け、これ以来一貫してナイキのスパイクを使用している。彼は後にこの年代の欧州最優秀選手に選出された。1999年、彼が15歳の時、アトレティコと最初のプロ契約を交わした。契約後の最初のシーズンはユースチームでプレーし、16歳の時にトップチームに昇格した。2000-01シーズンの出だしは悪く、脛骨の怪我に苦しんで2000年12月まで欠場した。その後もトップチームの練習に参加し、2001年5月27日のレガネス戦(ホーム)で26分間出場してついにデビューを果たした。デビューから1週間後のアルバセテ・バロンピエ戦も途中出場だったが、イバン・アマージャ()のクロスからヘディングでトップチーム初得点を記録した。シーズン途中にカルロス・ガルシア・カンタレホ監督が就任してから順位表を駆け上がったが、2000-01シーズンはプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を逃した。2001-02シーズンはセグンダ・ディビシオンで36試合に出場して6得点のみと、自身の調子は良くなかったがチームはプリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。プリメーラ初挑戦となった2002-03シーズンは調子が良く、FCバルセロナ戦でロベルト・ボナーノから奪った得点などで一躍話題に上る選手となり、29試合に出場して13得点を決めてチームは11位に入った 。プリメーラで2年目の2003-04シーズンは19歳にしてキャプテンに就任すると、より一層の成長を見せ、35試合に出場して19得点を挙げて得点ランキング3位に入った。このシーズンはUEFA杯予選出場権獲得を逃したが、リーグ戦で7位に食い込んでUEFAインタートトカップ出場資格を得た。欧州カップ戦初挑戦となった2004-05シーズンのUEFAインタートトカップ4回戦のOFKベオグラード戦では1stレグ・2ndレグともに1得点ずつを挙げた。チームは決勝戦に進出したが、同じスペインのビジャレアルとの決勝では2試合合計2-2となって迎えたPK戦(1-3)の末に敗れた。リーグ戦では数少ないチャンスをものにし、リーグ6位の16得点を挙げた。プレミアリーグチャンピオンのチェルシーは2005年にトーレスとの契約に興味を持っていると思われていたが、アトレティコのエンリケ・セレソ会長はチェルシーがトーレスと契約する可能性を「ノー・チャンス」と言い放った。セレソ会長は後の2006年1月に「我々はトーレスに来たオファーを検討する用意があった」と述べたが、トーレスは「ニューカッスル・ユナイテッドFCが3月に僕の獲得を企てていた」と主張した 。2005-06シーズンは好不調の波が激しかったが、リーグ6位の13得点を挙げた。2006 FIFAワールドカップ後、彼は大会前にチェルシーからのオファーを断ったことを明らかにした。2006-07シーズンはPKを外すことが多かったが、リーグ戦で14得点を決め、プリメーラ・ディビシオン昇格後の5シーズン全てで2桁得点を記録した。イギリスのメディアは彼がリヴァプールFCのメインターゲットとなっていると報道したが、セレソ会長は「リヴァプールFCを含むどのクラブや選手からもオファーは受け取っていない」と述べた。しかし、その数日後、アトレティコがトーレスをリヴァプールに移籍させる契約に同意したという新たな報道が伝えられた。その契約によると、移籍金の額は2500万ポンドと噂されており、その金額とは関係なしにルイス・ガルシアがアトレティコに移籍するというものだった。6月30日、アトレティコはビジャレアルからディエゴ・フォルランを獲得し、それはトーレスの放出を公にする前に実質的な代替要員を獲得したことを暗に示していた。7月2日、トーレスはリヴァプールとの契約を成立させるためにバカンスを途中で切り上げてマドリードに戻った。その翌日、トーレスはリヴァプールのメルウッド練習場で行われたメディカルチェックをパスした。リヴァプールとの6年契約を交わす前にアトレティコのファンに別れの挨拶をすることを希望し、7月4日にマドリードで記者会見を開いた。移籍金額はリヴァプール史上最高額だった。2008年3月、ラファエル・ベニテス監督はタイムズ紙のインタビューにおいて「ルイス・ガルシアの移籍を考慮に入れると、リヴァプールFCはトーレスを約2000万ポンドで獲得した」と述べた。最大のライバルであるレアル・マドリードとのマドリードダービーでは得点できない期間が続いたが、移籍前最後のダービーとなった2006-07シーズンのホーム戦でマドリードダービー初得点を決めた。2002-03シーズンから2006-07シーズンまでのマドリードダービーの戦績は0勝4分6敗(ホームでは0勝1分4敗)であり、ついに勝ち星を挙げることができなかった。レアル・マドリードとの対戦を不得手としている一方でFCバルセロナ戦での得点率が高く、FCバルセロナがリーグ連覇した2004-05シーズンと2005-06シーズンはホーム&アウェーの4戦全てで得点するなど、2007年4月までの計9戦で7得点を決めた。最後の対戦となった2007年5月のホーム戦では0-6で大敗し、その敗戦が移籍を決断するターニングポイントだったことを自著で認めている。移籍以前からアトレティコ同様にリヴァプールFCを応援しており、「(アトレティコと)同じにおいがする」と愛着を示している。移籍当初は英語が不得手だったが、同じスペイン人のホセ・マヌエル・レイナやシャビ・アロンソによるサポートを公私に渡って受け、お気に入りのザ・ビートルズのCDを聴いて勉強するなどして英語力を上達させた。なお、トーレスの家はレイナの家族が住んでいる家から50mしか離れていない。2007年8月11日、アウェーのアストン・ヴィラ戦でデビューし、2-1で勝利を飾った。その4日後にはUEFAチャンピオンズリーグデビューを飾り、予選3回戦のトゥールーズ戦に79分から途中出場して1-0で勝利した。8月19日のチェルシー戦でアンフィールドでの試合に初めて出場し、この試合の16分に決めた先制点が移籍後初得点となった。初めてのハットトリックは9月のカーリング・カップのレディング戦で生まれ、後半だけで3得点して4-1で勝利した。UEFAチャンピオンズリーグでの初得点はグループリーグ初戦のFCポルト戦であり、その試合では2得点を決めて4-1で勝利した。2008年2月23日のミドルスブラ戦(ホーム)で達成したハットトリックも含め、2008年2月にはリーグ戦2試合で4得点を決め、プレミアリーグの月間最優秀選手に選ばれた。ミドルスブラFC戦の2週間後の3月5日には、ウェストハム戦(ホーム)でまたもやハットトリックを決め、リヴァプールの選手としては1946年11月にジャック・バルマー()が達成して以来となるホームでの2戦連続ハットトリックを成し遂げた。3月後半のレディング戦(ホーム)において47分にヘディングで得点し、リヴァプールの選手としては1995-96シーズンにロビー・ファウラーが達成して以来となるリーグ戦20得点を達成した。4月にはUEFAチャンピオンズリーグ準々決勝のアーセナル戦2ndレグで得点し、準決勝進出を決めた。この得点は2007-08シーズンの全ての大会を通じて29得点目となり、コップのアイドルだったマイケル・オーウェンが在籍期間中に記録した1シーズンでの最高得点数を凌いだ。2008年4月11日にはPFA最優秀選手賞の候補6人に選ばれたが、結局マンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウドが受賞した。またPFA最優秀若手選手賞にもノミネートされたが、この賞はアーセナルのセスク・ファブレガスが受賞した。上記二つの受賞は逃したが、PFA年間ベストイレブンに選ばれた。5月に発表されたFWA年間最優秀選手賞ではC・ロナウドに次ぐ次点だった。2008年5月4日、ホーム最終戦のマンチェスター・シティ戦で57分に決勝点を挙げ、1960年代に活躍したFWロジャー・ハント()が保持していたアンフィールドでの連続得点記録(8試合)に並んだ。最終節のトッテナム戦でリーグ戦24点目となる得点を決め、イングランド挑戦1年目の外国人の最多得点記録を樹立した 。それ以前の記録はファン・ニステルローイ(オランダ)がマンチェスター・U移籍1年目に記録した23点だった。プレミアリーグの得点王争いでは31得点のC・ロナウド(マンチェスター・U)には及ばなかったが、エマニュエル・アデバヨール(アーセナル)と並んで2位に入った。この時期にはチェルシーが彼と契約するために移籍金5000万ポンドを支払うのではないかという憶測が報道されたが、トーレス自身は当分の間はリヴァプールを離れないだろうと答えた 。クラブの共同オーナーの一人であるトム・ヒックス()も移籍話を否定し、どんな金額を積まれても移籍を許すつもりがないと答えた。2008-09シーズン開幕戦のサンダーランド戦では試合唯一となる得点を挙げ、期待の持てるスタートを切ったが、結果的にこのシーズンは幾度もの負傷に苦しめられたシーズンであった。3節のアストン・ヴィラFC戦でハムストリングを負傷して2〜3週間の離脱となった。チャンピオンズリーグのマルセイユ戦で復帰して2-1で勝利すると、9月27日のエヴァートンとのマージーサイド・ダービーでは2得点を決めて2-0で勝利した 。ダービーの翌週末にはシティ・オブ・マンチェスター・スタジアムで行われたマンチェスター・シティ戦で1-2の劣勢から2得点を決めて3-2での逆転勝利を収めた。彼がこの試合で決めた1点目は、リヴァプールがプレミアリーグで決めた1000点目の得点となった。リーグ戦では好調を維持していたが、スペイン代表として出場した2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選・ベルギー戦でハムストリングの怪我を再発させ、クラブの試合を3試合欠場した。10月22日、クラブはチャンピオンズリーグの試合でトーレスの古巣アトレティコ・マドリードとアウェーで対戦したが、彼は負傷の影響で試合を欠場した。アトレティコのセレソ会長はトーレスをVIP席に招待する予定だったが、イングランドでのリハビリを優先させるためにトーレスはセレソ会長の申し出を辞退し、試合は自宅でテレビ観戦した。10月27日、2007-08シーズンのFIFProベストイレブン(を参照のこと)に選ばれた。復帰戦はウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦で、72分から途中出場した試合を3-0の勝利で飾った。インタビューで古巣アトレティコへの復帰に興味を持っていると言い、「僕がアトレティコで現役引退するかどうかはわからない。でもアトレティコで何かをやってから引退したいと思っている」と語った。11月のチャンピオンズリーグ、マルセイユ戦の1-0勝利後にまたもやハムストリングを痛め、プレー不可を余儀なくさせられた。当初は2〜3週間の離脱と見られていたが、専門医の診断により離脱期間は4週間に延びた。12月にはFIFA最優秀選手の候補に選ばれ、C・ロナウドとリオネル・メッシに次ぐ3位の位置を得た。負傷からの復帰戦は彼にとって初めてのFAカップ出場となった2009年1月3日のプレストン・ノースエンドFC戦であり、途中出場して2-1で勝利した。2月1日のチェルシー戦では試合終盤に2得点を決めて2-0での勝利を飾った。加入してから1年半しか経っていないにも関わらず、タイムズ紙による「リヴァプールFCの歴代最優秀選手50人」に選ばれ、これだけの短期間で彼が見せつけた衝撃を増強させている。チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦ではアトレティコ時代にライバル関係にあったR・マドリードと対戦することになったが、足首を怪我していたため、プレー可能な状態にするために試合前に鎮痛剤を注射して試合に臨んだ。1stレグで先制点を決め、4-0で大勝して2ndレグを待たずに勝ち上がりをほぼ確定させた。その4日後にはオールド・トラッフォードでのマンチェスター・ユナイテッド戦のメンバーに名を連ね、1-1に追い付く得点を決めて4-1で勝利した。2009年4月、2008-09シーズンの活躍からPFAベストイレブンに選ばれた。5月24日、リーグ戦最終節のトッテナム戦でゴールを決め、移籍後の公式戦84試合目にして50得点を達成した。クリスマスのリーグ戦折り返し時点でクラブは首位に立っており、最終的に勝ち点86と過去最高の勝ち点を獲得したが、惜しくも2位に終わった。トーレス自身はリーグ戦は24試合の出場にとどまったにも関わらず、リーグ得点ランキング4位・チーム内得点ランキング2位の14得点を記録し、エースとしての仕事は全うした。2009年5月、クラブとの新契約にサインした 。この契約によると、彼の給料は週給11万ポンドまで引き上げられ、契約が満了する2013年に同条件で1年間契約延長できるオプションが付けられた。2009年には1400万ポンドもの収入があったと報道されている。2009年9月19日、ウェストハム戦で2得点を決めた。その1週間後にはアンフィールドでのハル・シティFC戦でハットトリックを達成し、6-1で大勝した。9月には計5得点を決めて得点ランキングの首位に立ち、リーグ月間最優秀選手に選ばれた。10月25日、先制点を決めて2-0で勝利したマンチェスター・U戦後、ベニテス監督は「我々は最後の通行許可証を待っていた」との比喩表現を使ってトーレスのプレーを称賛した。12月にはFIFProベストイレブンに選ばれた。12月29日のアストン・ヴィラ戦でロスタイムに決めた得点はクラブ最速でのリーグ戦50得点目となった 。それまでの記録はロジャー・ハントが達成した78試合だった。2010年4月4日のバーミンガム・シティFC戦では65分に途中交代を命じられた。この理由を聞かれたベニテス監督は「トーレスがひどく疲れていたから」だと弁明した。膝の手術を受けるために4月後半以降は試合に出場しないと報道された2009-10シーズンのリーグ戦は22試合の出場ながら18得点を挙げ、得点ランク6位に入った。シーズン全ての大会を通じて32試合出場22得点の成績を残し、2度目のチーム得点王に輝いた。2011年1月31日、チェルシーFCと5年半契約を結んだ。移籍金は5000万ポンドと報道されているが公表されていない。2月6日に行われた古巣リヴァプールFC戦でデビューを飾った。デビューから初ゴールをあげるまでに903分間もの時間を要した。これはクリス・サットンの記録を抜いて、クラブワースト記録となった。2年目のシーズンではリーグの不調による監督交代を経験しながらもFAカップとUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成した。CL準決勝バルセロナ戦2legではバルセロナを落胆させる決定的なゴールを決めてチームの決勝進出に貢献。決勝戦のFCバイエルン・ミュンヘンとのゲームでも同点となるコーナーキックを演出するきっかけを作った。翌年にはUEFAヨーロッパリーグの決勝SLベンフィカ戦で自身の先制点もありチームの優勝に貢献。これによって1選手としてプリメーラ・ディビシオン、プレミアリーグ、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグ、FIFAクラブワールドカップ、FAコミュニティシールド、FAカップ、フットボールリーグカップの8大会で得点し、なおかつUEFA欧州選手権、FIFAワールドカップ、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグの4大会で優勝を経験するという史上初の快挙を達成した。2014年8月29日、リヴァプールFCに移籍したマリオ・バロテッリの後釜として、ACミランへ2年間のレンタル移籍が合意に至ったと発表された。9月20日に行われたセリエA第3節ユヴェントス戦で76分にアンドレア・ポーリに変わって出場し移籍後初出場となった。同月23日に行われた第4節エンポリFC戦では、前半43分にイニャツィオ・アバーテが上げたクロスに頭で合わせ移籍後初ゴールを決めた。2014年12月27日、2015年1月5日付でミランに完全移籍することが発表された。2014年12月29日、古巣アトレティコ・マドリードへの移籍合意が発表された。契約は2015年1月5日から1年半のレンタル移籍。1月7日、コパ・デル・レイ5回戦のレアル・マドリード戦で移籍後初出場。1月15日の2ndレグでは2得点を決めて復帰後初得点を記録し、チームの準々決勝進出に貢献した。9番を着用していたマリオ・マンジュキッチのユヴェントス移籍に伴い、2015-16シーズンより背番号を19番から慣れ親しんだ9番に変更することを発表。背番号を9に変えた2015シーズンではアトレティコマドリーでの通算100ゴール目を決めている。2001年2月、U-16スペイン代表の一員として出場したアルガルヴェ・トーナメント(Algarve Tournament)で優勝した。5月にはUEFA U-16欧州選手権に参加し、決勝では試合唯一の得点を挙げて優勝し、大会得点王と大会最優秀選手に輝いた。2001年9月、トリニダード・トバゴで開催されたFIFA U-17ワールドカップに出場したが、グループリーグ敗退に終わった。2002年7月、ノルウェーで開催されたUEFA U-19欧州選手権で優勝し、1年前と同じく決勝では試合唯一の得点者となった。また、大会得点王に輝いて大会最優秀選手に選ばれた。2003年9月6日のポルトガルとの親善試合でスペインA代表デビューし、2004年4月28日のイタリア戦でA代表初得点を決めた。2004年にはポルトガルで開催されたUEFA EURO 2004に出場した。グループリーグの最初の2試合に途中出場した後、運命を決める3試合目のポルトガル戦に先発出場したが、スペインは1-0で敗れてグループリーグ敗退に終わり、トーレスは得点を挙げることができずに大会を後にした。2006 FIFAワールドカップ欧州予選では、ベルギー戦での極めて重要な2得点や代表戦で初ハットトリックを達成したサンマリノ戦の3得点も含めて11試合に出場して7得点を決め、チーム内得点王になった。本大会メンバーにも順当に選ばれ、4-0で大勝したグループリーグ初戦のウクライナ戦ではボレーシュートを決めた。グループリーグ2戦目のチュニジア戦では76分に2-1とリードする得点を決め、90分にPKで追加点を決めた。この3得点により、コンビを組むダビド・ビジャと並んでスペイン代表のトップスコアラーになった。2008年にスイスとオーストリアで共催されたUEFA EURO 2008にはスペイン代表の中心選手として臨み、グループリーグ初戦のロシア戦ではビジャの先制点をお膳立てした。途中交代時にルイス・アラゴネス監督との握手を拒否した(ように見えた)ことが批判の対象になったが、交代を命じた監督の采配に不満があったことは否定し、ゴールを奪えない自分自身に対して腹を立てていただけと弁解した。2戦目のスウェーデン戦でこの大会での初得点を決めた。コンビを組むビジャの負傷により決勝のドイツ戦はトーレスの1トップとなったが、前半33分にシャビのスルーパスに反応し、先にコースに入ったフィリップ・ラームを持ち前のスピードで外側から抜き去りイェンス・レーマンの鼻先で体勢を崩しながらもループシュートを決め、結局この得点が決勝点となりスペイン代表の優勝を決めた。この試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、試合後には「夢が叶った。これは自分にとって初めてのタイトルであり、これから獲得する多くのタイトルのうちの1つ目であることを願っているよ。UEFA欧州選手権での優勝はFIFAワールドカップ優勝に匹敵するほど重要なものだ。僕らは今までこの試合(決勝戦)をブラウン管越しに眺めていたが、今回はピッチの上で戦っていて、しかもその試合に勝った。僕の仕事はゴールを奪うことだ。より多くのタイトルを勝ち取りたいし、欧州や世界の舞台でより重要な選手になりたい」と語った。大会後にはパートナーを組むビジャとともに大会ベストイレブンに選ばれた。2009年3月28日の2010 FIFAワールドカップ欧州予選・トルコ戦で代表60キャップ目を記録し、スペイン代表史上もっとも若くして60試合に到達した選手になった。2009年6月に南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009にも参加した。6月14日のニュージーランド戦では代表で2度目のハットトリックをわずか17分間で達成し、これはスペイン代表最速のハットトリック記録となった。準決勝のアメリカ戦には0-2で敗れ、3位決定戦の南アフリカ戦は延長戦の末に3-2で勝利した。2010 FIFAワールドカップ欧州予選には10試合中7試合に出場したが、同じ試合数に出場したビジャが7得点を挙げたのとは対照的に無得点に終わった。2010年4月に右膝を手術した影響で本大会出場選手発表までの回復が不安視されていたが 、2010 FIFAワールドカップのメンバーに選ばれ、ポーランドとのテストマッチで得点して順調な回復を印象付けた。0-1で敗れた初戦のスイス戦では61分に途中出場したが 、次のホンジュラス戦とチリ戦には先発出場した。大会直前に負った足の負傷の影響もあってプレーに精彩を欠き、ホンジュラス戦ではフリーで放ったヘディングシュートを外すなど、グループリーグでのプレーは平均以下だと評されたにもかかわらず、ビセンテ・デル・ボスケ監督はトーレスを信頼した。決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦では試合から消え、準々決勝のパラグアイ戦も得点に絡めなかったため、2戦連続で途中交代させられて、さらに準決勝のドイツ戦は先発メンバーから外された。この試合までの出場277分間でシュート13本を放ったが、枠内シュートはわずか2本だった。7月11日に行われた決勝のオランダ戦には105分から途中出場した。いいところがないながらも延長戦後半で決勝点を決めたアンドレス・イニエスタのゴールに絡んでいる。ヘスス・ナバスからパスを受けたフェルナンド・トーレスはイニエスタにクロスを上げるもラファエル・ファン・デル・ファールトにカットされるが、それをセスク・ファブレガスが拾ってイニエスタにラストパスを送ったことで劇的なゴールが生まれた。不運にもボールを追いかけている最中に大会前に痛めた古傷が再発してピッチ上に倒れ、試合終了間際に負傷退場した。5ゴールを決めて得点王争いトップタイだったチームメイトのダビド・ビジャとは対照的にグループリーグ初戦から決勝までの全7試合に出場しながら無得点と、FIFAワールドカップ初優勝に沸くスペイン代表の中で不完全燃焼の結果に終わった。2012年にポーランドとウクライナで共催されたUEFA EURO 2012は、セスク・ファブレガスとポジションを争う形となったり、0トップの戦術が採用された影響もあり、出場時間が限られる形となったがグループリーグ2戦目のアイルランド戦で2ゴール。さらに決勝のイタリア戦で1ゴール1アシストを決め、大会の得点王に輝いた。(なおドイツ代表のマリオ・ゴメスも同じ3ゴール1アシストをマークしており並んでいたが出場時間が大会通じて約一試合フル出場分少なかったトーレスが単独得点王扱いとなった。)2012年9月7日に行われた国際親善試合のサウジアラビア戦で代表出場100試合を達成した。同時にこれが当時のスペイン代表選手の代表試合100試合出場達成最年少記録となった。FIFAコンフェデレーションズカップ2013ではタヒチ戦で4ゴール1アシストを決めるなどの活躍もあり、大会得点王に輝く。(ブラジル代表のフレッジも同じ5ゴール1アシストで並んでいたが、大会通算での出場時間が短いトーレスがゴールデンシューズに選ばれた。奇しくも前年のUEFA EURO 2012の時と同じく、ゴール数、アシスト数ともに並んだ選手がいながら、出場時間の関係で単独得点王の栄冠に輝く結果となっている。)世界各国のジャーナリストの投票によってヨーロッパ年間最優秀選手を決めるバロンドール投票においては、2006年に50人の候補に初めてノミネートされ、2006年と2007年はポイントを獲得できなかったが、2008年の投票ではリーグ戦やUEFA EURO 2008などの活躍が評価されてスペイン人最高位の3位となる179ポイントを得た。各国代表チームの監督とキャプテンの投票によって世界最優秀選手を決めるFIFA最優秀選手賞投票においては、2007年に全体の26位となる4ポイントを獲得した。この年にはトーレス以外にポイントを獲得したスペイン人選手はいなかった。2008年には6人のスペイン人選手がノミネートされ、トーレスは全体の3位となる203ポイントを獲得した。同賞で3位以内に入ったことのあるスペイン人はラウル・ゴンサレス(2001年、3位)だけである。2009年にはスペイン人3位となる113ポイントを獲得し、7位にランクインした。2010年にバロンドールとFIFA最優秀選手賞が統合されてFIFAバロンドールとなった。2010年と2011年はノミネートされていない。優れた加速力、スピードと決定力、多彩なフィニッシュパターンを持ち、力強いポストプレーや空中戦の強さ、ディフェンダーとの駆け引きなどが評価されている。そのプレースタイルから「フェノーメノ」と呼ばれている。アトレティコ・マドリードやリヴァプールFCでは中盤から速い縦パスを受け、スピードを生かして相手守備陣の裏のスペースに走りこむスタイルが持ち味であるが、スペイン代表は中盤からショートパスをつないでゲームを組み立てていくスタイルであるため、前線にトーレスが走りこむスペースがないことが多く、代表では本来の力を発揮していないと批判されることも多い。トーレス自身はスピーディなプレミアリーグのプレースタイルが自分に合っていると語っている。リヴァプールFCでチームメートだったスティーヴン・ジェラードはトーレスを「ボールを持っていない時の動きも素晴らしい。献身的に前線から守備をしてディフェンダーに余裕を与えず、少しでも相手が躊躇すれば、真っ先にその選手に飛び掛かっていく。それに、ディフェンダーの背後を突く能力にも長けている」と評している。端整なルックスで男女問わずファンから高い人気を誇り、2008年12月にプレミアリーグの冠スポンサーであるバークレイズが行った「プレミアリーグで最も好きな選手は?」というアンケートで1位に選ばれた。2009年2月、2001年から交際していた(交際期間は8ヶ月であるという考え方もある)女性との間に第1子が誕生する予定であることが明らかにされ、のちに胎児が女の子であると診断されたことが分かった。5月27日、マドリード郊外にあるエル・エスコリアルで小規模な結婚式を挙げた 。彼女は8歳のころからの幼馴染であり、2001年7月7日のファーストキスを記念して左足にVII-VIIというタトゥーを入れている。2009年7月8日、ガリシア州都サンティアゴ・デ・コンポステーラのラ・ロサレーダ病院で娘が生まれた。2010年12月には長男が生まれた。友人のダニ・マルティンがボーカルを務める、スペインのポップロックグループのエル・カント・デル・ロコの"Ya Nada Volverá A Ser Como Antes"というビデオに出演したことがある 。2005年には"Torrente 3: El protector"というコメディ映画にカメオ出演を果たした。2009年には"Torres: El Niño: My Story"(邦題:『フェルナンド・トーレス - 神に選ばれしストライカー』)というタイトルの自伝を出版した。家族や友人とボードゲームやテレビゲームをして遊ぶことが好きであり、またニルヴァーナやホアキン・サビーナ()のCDをコレクションしている。リオネル・メッシと共にウイニングイレブン2010のイメージキャラクターとしてCMに登場しており、コナミが企画したインタビューで日本のファンに対して流暢な英語で感謝を述べた。日本の漫画『キャプテン翼』の大ファンで、ことあるごとにサッカーをやっている子供達に読むよう勧めている。幼少時はキャプテン翼の登場人物の若林源三に憧れてゴールキーパーをやっていたが、顔に来るボールをよけずに何度も歯を折り、フォワードへ転向してからは大空翼一筋になった。なお、フォワードの日向小次郎はあまり好きになれなかったという。

出典:wikipedia

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