『地獄の黙示録』(じごくのもくしろく、原題:" )は、1979年公開のアメリカ映画。フランシス・フォード・コッポラによる戦争映画。日本では1980年(昭和55年)2月23日に公開された。ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を原作に、物語の舞台をベトナム戦争に移して翻案した叙事詩的映画(エピックフィルム)。1979年度のカンヌ国際映画祭で最高賞であるパルム・ドールを獲得。アカデミー賞では作品賞を含む8部門でノミネートされ、そのうち撮影賞と音響賞を受賞した。それ以外にもゴールデングローブ賞の監督賞と助演男優賞、全米映画批評家協会賞の助演男優賞、英国アカデミー賞の監督賞と助演男優賞などを受賞している。2001年に、コッポラ自身の再編集による『特別完全版』が公開された。1970年、ベトナム戦争後期。アメリカ陸軍空挺将校のウィラード大尉は、妻と離婚してまで再び戦場に戻ってきた。彼は、MACV-SOGの一員として、CIAによる要人暗殺の秘密作戦に従事してきた経験が豊富だった。その実績を買われて、サイゴンのホテルに滞在中、アメリカ軍上層部に呼び出され、元グリーンベレー隊長のカーツ大佐の暗殺指令を受ける。カーツは、アメリカ軍の命令を無視して暴走し、カンボジアのジャングルの中に独立王国を築いていた。ウィラードは、海軍の河川哨戒艇に乗り込み、乗組員に目的地を知らせぬまま大河を遡行する。そして、一行は戦争の狂気を目の当たりにする。サーフィンをするために、ベトコンの前哨基地を襲撃する第一騎兵師団の指揮官。ジャングルに突如として出現したプレイメイトのステージ。指揮官抜きで戦い続ける最前線の兵士。そして、麻薬に溺れ、正気を失ってゆく哨戒艇の若い乗組員たち。やがてカーツの王国に近づくにつれて、ウィラード自身も少しずつ心の平衡を保てなくなってゆく。哨戒艇の乗組員を何人も失いながらも、何とか王国にたどり着いたウィラードは、王国の支配者カーツと邂逅し、その思想や言動に動揺する。一時は監禁されたものの、改めて自由を与えられたウィラードは、水牛を生贄にする祭りの夜にカーツの暗殺を決行する。作品序盤におけるウィラードの独白から、本作品は、ウィラードの任務での体験とカーツに纏わる物語を紡いだ構成となっている。映画の原案は、1902年に出版されたジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』(原題:"Heart of Darkness" )である。当初は、1970年代初頭に、同じ南カリフォルニア大学の映画学科に在籍していたジョージ・ルーカスとジョン・ミリアスが共同で進めていた企画であった。しかし、当時はベトナム戦争が行われていた最中であり、その企画は通らなかった。後にルーカスが『スター・ウォーズ』を製作するにあたり、作品の権利をフランシス・フォード・コッポラに譲り渡したのが始まりである。コッポラは映画化にあたり、『闇の奥』以外にもさまざまな作品をモチーフにした。映画中でT・S・エリオットの『荒地』(原題:"The Waste Land" )や『うつろな人間たち』(原題:"The Hollow Men" )の一節が引用されたり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(原題:"The Golden Bough" )から「王殺し」や「犠牲牛の供儀」のシーンが採用されるなど、黙示録的・神話的イメージが描かれている。この他、監督の妻エレノア・コッポラの回想録によると、コッポラは撮影の合間、しばしば三島由紀夫の『豊饒の海』を手に取り、本作品の構想を膨らませたという。コッポラは、映画の製作初期段階から、音楽をシンセサイザーの第一人者である冨田勲に要請していた。しかし、契約の関係で実現には至らず、結局監督の父親であるカーマイン・コッポラが音楽を担当した。このあたりの事情は、『地獄の黙示録 特別完全版』 サウンドトラック盤のライナーノーツで、コッポラ自身が詳細に語っている。ウィラード大尉は、当初ハーヴェイ・カイテルが演じる予定だったが、撮影開始2週間で契約のトラブルが原因で降板した。これ以降、カイテルは、ハリウッドを干され、インディペンデント映画中心に活躍することになる。その後、ハリソン・フォードの起用も検討されたが、『スター・ウォーズ』の撮影との関係により、最終的にマーティン・シーンに落ち着いた。また、フォードは、撮影の見学に来たときに端役として出演しており、その時の役名は「ルーカス大佐」となっている。報道班ディレクターとしてフランシス・フォード・コッポラが、報道班カメラマンとしてヴィットリオ・ストラーロがカメオ出演している。また、ヘリコプターの操縦手をベトナム戦争で従軍経験があるR・リー・アーメイが演じている。「プレイメイト・オブ・ザ・イヤー」役は、実際の1974年プレイメイト・オブ・ザ・イヤーである、「ミス8月」役は実際の1976年8月プレイメイトであるである。また、「ミス5月」役のコリーン・キャンプは、映画封切り後に1979年10月の『PLAYBOY』誌で写真を発表した。ロケは、アメリカ合衆国とベトナム社会主義共和国との国交がないため、フィリピン共和国の熱帯雨林で行われた。また、アメリカ合衆国軍の協力が得られなかったため、映画に登場するF-5戦闘機やUH-1ヘリコプターは、全てフィリピン軍の協力に拠った。しかし、当時のフィリピンは、フィリピン共産党ゲリラ「新人民軍」との内戦や南部イスラム教住民の反乱に直面していたため、実戦出動によって、ヘリコプターシーン撮影のスケジュールが乱れることもしばしばであった。途中、フィリピンを襲った台風によりセットが全て崩壊したことも、撮影スケジュールの遅延に影響した。この時の台風の模様は撮影され、ストーリー上急遽役割が与えられた。フランス人入植者たちのエピソードのように、莫大な費用と期間を掛けて細部まで拘りぬいた撮影が行われたものの、劇場公開版からは最終的に削除されてしまったシーンも数多く発生した。以上のような要因で、映画の撮影期間は、予定を超えてどんどん延びていった。コッポラは、キャスティング面でも多くの困難に対処する必要に迫られた。当初ウィラード大尉を演じる予定であったハーヴェイ・カイテルは、撮影開始2週間で降板し、新たに起用されたマーティン・シーンも、撮影途中の1977年3月5日に心臓麻痺で倒れ、一時生死の境をさまようほどの状態になってしまった。報道写真家役のデニス・ホッパーは、麻薬中毒でセリフが覚えられず、ことあるごとにコッポラと衝突した。それ以外にも、主演のマーロン・ブランドが撮影当時極度に肥満していたため、物語の設定を一部変更する必要が生じたこともあった。また、ブランドは、キャスティングや脚本に対して自己中心的な主張をすることも多く(役作りにより体から強烈な臭いを発していたデニス・ホッパーと一緒に撮影されることを拒否した)、遂には監督であるコッポラが心労で倒れる事態にまで陥ってしまう。トラブルは以降も続いたため、ストーリーも大きく変更され、後に脚本担当のジョン・ミリアスが不快感を表明するに至る。マーティンは、ルームミラーを拳で叩き割るシーンで、切傷を負って流血した。これは、台本にない完全な事故であったが、本人がそのまま撮影を続行するようにスタッフを促し、本編においてドアーズの「ジ・エンド」がBGMとして流れる場面に使用された。制作発表時、ベトナム戦争やアメリカ及びアメリカ軍を批判的に扱った最初の映画として物議を醸したが、スケジュールの遅延やキャスティング面でのトラブル、コッポラの完璧主義によって、撮影と編集が異常に長引いてしまった。撮影は17週間の予定が61週間(1976年3月から1977年5月)にも延び、編集にも2年余りの時間が掛けられた。同様にベトナム戦争を題材にし、この映画の後から制作が始まった『ディア・ハンター』の方が先に公開されたほどである。撮影終了後の1978年1月、制作会社のゾエトロープ社は作家のマイケル・ハーに電話し、ハーの『ディスパッチズ』(1977年)に基づいたナレーションを書いてもらうよう依頼した。ハーは、自著に書かれた言葉など「まったく使い物にならない」と答え、それからコッポラと共に1年かけて最終稿を完成させた。映画の完成が遅れるに伴って、映画の制作費も当初の予定を大幅に上回る結果となった。最初の予算は1200万ドル(当時の日本円で約35億円)だったが、実際に掛かったのは3100万ドル(約90億円)だった。そのうち、1600万ドル(約46億円)は、ユナイテッド・アーティスツ社が全米配給権と引きかえに出資したが、残りはこの映画を自分の思いのままに作りたかったコッポラが自分で出した。資金の一部は、日本の配給元でもある日本ヘラルドから支援されたともいわれる。コッポラの妻エレノア・コッポラは、後に撮影手記『ノーツ - コッポラの黙示録』を出版した。また、彼女が撮影の舞台裏を撮影したビデオや録音テープにスタッフ、キャストへのインタビューを加えたドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(原題:" )が1991年11月に公開された。当時の制作現場が、いかに「戦場」のようであったかが窺える記録映画となっている。北米で一般公開されたのは同年の8月15日である。映画製作中には様々な困難があったにもかかわらず、公開後全世界で大ヒットを記録し、巨額の制作費を無事回収することが出来た。1979年のカンヌ国際映画祭で未完成のまま出品され、『ブリキの太鼓』と共に映画祭の最高賞に相当するパルム・ドールを獲得した。授賞式の会場では、審査委員会の判断を批判するブーイングもあったという。批評家たちからは映画の内容を巡って様々な評価が下された(詳細は後述)。2001年には、53分の未公開シーンが追加された『地獄の黙示録 特別完全版』(原題:" )が公開された。この特別完全版では、台風により不時着したヘリコプターと、それに乗っていたプレイメイト達の幕間劇、フランス人入植者たちとの交流のエピソードなども復元された。解説的なナレーションが増えたわけでは無いが、全体的にアメリカ合衆国の偽善や欺瞞を告発するような場面が増え、初公開版とは大きく印象が異なるものとなった。例えばフランス人入植者たちとの会食の席で、ウィラードが「ベトコンを創り出したのはアメリカ人」とその由来を知らされ、愕然とするシーンなどである。特別完全版のプレミアは初公開時同様、カンヌ国際映画祭で行われた。特別完全版の公開に時を同じくして、アメリカ合衆国はターリバーン勢力の殲滅を名目に、アフガニスタン侵攻を開始。ターリバーンの母体となったムジャーヒディーンを、冷戦中にアメリカ合衆国が支援していたといった事情を考慮し、日本の配給会社によって「コッポラは『地獄の黙示録』でアメリカ同時多発テロ事件を予見していた」という根拠のない内容の宣伝もされた。なお、特別完全版の日本版予告編でのキャッチコピーは「これはコッポラが産んだ生きものだ」、「本物にして最後の映画。アメリカ映画史上最高の傑作。」、「戦争。アメリカ。」である。『地獄の黙示録』は、公開直後から映画に対する賛否両論が噴出した。映画評論家たちの間では、「ストーリーもあるようでないようなものである」「戦争の狂気を上手く演出できている」「前半は満点だが後半は0点」など、意見が分かれがちな映画である。作品としての質は別にして、批評家たちは「泥沼のベトナム戦争がアメリカ人に与えた心の闇を、衝撃的な映像として残した怪作である」と結論付けた。また、立花隆は、ギリシャ神話を隠喩的に織り込んでいると述べた。公開当時、70ミリ版で3回、35ミリ版で1回見たという村上春樹は、評論『同時代としてのアメリカ』の中で次のように述べている。「『地獄の黙示録』という映画はいわば巨大なプライヴェート・フィルムであるというのが僕の評価である。大がかりで、おそろしくこみいった映画ではあるが、よく眺めてみればそのレンジは極めて狭く、ソリッドである。極言するなら、この70ミリ超大作映画は、学生が何人か集まってシナリオを練り、素人の役者を使って低予算で作りあげた16ミリ映画と根本的には何ひとつ変りないように思えるのだ」映画の冒頭は、ドアーズの「ジ・エンド」をBGMに、ベトナム戦争を象徴する兵器であるナパーム弾が全てを焼き払うかのような映像シーンである。そして、ウィラードがカーツ殺しに至るシーンで流れているのも、やはり「ジ・エンド」である。この他にも、キルゴア中佐率いる部隊がワーグナーの「ワルキューレの騎行」をオープンリールで鳴らしながら、9機の武装したUH-1ヘリが、南ベトナム解放民族戦線の拠点であるベトナムの村落を攻撃していくシーンなど、さまざまな意味で話題となったシーンは多い。また、既存の文学作品や映画作品からモチーフを借りた場面も多く、これらのシーンについて、さまざまな解釈が公開当時から行われていた。映画中では、アメリカ側におけるベトナム戦争のいい加減さを強調し、歴代アメリカ合衆国大統領(ジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの両大統領)により拡大した、ベトナム戦争に対するアメリカ合衆国連邦政府への批判がみられる。例えば、サーフィンをするためにベトナムの村落を焼き払うヘリ部隊の指揮官、指揮官不在で戦闘をする部隊といった描写である。上記のように、本作品は、ベトナム戦争の暴力や狂気を強調し、アメリカ合衆国のベトナム戦争への加担を暗に批判したという点で評価される面がある。その反面、戦争の暴力や狂気をテーマとしながら、それらを視覚的に美しく描くことに成功しているという評価もなされている。公開当時は否定的な意見も多かったが、現在ではアメリカ映画史上重要な地位を占める作品であると概ね肯定的に評価されている。1998年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが選んだ『アメリカ映画ベスト100』中第28位、2007年に更新された『アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)』中第30位にランクインした。2000年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。IMDbによる人気投票でも上位にランクインされている。また、キルゴア中佐の台詞である「朝のナパーム弾の臭いは格別だ」()は、AFIによる『アメリカ映画の名セリフベスト100』中第12位に選ばれている。
出典:wikipedia
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