リチャード・ブルース・"ディック"・チェイニー(Richard Bruce "Dick" Cheney、1941年1月30日 - )は、アメリカの政治家、実業家。下院議員、国防長官、副大統領を歴任した。ウェールズ系アメリカ人でメソジスト。趣味は狩猟と釣り。妻のリン・チェイニーは公職である全米人文科学基金会長を務めたこともあり、次女のメアリー・チェイニーはレズビアンであることをカミングアウトしている。ネブラスカ州リンカーンに生まれ、ワイオミング州のキャスパーで育った。父母は農務省に勤務しており、熱烈なニューディーラーだった。イェール大学に数学期在籍したが中退し、その後、ワイオミング大学に編入学した。ワイオミング大学政治学専攻卒業、学士号取得。1966年、ワイオミング大学大学院政治学専攻修士課程修了、政治学修士号取得。更に、ウィスコンシン大学大学院博士課程に移り、同大学大学院博士課程政治学専攻時代に、当時のウィスコンシン州知事、ウォーレン・ノールスのスタッフをつとめる。これが、チェイニーが政界との接点を持つきっかけとなる。リチャード・ニクソン政権では、大統領次席法律顧問を務め、ニクソンがウォーターゲート事件により辞任した後は、ジェラルド・フォード政権で史上最年少・34歳の若さでアメリカ合衆国大統領首席補佐官となる。フォード政権が野に下った後は、地元・ワイオミング州から下院選への出馬を決意。1978年の選挙では難しいとされながら当選を果たし、1989年まで6期つとめる。81年には当選2回ながら、首席補佐官時代の調整・政策立案能力を買われ№4の下院・政策委員長に就任。イラン・コントラ事件の事態収拾に尽力した。人種隔離政策を推進していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータ政権には融和的で、86年の同国に対する制裁法案には反対票を投じている。89年には共和党下院院内幹事をつとめていたトレント・ロットの上院鞍替えに伴い院内幹事に就任。将来の院内総務、共和党の過半数奪回後の下院議長は確実と見られていた。ロナルド・レーガンの後継となったジョージ・H・W・ブッシュは、国防長官に当初ジョン・タワー元上院議員を指名していた。しかしながら、その後タワーに女性・飲酒問題が浮上し議会で同人事案が否決。当時は民主党が上下両院で過半数を占めていたため、調整能力のあるチェイニーが代わって浮上。89年3月に正式に国防長官に就任する。1990年8月にイラクのクウェート侵攻(クウェートをイラクの19番目の県として併合)が行われると、イラク軍のクウェートからの撃退の為、隣国・サウジアラビアとの関係強化を図り、中央軍・第3軍の駐留に合意。翌年1月の湾岸戦争を、ノーマン・シュワルツコフ、コーリン・パウエルらと主導した。アメリカのハリバートン社の経営にも1995年-2000年までCEOとして参加していた。ハリバートンは世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業や、アメリカ軍関連の各種サービスも提供していることから、湾岸戦争とイラク戦争で巨額な利益を得た。なおチェイニーは、この会社の最大の個人株主でもある。2000年の大統領選挙前にジョージ・W・ブッシュ(当時テキサス州知事)から副大統領候補を推薦してくれるように依頼され、そのまま自分を推薦して副大統領となった。同年の大統領選の討論会では論争に強くないブッシュがアル・ゴアも前に劣勢を強いられたが、チェイニーは反対にケンタッキー州で行われた10月の討論会でジョー・リーバーマン上院議員を論破。また、同選挙戦の際にユーゴスラビアではブルドーザー革命が勃発し、スロボダン・ミロシェビッチ政権が崩壊に至ったが、ブッシュ・チェイニーは両名とも米国は基本的に静観の構えを採るべきであり、影響力を有するロシアの仲介を重視すべきだとしており、後の介入主義的な姿勢はなかった。2001年、第43代ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の副大統領となる。アメリカ同時多発テロ事件直後は政府存続計画を実行して政府施設に避難し、アメリカ史上初とされる「影の政府」を組織した。小泉純一郎首相との会談をこなしたり、フロリダ州立大学の卒業式に参加したりと多忙な日々を送る。フォード、子ブッシュ両政権で、国防長官であったドナルド・ラムズフェルドと30年以上もの師弟関係にある。2005年10月から、副大統領・首席補佐官ルイス・リビーがイラク戦争に批判的だったジョゼフ・ウィルソンの妻ヴァレリー・プレイムが中央情報局(CIA)工作員であると身元を漏洩したとしてアメリカの連邦大陪審が起訴し、更に副大統領も情報漏洩に関与されている疑いが持たれている。2007年2月20日より訪日し、時の首相・安倍晋三や外相・麻生太郎と会談(当時第1次安倍内閣)。外交、国防政策に関して意見を交わすが、久間章生防衛大臣との会談は行わず、在日アメリカ軍横須賀海軍施設で自衛官(制服組)トップの齋藤隆統合幕僚長を始めとする自衛官幹部と会談した。自衛隊は「日程の都合」と説明した。また、横須賀港では空母キティホークにアメリカ軍の兵士を集め、「アメリカ国民は(イラクからの)撤退を支持しない」と演説した。また、ジャーナリストの青木直人や須田慎一郎の取材によると、同会談の際、チェイニーは拉致問題に対する落し所(つまりは、同問題の解明・解決と核開発の放棄を包括的に解決した後、北朝鮮との国交正常化を目指すとした日本政府の政策転換を要求したもの)を安倍に迫ったことが明らかになっている。しかし北朝鮮は2009年5月25日に2度目の実験を実施した。(北朝鮮の核実験 (2009年))時折心臓発作で入院することもあるが、精力的に活動する。そのため在任中は、「史上最強の副大統領」とあだ名された。チェイニーは就任当初から自らの大統領への野心を否定し続けてきたが、そのことによりブッシュの篤い信頼を勝ち得、政権内で絶対的な№2の地位を維持し続けた。また、万が一の時に備えて自らのペースメーカーにもテロ対策を施していた。一方で民主党への政権交代が決定した後の2008年12月、CNNが行った世論調査によればチェイニーが副大統領としての能力に劣っているとの回答が41%を占めた他、「史上最悪の副大統領」だとする意見が23%にのぼった。2009年7月、極秘の対テロ作戦実行を、議会には隠すようCIAに指示していた事が発覚。アメリカ新世紀プロジェクトのメンバーでもあり、ブッシュ政権内では「ネオコン政治家の要石の1人」と指摘されることがあるが、ネオコン第1世代のように左派からの転向ではなく、湾岸戦争時にはフセイン政権転覆に反対していたことなどから保守からの転向と評される。アメリカ同時多発テロ以降、ブッシュ政権の強硬な武断政策は、チェイニーの意見が大きく働いているとされる。イラク戦争については、開戦前にアルカーイダとフセイン政権との関連性を示す発言を行い、「証拠もある」としていたが、開戦から5年以上経た現在でも明確な証拠は提示されていない。バラク・オバマ大統領の外交方針については、たびたびオバマが「戦争を終わらせつつある」と語りながら、実際には2014年6月にイスラム教スンニ派の武装組織イラクとシャームのイスラーム国がイラク首都バグダッドに迫っていることなどを挙げ、「オバマ大統領は過去に背き、自由を浪費した男として名前を残そうとしている」と批判している。チェイニーは、37歳の頃から心臓病の持病を抱えており、副大統領在任中までに5回もの心臓発作を起こしており、1988年にはバイパス手術を受けた経緯がある。
出典:wikipedia
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