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YS-11

YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い(後述)時刻表では主にYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。長期にわたり運用されたが、2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了し、また、2011年(平成23年)に海上保安庁で使われていた機体も退役しているが、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されている(後述)。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされて解体こそ免れているものの、機体そのものが旧式であることもあり、使用されている場面は世界的に見ても非常に稀である。連合国軍占領下の日本では連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による航空禁止令が布告されて、日本にあるすべての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目を取り除かれていた日本が、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約の発効で再独立した。日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除され、この年の7月に航空法や航空機製造事業法が施行された。民間航空会社は1951年(昭和26年)に日本航空がGHQの意向で発足し、翌年の1952年(昭和27年)には全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送、極東航空が発足し、その翌年の1953年(昭和28年)までに東亜国内航空の前身となる日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空が発足した。戦後の日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製や、デ・ハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いは、多くの航空関係者の抱くところであった。戦後の日本の航空機産業は、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争で米軍機の整備・修理の受注を皮切りに、1955年(昭和30年)4月には、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)と新三菱重工業(現三菱重工業)で自衛隊向けの機体(ロッキードT-33Aジェット練習機、ノースアメリカンF-86F)の国内ライセンス生産が決定するまでになっていた。当時の航空機産業の監督官庁である通商産業省(通産省、現・経済産業省)は、商品サイクルの長い輸送機の開発生産に取り組ませることで、その産業基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、軍用機と民間機を共通化すれば開発コストが低下すると考え、「国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する」との名目で国産機開発の計画が立ち上げられた。世界的には国家から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積し、それを旅客機に転用する例が多く、通産省も開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想していた。当時は運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の、二重行政で決着した。国内線用の旅客機の本格研究は新明和工業(旧・川西航空機)で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行い、後にYS-11の設計に参加する菊原静男、徳田晃一が中心となって進められた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった。1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出された。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の大臣交渉で予算を獲得することができた。鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した。同年5月、理事長に新三菱重工副社長の荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政東京大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業(現・三菱重工業)、川崎航空機(現・川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと、住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気、三菱電機、東京航空計器の部品メーカー各社であった。複数企業のジョイントとなった理由は、国内新型航空機開発と言う大型プロジェクトを、特定の企業一社に独占的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである。輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、先述の川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった戦前の航空業界を支えた技術者が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機の製作に携わった木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル(800km-1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3-4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの運輸省の主張から4年に短縮された。国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、1958年(昭和33年)12月11日に日本飛行機の杉田工場でモックアップを完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションであり、技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、横列5席の構成とし、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、表皮を西陣織とした座席が設置された。この座席は当時の価格で一脚50万円以上したと言われている。このモックアップを作るのにかかった費用は5,500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。モックアップ公開後、航空機メーカーの業界団体による設計組合的な輸送機設計研究協会から官民共同の特殊法人として日本航空機製造(日航製;NAMC)を1959年(昭和34年)6月1日に設立し、輸研は解散した。資本金を5億円とし、政府が3億円、民間からの出資は2億円であった。初代社長には輸研理事長の荘田康蔵が就任した。民間分の出資は輸研に参加した機体メーカー6社と材料・部品メーカーに加え、新たに商社、金融機関が出資した。日航製は輸研の残留スタッフの30名と、出資各社からの出向者に役員13名の総勢125名で発足した。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條は父親で陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の勧めで、軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。設計部は、1.庶務及び設計管理、2.全体計画(空力、性能、基礎研究)、3.胴体構造、客席艤装、胴体強度、4.主翼、エンジンナセル、エンジン艤装、燃料供給装置、5.尾翼、脚、油圧、6.電気、無線、計器、与圧、防水、客室艤装の各6班に分かれて分担した。日航製は設計開発、生産管理、品質管理、販売、プロダクトサポートを行い、生産は機体メーカー各社が分担し、最終組立は三菱重工業が行うこととした。中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアや、オランダのフォッカー、イギリスのBACなどの欧米航空機メーカーが、自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画、つまり独自開発の計画中止を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためしつこく食い下がってきたが、通産省はこれらをすべて一蹴した。設計・各種計算には、富士通のリレー式計算機FACOM 128B等が使われた。FACOM 128Bは同型機が現在、富士通沼津工場の池田敏雄記念室に展示・動態保存されている。同様の計算機の動態保存機としては世界最古である。機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場が担当した。各社の分担内容は以下のとおりである。併せて治工具の開発も行われた。輸出を前提として米国のFAA(連邦航空局)の型式証明の取得を目指したため、戦前までの軍用機の生産技術は新しい民間機の生産技術にはほとんど役立たなかったと言われる。エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器も、運行する航空会社が、実績があってアフターサービスが充実しているメーカーの製品を強く指向したため、気象レーダーと無線機は米国の社や社の製品であり、ほぼ全て日本国外の製品を輸入する結果となった(それらの機器に、実績がない日本国産品を採用したのは運輸省に納入された機体のみであった)。当時日本国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材は、アメリカのアルコア社から購入した。当初日本の金属メーカーも採用に向けて意欲を示したものの、YS-11に使用する量のみの生産では量産効果が期待できず、価格で対抗できないうえ、アルコア社のアルミ合金材は米国の軍用規格の金属材料であり、日本のJIS規格よりも品質が高かったため、アルコア社の金属材料が採用された経緯がある。耐空性審査要領に規定された荷重に耐える強度と耐用寿命を持つことを証明するために試験機が2機、01号機(静荷重試験用)・02号機(疲労試験用)が製造された。01号機を使用して1962年(昭和37年)に静荷重試験が実施され、破壊試験では制限荷重の153%で主翼が破壊するという好結果が得られた。02号機(疲労試験用)を使用した疲労試験は1961年(昭和36年)7月に開始された。安全寿命3万時間を目標としたYS-11の場合は、当時の統計理論より導かれた安全寿命係数(主翼は6.3胴体は22.5)を適用して1965年(昭和40年)4月までに、世界でも例のない20万回を越える疲労強度試験が行われた。胴体は9万時間まで、主翼は6万4000時間まで主要構造部には疲労被害は生じなかった。一方この時代にジェット旅客機が出現し安全寿命の考え方では設計が困難であるとの認識が一般的になり、フェールセーフ設計により耐用寿命を与えるように対空性審査要領も改訂された。YS-11の疲労試験でも、後半ではフェールセーフがあることを証明するために生じたクラックの進展データを得ることに重点が置かれた。胴体は22万5000時間、主翼は18万9000時間の疲労試験時間内では致命的な疲労被害が生じないことが確認された。飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1か月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。8月30日、日航製は200人以上のマスメディアを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間飛行し、各種試験、およびマスメディアへのデモンストレーションは成功裏に終了した。10月には全日本空輸(以下・全日空)との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。しかし、全日空は後述する試作段階での三舵問題等の諸問題の発生から、正式な購入契約が交わされたのは2年後の1964年(昭和39年)であった。全日空では第一次受領分は3機とし、開発の遅れや日航製の改善要求の対応のまずさから不信感を増し、生産ラインが安定する10機目以降とするとの要求に加えて、一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保する条件とした。日本国内航空や東亜航空も全日空と同様に、初期の導入機体は一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保するとの条件を出していた。また、日本航空も初期の開発段階の1963年(昭和38年)に5機の仮発注を行っていたが、国際線主体の日本航空では自社路線の適性となる路線が少ないことから本契約に至ることはなかった。国家プロジェクトにナショナル・フラッグ・キャリアとして協力する姿勢を表明する、アドバルーン的意味合いが強かったと言われている。開発段階から操縦性の悪さが露呈していた。12月18日には皇太子明仁親王(今上天皇)を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いため振動と騒音が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵も効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして墜落の危機に直面することもあった。いわゆる「三舵問題」である。これらは、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の型式証明の取得の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修が予想以上に手間取ったため、マスメディアからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされた。全日空は納入の遅れがはっきりしたため、競合機種であったフォッカーF27 フレンドシップを導入した。初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいとの結論を出したが、設計の変更と再組み立てには1年かかると見込まれた。そこで、川崎の土井の提案により主翼の付け根に角度2度のくさび型部品(通称:土井のくさび)を挟み込むことで上反角を変更した。これにより機体を前方より見ると、主脚が「八」の字のようながに股のようになっている。操縦性の悪さは方向舵のバランスタブを、新考案のスプリングタブに変更して、右偏向はエンジン取り付け部(エンジンナセル)の後ろに三角形の突起(通称、三味線バチ)を取り付けることで解決、また、地上でのステアリングの効きを良くするため、主脚を後方へ傾斜させ、車輪の位置を後退させた。これらの大改修により、FAAの型式証明取得の再審査では耐空類別T類に必要な片発離陸(離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)をクリアし、FAAの型式証明を取得している。1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機(JA8612)が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の愛称がマーキングされたが、機体や全日空の時刻表には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となったピードモント航空も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった。1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制が整った。民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始した。日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「真珠号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製造に返却した。その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が広島 - 大阪(伊丹)線、大阪 - 米子線に就航、同年5月31日に南西航空がリース契約で受領し、同年6月8日に那覇 - 宮古線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、本土復帰前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。遅れて、1969年(昭和44年)4月1日に日本航空が日本国内航空よりウエットリースで福岡 - 釜山間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航をボーイング727で計画していたが、同じ路線を運航する大韓航空の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った韓国政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった。YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。1964年(昭和39年)1月15日に日本機械輸出組合と日本航空工業界による「航空機東南アジア・豪州市場調査団」が日本国外に派遣されたのを始めとして、日航製による日本国外の営業が繰り返された。しかし、日航製には航空機販売のノウハウがないことから、総合商社の販売ネットワークに頼ることとなった。YS-11の最初の輸出は1965年(昭和40年)10月にフィリピンのフィリピナス・オリエント航空であった。戦争賠償の一環として2012号機が引き渡された。同社はその後最大4機のYS-11を保有した。無名で実績のない日航製が日本国外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に日本国外へ飛行し、デモンストレーションを行った。まず、1966年(昭和41年)9月15日から10月13日にかけて北米へ渡航、アメリカ合衆国のサンフランシスコ・デンバー・セントルイス・ワシントンD.C.・マイアミを飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社であるピードモント航空やハワイアン航空からまとまった数の受注を得ることができた。しかし、ピードモント航空では使用機材を例に機体仕様で多くの改善オプションを要求され、ハワイアン航空からリース契約で3機の輸出を行ったものの、搭乗口の低さ、騒音、振動、キャビンのデザインが不評で、僅か一年で全機が返却されてしまった。この反省が後のYS-11Aの開発で活かされることになった。1967年(昭和42年)は1月25日から3月15日にかけて南アメリカのペルー・アルゼンチン・チリ・ブラジルをデモ、10月11日と12日にベネズエラ、12月2日から12日にカナダ、1968年(昭和43年)8月27日から10月28日にかけてはイギリス・西ドイツ・スウェーデン・イタリア・ユーゴスラビア・ギリシャ・サウジアラビア・パキスタン・ネパール・ビルマ・タイ・マレーシアを精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算がないため受注をほとんど得ることはできなかった。その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。1968年(昭和43年)のデモフライトではイギリスのファーンボロ・エアショーにも出展した。この出展でギリシャのオリンピック航空との商談が成立した。オリンピック航空では短期リースの2機を含め、最盛期には10機のYS-11を保有した。当時のファーンボロ・エアショーでは、欧州の航空機メーカーの出展に限定されていたが、YS-11はロールス・ロイス社製のエンジンを搭載していることから、英国製に類するとして特別に出展が認められ、デモフライトを実施することができた。1969年(昭和44年)にも2月27日から3月1日にメキシコ、12月3日から1970年(昭和45年)2月14日にかけてモロッコ・セネガル・カメルーン・ガボン・ザイール・中央アフリカ・ザンビアを飛行、同時に1月18日から22日にシンガポール、6月20日から7月9日にかけてエジプト・ケニア・スーダン・南アフリカ、7月28日から8月3日にベトナム戦争中の南ベトナムサイゴンへ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。デモフライトが功を奏し、知名度が高いピードモント航空からのオプションを含む20機の発注により信頼を得たことも手伝い、アメリカやブラジルを中心として日本国外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1967年(昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。1968年(昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注している。1969年(昭和44年)4月17日には全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達した。7月には当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可された。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。しかし、この好調な日本国外への販売がその後の生産中止の引き金となった。安定的な販売網の構築を待たずに売上は鈍化し始めた。特に日本国外での販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや、第二次世界大戦後の日本で初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることも珍しくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、官僚の天下りが増加したことで社内に公務員気質が蔓延し始め、抜本的な経営改革が行われず赤字を加速させて行った。特に日本国外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、会計検査院で指摘された米国での営業活動に日航製の問題が内因している。後述するYS-11Aの改造で米国国内の販売代理店を希望したノースカロライナ州に本社がある中古航空機や航空部品の販売ディーラーであるシャーロット・エアクラフト社のコードウェル社長が積極的な営業参加の意思表示を示し、同社と北米・中南米・スペイン地区の独占代理店契約を結んだ。しかし、同社は実質的な営業活動を行わず、三井物産と日航製の営業活動でピードモント航空と売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の手数料を要求し、ピードモント航空やクルゼイロ航空からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。国会で問題になり、日航製の専務が引責辞任する事態となった。日航製は旅客機の販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対しての信用調査や、業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約内容だったからである。シャーロット・エアクラフト社の地区独占代理店契約解除に、2億3,000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。他にも、航空会社の経営者からリベートを要求されたり、支払いの延べ払いには大蔵省や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、インドネシアのブラーク航空との間では補給部品の供給ができず、欠航が相次いだことから航空会社の信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され訴訟になるなど、日航製の特殊法人としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、遠隔地の輸出先の航空会社から、しばしば日航製の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていたが、その要求を受け容れることはなかった。日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年(昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年(昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。この赤字は1970年から1971年にかけて国会で野党から追及される材料にもなった。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。経営改善専門委員会は1971年4月27日に、同じ航空機工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、とされた。この報告を基に政策委員会は、同年7月31日に次世代旅客機「YX」計画の進め方とYS-11の処理方針の答申案を決定し、9月27日に通産大臣に答申した。赤字の見通しについて量産180機とその後の10年間のアフターサービスで360億円の赤字が発生すると計算された。赤字の内容は、1.売上の減少(早期の生産打ち切りの公表による買い叩きと、競合機との価格競争で販売価格の値引きによるもの)で31億円、2.補用品の売上が予想を下回ったことで40億円、3.販売費の増加で31億円、4.金利負担増により94億円、5.為替差損で153億円、6.原価上昇で11億円とされた。これは一機当たりの機体価格3億5,000万円では2億円の赤字を計上する計算となった。その上で答申は、赤字360億円については、日航製造の資本金78億円の取り崩し、政府負担金245億7,700万円、航空機製造各社の負担金36億2300万円で処理されることとなった。赤字の負担をめぐっては、政府の全額負担か、メーカー側にも応分の負担を求めるかで議論があったが、最終的にはメーカーも負担する形になった。この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカー・シドレー HS748は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。YSは総数182機を生産し、昭和47年度末(1973年(昭和48年)3月)に生産終了となり、技術を伝える後継機となるYS33の開発計画が進まないまま、日本航空機製造は1981年12月28日の閣議で、業務の民間への移管と1982年(昭和57年)度中の解散が正式決定された。これに従い、1982年(昭和57年)8月1日に営業権を三菱重工に譲渡し、1983年(昭和58年)3月23日に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。特殊法人である杜撰な経営と、次期開発機が組織の経営能力を超えたジェット旅客機であった技術偏重の体質など、民間旅客機メーカーの体を成していなかったことで、日本航空機製造の赤字体質脱却は不可能であり、これ以上の税金の投入は無駄であるとみなされても仕方がなかった。他に、国内航空機メーカー各社が航空機設計の基礎技術を確立し、蓄積したことで、日本航空機製造の設立当初の目的を達したとの判断もあった。安全性、快適性、経済性を求める民間旅客機と、経済性や快適性を無視して限界性能や耐久性を重視する軍用機では素性が相反するもの、設計・生産方式も全く異なるものであり、航空機であっても、旅客機と軍用機は似て非なるものであった。軍用機を基に設計されたYS-11の素性では、旅客機としての機能が時代の進展と共に乖離し、期待した市場では受け容れ難く、現状のままでは今後の販売増加は見込まれないこともあった。日本航空機製造の解散を提言したのは当時の通産省重工業局長であった赤澤璋一である。赤澤は輸送機設計研究協会設立に奔走した当時の通産省重工業局航空機武器課課長でもあり、自らYS-11の立ち上げと、その幕引きを行うことになった。戦後、日本の民間航空機工業の振興は通産省の主導だけで行われ、競合国と比較して航空機産業に対する国家の助成や制度が不備であり、旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートに長期的な戦略を立てられなかったため生産中止に追い込まれた結果となった。旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートには長期的な粘り強い戦略が必要なのは今日では明白である。旅客機は軍用機と違い、企画・設計・生産以上に販売とサービス体制の構築に時間と費用が嵩むものであった。特に、採算性が悪い近距離線を運航する航空会社は、収益を得るために開発費を抑えた価格の安い機体を求めることとなる。そのため、性能面では高い要求を出さず、機体構造や機能部品などが新しく性能の優れた機体よりも、既に開発・改良し尽くされて故障が少なく、耐用期間も長く、補修部品の入手も容易な信頼性の高い航空機を購入し、稼働率を高めて経費の節減を図っている。YS-11が短距離路線用で企画・設計された以上、対象とするユーザーである近距離路線を運航する航空会社に対して、その部品供給サービスを怠り、技術偏重から、後継機種に高い性能を指向した近距離のジェット旅客機を企画するなどは、資金難で経営不安説も流れた日航製がすべきことではなかった。本来の使命は、機体のコストダウンや批判されていた操縦面での改良、更なる経済性や快適性の向上であり、加えて補修部品の供給体制を含めた販売網の構築であった。しかし、それは航空機開発技術力の向上を求めた通産省や、機体製造に関わった航空機メーカー各社の望むものではなかったことがYS-11にとっての不幸となってしまった。日本航空機製造が解散したことで、旅客機の設計、製造だけでなく、販売・金融・プロダクト・サポートなどのアフターサービスのノウハウなどの次世代への継承が行われず、その後の旅客機の設計・製造・販売能力を自ら放棄してしまったことになったが、以後の民間旅客機の企画・設計・生産・販売における教訓は残した。定期運航に処する航空機体への空中衝突防止装置(TCAS)の装備を義務づけた航空法改正により、改修経費の関係で2006年(平成18年)9月30日のラストフライトをもって日本国内の民間定期路線より引退した。日本国内の民間定期路線のYS-11の最終便は、日本エアコミューターが2006年(平成18年)9月30日に同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じ沖永良部空港 - 鹿児島空港でのフライトが、沖永良部発15:55に行われ就航以来無事故での運航完了となった。なお、9月30日の引退の時まで運航していたのは、日本エアコミューターの福岡 - 松山、高知、徳島、鹿児島の4路線であり、松山、高知の2路線は9月29日の福岡行きが最終運航となった。徳島、鹿児島線は30日が最終運航で、徳島 - 福岡便は10:00徳島発、鹿児島線は同日12:10福岡発の便であった。なお、YS-11の初運行から最終運航まで一度も運行から離脱しなかったのは全国で徳島空港だけである。沖永良部空港では地元の踊り子によるエイサーで最終便を送り出し、鹿児島空港到着時には空港消防隊によるウォーターアーチと、ファイナルフライトの到着後に引退記念セレモニーが行われ、多くのパイロット、整備士、客室乗務員をはじめとする日本エアコミューターの社員、元日航製の社員などが多数出席し引退を惜しんだ。セレモニーには日本中のテレビや新聞、雑誌の取材が殺到し、ファイナルフライトと引退セレモニーの記事が多くの新聞の一面を飾った。これらの9月30日のファイナルフライトに使用された機体はJA8766とJA8768で、JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が沖永良部への最終フライトを行った(ちなみにこの機体は「レッド&グリーン塗装時代」には「とくのしま」、つまり隣の島の愛称がついていた)また、この機体の操縦桿を握ったのは航空雑誌や日本エアコミューターからも「ミスターYS」の愛称で親しまれていた本村栄一で、総飛行時間2万時間以上のうち、23年間をYSに捧げた人物であり、彼もこのフライトを最後に引退した。奇しくもYSの座席数と同じ64歳での出来事であった。運航終了後のYSについて保存の声も根強かったものの、機体性能には問題なく、十分に現役で飛べるため、2機ともフィリピンへ売却された。民間定期路線のYS-11最終便となった、日本エアコミューターの沖永良部空港発鹿児島空港行は2006年(平成18年)7月30日の発売開始から3分で完売した、しかしその後インターネットオークションに『2006年(平成18年)9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券』1枚が出品されるという出来事があった。インターネットオークション運営会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制削除」され、出品された搭乗券は「無効扱い」とされた。なお、出品時の価格は「10万円」だったと言われている。引退後の2007年(平成19年)8月には新幹線0系電車などと共に機械遺産(13番)に認定されている。引退から約10年後、2015年5月27日に大阪の航空機部品販売会社のエアロラボが国交省より落札したYS-11(もとJA8709)が羽田から高松へ自力空輸され再び大空を飛んだ。なお、この機体は未だ完全な修復には至っておらず、エアロラボは引き続き整備を継続すると共に再飛行と本格的な動態保存に向けた寄金を募っている。実質的にYS-11プロジェクトの後継となる国産旅客機としては、2014年にロールアウトした三菱航空機のMRJが挙げられるが、MRJが日本国内定期路線に投入されるのは、2017年頃を予定しており、MRJのローンチカスタマーでもある全日空(ANA)が受領次第、運航開始する予定である。なお、YS-11に対しては正式に発注せずに終わった日本航空(JAL)も32機のMRJを確定発注しており、2020年代前半から国内定期路線に投入予定である。2015年11月11日にはかつて53年前にYSが初飛行を行ったのと同じ名古屋飛行場において初飛行に成功し、9年ぶりに国産旅客機が日本の空を舞った。機体の設計者たちは戦前に軍用機造りに携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて東亜国内航空では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。YS-11の軍用機的性格が良い方に働いた例として、機体の頑丈さが挙げられる。航空先進国であった欧米では、民間輸送機開発に際してすでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体設計を行うようになっていたが、YS-11は戦後日本で初の本格的旅客機であるため、安全率を過大なまでに確保していた。主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する疲労強度試験を行っている。東京・調布市にある航空宇宙技術研究所(NAL, 現JAXA)では26か月にわたり大きな水槽の中に胴体を沈め、内圧の増減を繰り返す胴体強度試験を行った(コメット連続墜落事故の検証で使われたものと、ほぼ同じやり方である)が、9万時間までどこも損傷することはなかった(最終的に試験装置の方が損傷し、終了した)だが頑丈さは重量増加という欠点にもなって跳ね返ってきた。近代旅客機の常道通りに総ジュラルミン製のモノコック構造であるが、強度重視で重量過大となり、出力の限られたエンジンに対しては重すぎる機体となった。元テストパイロットの沼口正彦は退役後のインタビューにおいて、「YS-11はパワー不足が目立った」とも語っている。YSの出力不足は、沼口に限らず多くのパイロットから指摘されている弱点である。全日空の機長としてYS-11に乗務したことがある内田幹樹はその著書『機長からアナウンス』で「最初はあまりのパワーのなさに驚いた」、「飛行機マニアに今でも人気が高いようだが、これはまったく理解できない」と酷評しており、後述するようにオートパイロットがないことなども含めて、実際に操縦したパイロットからの評価は決して高いものではない、とのことである。操舵系統には戦後主流になりつつあった油圧を使わず、操縦桿と動翼をケーブルにより直接つなげており、自動操縦装置もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているため、沼口正彦はYSを「世界最大の人力飛行機」と評している。信頼性確保と軽量化を目的としての人力操舵採用であったが、当然の結果として操縦に力を要し、パイロットからの評価を下げる一因となった。量産1号機にあたるJA8610は国立科学博物館によって羽田空港のT101格納庫に保管されているが、同機はYS-11で唯一の動態保存機で、現在展示こそされていないものの、定期的にエンジンに火が入れられる予定となっており、「頑丈さを証明し、100年先も飛べるYSとして保存する」と言ったコメントも出されている。機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や日本国外のエアライン等では2013年現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」、「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」、「ピードモント航空が使っていた飛行機」という形で知られている。トイレを装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式(いわゆる汲み取り構造で、消毒・消臭液を汚物タンク部に溜めてある)を採用しており、便器に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する「循環式」は、YS-11では採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。荷物棚が座席上部に存在するが、ここは帽子ぐらいの大きさのものしか収納できない(いわゆるハットラック)ため、大きな荷物は搭乗前に手荷物として預けるか、座席の下に置く必要があった。機内の照明には丸形の蛍光灯が使用されており、一昔前のバスを思わせる内装となっていた。日本国外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることができる。一方で、初期の機体には内蔵式のタラップ(エアステア)が用意されておらず、地上設備の貧弱な地方空港での運用に難があるなど、ここでも旅客機としては使い勝手の悪い面が見られた。なお、後にユーザーの要望を受けて、内蔵式タラップも装備されている。YS-11にはいくつかの派生型式が存在する。機体の用途による違いで分かれているが、さらに納入先によって細かく区分されている。また、製造番号が付けられており、先行試作機2機は1001・1002、以下量産機は2003 - 2182である。2003(量産1号機)から2048が該当する初期の生産型。2010からは乗降口をスライド式のプラグドアに変更、2040から翼の防氷装置をヒーターからラバーブーツ方式(ゴム膜に空気を送り込む)に変更した。納入先によって仕様が細かく違うことから形式名称が違う。日本国内航空(形式:106、108、109、124)が12機、全日空(102、111)が9機、東亜航空(104、114)が7機、航空自衛隊輸送機Pが4機(103、105)、運輸省航空局が3機(104、110、118)海上自衛隊輸送機M(112、A-113)が2機、航空大学校(115)が2機、輸出はフィリピナス・オリエント航空(107、116、121)が4機、また、リースでピードモント航空、大韓航空、ランサ航空、ハワイアン航空、クルゼイロ航空、アルゼンチン航空が採用した。このうちJA8612として使用された機体が定期便初就航の「聖火号」である。海上自衛隊の輸送機Mのうち1機は2058だが、特別に100形 (A-113) として生産された。1967年(昭和42年)製造の2050(通算50号機)以降の機体で、輸出を見込んで大幅に改良を施した。これはアメリカ中西部の中古機や航空部品販売を行うディーラーであるシャーロット・エアクラフト社がアメリカでの販売代理権の取得を目指して提案してきたことを受け入れた仕様であった。同社がコンサルタントを使い競合機(フェアチャイルドFH-227)との比較において、運航コスト、離着陸性能が優れ、短距離ローカル線で需要があると判断したが、ペイロード(有償荷物重量)が少ないとの指摘を受けて改良されたものであった。エンジンはタービンの耐熱性向上とプロペラ減速歯車の強化によって出力を10%増加させ、ペイロードを1トン増やした。合わせて各部の設計変更を行い、主脚ドアの内面を平滑にして脚下げ時の速度を289km/hから389km/hへ向上、同時に急降下の際に脚をエアブレーキとして使用できるようにした。座席の座面クッションを着水時の浮き具として使用できるものとし、座席間隔も860mmから790mmに改めて、64席に増やした。2070からは内装をレザー張りからプラスチックに改め、カーテンもシャッター式ブラインドとして、ライバルになると目されたフォッカーF-28などに対抗した。また、オプションとして補助動力装置(APU)を搭載可能とし、空調・発電・油圧装置・エンジン始動を地上設備なしで作動可能とした。これは地上設備の貧弱な日本国外の地方空港乗り入れを目指したものである。2075からは乗降口高さを体の大きな欧米人に合わせて1.6mから1.75mに拡大、2078からはエンジンを、タービンブレードの材質変更で高温時の最大出力を4%増加したダートMk542-10Jに 、2092からは減速歯車を補強して耐久性を向上したダートMk542-10Kに変更した。YS-11Aのうち、標準形式の旅客型である。95機が生産された。最初の発注者であるピードモント航空はYS-11-100をリース購入していたが、頑丈な機体を気に入ったものの、機内設備などがアメリカの標準的な機内サービスの水準を満たすには程遠く、日航製は改良提案を受け入れて対応した。ピードモント向けは205型で、電子装置を一新した。アメリカの標準に合わせるためオートパイロットをスペリー製とし、フライトディレクターシステム・エアデータコンピュータ・電波高度計を追加し、アメリカ連邦航空局(FAA)のカテゴリーII着陸の追加証明を獲得した。さらに計器類を刷新、インバータの増設、左プロペラにブレーキ設置、前脚ステアリングを50度から60度に変更、床下貨物室を後方へ60cm拡大した。機内設備はアメリカの航空会社の標準とし、前方乗降口を非常用に使用するため客室乗務員席を前方に増設、ギャレー(調理設備)装備もアメリカの水準に合わせたものを、トイレもジェット機で使う水洗式に、洗面台には給湯器を設置、座席を米国製に変更し、前方にコートルームを増設した。当時は日本製品の信頼性が高くなく、前述の通り、ピードモント航空では乗客の心理を配慮して広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製やYS-11の表示は行わなかった。ピードモントは205型を20機採用、続いてクルゼイロ航空が202型を8機、ヴァスプ航空が211・212を6機、オリンピック航空が220を6機、中華航空が219を2機、ポーラック・インドネシア航空が222を1機採用した。また、国内では全日空が208・213をリース含め計29機で最大のカスタマーとなり、東亜航空が217・221を11機、南西航空が209・214を5機、海上保安庁が207を2機、海上自衛隊が機上作業機T-Aに206を4機、航空自衛隊が飛行点検機(FC)に218を1機採用した。また、リースとしていくつかの航空会社に引き渡された。機体の多くは最初に発注された航空会社で使用された後も、第2・第3次カスタマーによって運用され、そのほとんどが500型に、後にカーゴ(貨物型)に改造された。YS-11Aのうち、旅客・貨物混載の機体である。16機製造。前方が貨物室、後方が客室で、自動式タラップを内蔵した乗降口を後方へ移動し、前方左側には横2.48m・縦1.83の油圧式カーゴドアを増設し、大型貨物の搭載を可能とした。また前方の床は強化された。カーゴドアはプロペラ回転面を避けるため、自衛隊の貨物機400よりも横幅を縮小している。キャビンは隔壁の移動により、30席、38席、46席の混載型、50席から62席までの全旅客型にそれぞれ転換が可能である。大韓航空が310型を4機、オーストラル航空が309を3機、トランスエアが306を2機、エアアフリクが302・314を1機ずつ、ガボン政府が318を1機、日本国内航空が307を1機、航空自衛隊が305を1機、海上自衛隊が1機(320→625として納入)採用、その他リース機として生産された。多くは600型に、その後にカーゴへ改造された。後ろから乗るYSとして、YSのマイナーチェンジタイプとしては最も異彩を放った存在であった。YS-11Aの貨物専用機である。航空自衛隊に7機(402型)と海上自衛隊に1機(404型)が納入されたが、民間からの受注はなかった。胴体後部左に横3.05m・縦1.83mのスライド式カーゴドアを設置、床は全面補強を行い、44席のパッセンジャーシート、3人がけのトループシート14基(42席)を設置可能、担架は24台を輸送できる。航空自衛隊では小型物資投下ドアも設置されている。YS-11A-200のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。ピードモントが1機(205/500)、オリンピックが2機(220/500)、フィリピン航空が1機(523)採用した。また、200のうち54機が改造された。最後まで残った日本エアコミューターの4機はこのタイプである。日本ではJA8766(製造番号2142)・JA8768(製造番号2147)の機体が最後の最後まで使用され、ファイナルにはJA8766が使用されていた。このシリーズには後にオートパイロットやTCADなどの追加装備を施したものも存在している。YS-11A-300のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。海上自衛隊がT-Aとして2機(320-624)、ペリタ・エアサービスが2機(320/623)、リーブ・アリューシャン航空が2機(320/623)、ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオンが1機(321/627)、ガボン政府が1機(321/621)、ポーラック・インドネシアが1機を採用した。また、300のうち8機が改造された。このタイプも-300同様、搭乗の際は後ろ側から乗り込む形となり、全日空のラストフライト機にはこのタイプが使用された。YS-11A-200のエンジンにMk543を搭載、高気温・高地運用時の片発上昇性能が向上したことで、離陸重量制限が緩和された。開発段階ではYS-11Rであり、1972年(昭和47年)7月に型式証明を取得した。全日空の213のうち、8機が改造の対象となった。YS-11Aの第3次カスタマーが運航している、YS-11の最終形態と言える機体である。その名の通り全室貨物機であり、200/300/500/600のうち、最後まで残った機体の中から30機が改造された。赤字が問題になっていた日航製だったが、通産省の主導で1967年(昭和42年)頃より、YS-11の後継機種(YX)の構想を練っていた。1970年(昭和45年)には二つの派生型まで用意していた。しかし翌年末の1971年(昭和46年)に政府決定によりYS-11が生産中止となったため、計画も放棄された。YSX YS-11の短距離離着陸 () タイプ合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故(うち墜落3件)を起こした。日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり、1980年頃より順次退役し、1991年(平成3年)8月31日の新潟 - 仙台間・ANA720便が最後の運航となった。一方、1971年(昭和46年)に日本国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併した東亜国内航空(TDA)では、1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して調達していた。これはTDAが抱える多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係から、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。しかし、経年と共に整備費用(維持費)が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、搭乗率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。1975年(昭和50年)の整備費の指数を100とすると、1977年(昭和52年)には193.7、1978年(昭和53年)に228、1979年(昭和54年)には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、1994年(平成6年)3月8日の南紀白浜 - 東京便を最後に同社(JAS)から引退した。日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。また、ギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ、北朝鮮に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)抑留された機体のその後は不明である(大韓航空機YS-11ハイジャック事件参照)日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省(旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック(GE)製のアリソンT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが

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