佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道出身で、現役時代阪急(オリックス)一筋を貫いた元プロ野球選手(投手)、野球指導者。から、福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチ。奥尻島の奥尻中学校卒業後、函館大有斗高校に進む。エースとして夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧工に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日大は低迷期にあり、東都大学リーグでは、秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した。また同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所-日大監督)らがいる。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した。1年目のに7勝を挙げて新人王に選出され、日本シリーズにも登板する。2年目のには初めてオールスターゲームに出場し、シーズン13勝を記録したが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなく、山口高志の故障離脱もあって山田久志や今井雄太郎の負担を増すこととなった。には腰痛のため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなったが、翌からリリーフ投手として復活。に先発投手に復帰した。に21勝で最多勝利のタイトルを獲得。パ・リーグでの20勝投手はの斉藤和巳まで現れず、プロ野球界では昭和時代最後の20勝投手でもあった。には最優秀防御率のタイトルを獲得し、、それまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。しかし、このシーズンはわずか7勝に終わっている。オフに阪急がオリックスとなった後も、山沖之彦、星野伸之らとともに投手陣の中心として先発の一角を担った。7月12日に出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災と津波によって壊滅的被害を受けた翌日にオールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦に登板し2回4奪三振を記録した。なお、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。には今度は自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は8月26日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で当時NPB史上最年長、NPB史上初となる40歳以上でのノーヒットノーランを達成。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦に登板したが、敗戦投手となった。翌年頃から衰えが顕著になり、同年チームはパ・リーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでも登板機会が与えられなかった。シーズンを最後に、44歳で現役引退した。落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。現役時代、戎信行を指導した。、オリックスの二軍投手コーチに就任した。出身地の奥尻島では、現役時代の背番号にちなんで、1999年11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した。限りでオリックスを退団すると、には、J SPORTSの野球解説者とデイリースポーツの野球評論家を務めた。からまで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。井川慶を育て、ジェフ・ウィリアムスを抑えにして、は18年ぶりのセントラル・リーグ優勝に貢献した。、北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチに就任。武田久を指導し、ダルビッシュ有を育てた。翌には、一軍投手コーチとして25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一に貢献。は球団初の連覇に貢献した。同年日本シリーズ終了後の11月3日に来季契約しないことを通告され、佐藤は「いまさら言われても。(ヒルマン監督)本人だけ喜んでそれでいいのか、球団は謝っていたけど。1年契約だからずっとは考えていないけど、時期が悪い。就職活動ができないよ。誠意がないよな。前もって決まっているなら言ってほしかったな。(球団が他球団への就職先を)探すのはできないと言っていた」と監督のトレイ・ヒルマンとフロントを批判した。オフに、プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約を結んだ。には、札幌テレビ・STVラジオ・サンテレビ・J SPORTSで解説者として活動した後に、10月から東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチに就任した。田中将大を育成した。12月7日に、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載。楽天のコーチとしてヘッド格の立場になったには、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。には、5月26日に星野が持病の腰痛で休養したため、星野に代わって当日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を指揮(試合は1対4で敗戦)。その後の診断で星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが判明したため、楽天球団では翌5月27日に、星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した。翌5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、監督代行として4対0で初勝利。7月2日、球団は二軍監督の大久保博元を一軍監督代行とすることを発表、佐藤は一軍投手コーチに専念することになった。10月14日に来季の契約を結ばないことが発表された。同年11月8日、福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチに就任することが発表された。武田翔太にヨシボールを教え、武田を一人前に育て上げた。チーム防御率は1位、チームの2年連続リーグ優勝、日本一に貢献した。愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った。より速い球を投げられるようダルビッシュのフォームを改良、上半身に負担のかかる田中のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある。星野仙一からは「日本一の投手コーチ」と言わしめた。投手コーチとして阪神、日本ハム、楽天、ソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている。
出典:wikipedia
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