二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好三人衆・松永久秀らの襲撃を受け、義輝は自ら太刀を執って奮戦したがあえなく落命した(永禄の変)。変後、跡地には真如堂が移された。義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され(フロイス『日本史』)、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」説を記す)が立っている。織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した。現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。東映京都撮影所や京都映画撮影所からは最も近い場所にある城であるが、後述する通り天守が焼失しているなどのため時代劇の城のシーンのロケ地としてはあまり用いられないが、現代ドラマ等のロケ地としてはしばしば用いられている。時代劇で城のシーンのロケーションとしては、より遠方の彦根城や姫路城のほうがより用いられることが多い。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが、証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。又、当初柱の銅版は金箔押しであって、現在現存している物より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となったものである。本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれている。この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説がある。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。天皇が昇った唯一の天守である。別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、1896年(明治29年)に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に作られた和洋折衷庭園。古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。城が宮内省から京都市に移管された後の1939年(昭和14年)10月28日に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、1944年(昭和19年)に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。二条城の外堀を囲む道路も含めて、二条城全域が1939年(昭和14年)11月30日に「旧二条離宮(二条城)」の名で史跡に指定された。徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長6年(1601年)であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。後水尾天皇の二条城行幸に備えて、寛永元年(1624年)から御殿の大改修が始まり、同3年(1626年)に完成した。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている。御殿の正門である唐門を入ると、正面に遠侍及び車寄があり、以下、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各建物が南東から北西へ雁行形に配置される。各建物は入側や渡廊下で連結されている。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍及び車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画が描かれている。御殿の建物はおおむね寛永期の状態を伝えるが、改変された部分もある。各建物の屋根は現状は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享3年(1686年)に建物の破損検分を行った際の記録によれば、当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年をさかのぼることは明らかである。二の丸御殿は、明治以降、昭和14年(1939年)に京都市に下賜されるまでの間は京都府庁や二条離宮として使用され、その間に障壁画の破損が進んだ。大広間と黒書院の外面の腰高障子も明治期に新たに入れられたもので、当初は使われていなかったものである。日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、オリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で貴重な存在である(名古屋城本丸御殿では、障壁画は大部分が現存するが、建物は太平洋戦争の空襲で焼失した)。遠侍は二の丸御殿のうちもっとも手前に位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で(以下に述べる二の丸御殿の諸殿はいずれも入母屋造、瓦葺き)、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。遠侍(玄関)の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威嚇する意図があるという。障壁画の筆者については狩野山楽との伝えもあるが、研究者は狩野甚之丞の筆と推定している。『二条御城御指図』(宮内庁書陵部蔵)には遠侍の障壁画の筆者を「真節」としており、これは「真設」(甚之丞の号)を指す。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所の障壁画の筆者とされる甚之丞とは別人(または制作時期が大きく異なる)の可能性が指摘されている式台は遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台の間、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。大広間は式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は松の巨木を主題とする。式台と大広間の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち狩野探幽の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされている。蘇鉄の間は式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。黒書院は蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様、松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。黒書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野尚信の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている。白書院は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用された。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。白書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野興意(狩野興以)の筆とあるが、筆者については異説もあり、2012年に東京都江戸東京博物館で開催された「二条城展」では「狩野長信または興以筆」とされていた。築城400年記念 展示・収蔵館(略称:展示・収蔵館)は二条城の敷地内東方にある施設であり、1982年に重要文化財に指定された二の丸御殿障壁画の原画を保管している。築城400年を記念して2004年3月に竣工され、2005年10月10日に開館した。御殿におけるレイアウトと同様に並べられた障壁画を、ガラス越しに鑑賞できる。二条城の北大手門付近の壁に、何かがぶつけられたと見られる窪みが、2016年2月6日までに約40個に亘り発見された。京都市は文化庁に報告し、修復方法を検討するとともに、京都府警察に相談している。
出典:wikipedia
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