パトリシア・リー・"パティ"・スミス(Patricia Lee "Patti" Smith、1946年12月30日 - )は、アメリカ合衆国のミュージシャン・詩人。ニューヨーク界隈のオリジナルパンクシーンで主に活動し、デビュー前はバックバンドメンバーを含めた「パティ・スミス」という名称のバンド形態で数年間活動。また、一時期パティ・スミス・グループ(Patti Smith Group)名義でも活動していた。2007年に、ロックの殿堂入りし、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第83位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第47位、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第49位を記録。クイーン・オブ・パンク(パンクの女王)もしくはゴッドマザー・オブ・パンク(パンクの代母)と称されることもある。シカゴで生まれ、ニュージャージーで育った。15歳の頃ピスファクトリーで大学進学の費用を稼ぎながらアルチュール・ランボーやボブ・ディランを始めとするアーティストに強い憧れを抱き、当初はそうした人々の愛人となることを目指してニューヨークへ移住するが、ロバート・メイプルソープらとの交流によって、自身もアーティストの一員であることを自覚した。1969年、ニューヨークに移住したスミスは詩を書いたり、演劇に出演したりするなどの芸術活動を始めた。その頃レニー・ケイと出会い、スミスが舞台で詩を朗読し、そのバックでケイが音楽を演奏するスタイルで活動をし始める。1973年頃から、リチャード・ソールがキーボード(ピアノ)として加わる。その後、周囲の評価が高まり、インディーズ・シングルを発売したり、オムニバス作品に参加するようになる。そして、ドラマーとしてジェイ・ディ・ドゥーティー、ベーシストとしてアイヴァン・クラールを迎え、5人組バンドとして本格的に活動を開始する。1975年に、29歳で発表したデビュー作『ホーセス』は、メイプルソープによるジャケット写真も話題となり、特に、ヴァン・モリソンを己の詩情を交えてパンキッシュにカバーした「グロリア」は、パンククラシックの一つとして知られている。1978年発表のサード・アルバム『イースター』からは、ブルース・スプリングスティーンと共作した「ビコーズ・ザ・ナイト」が、ビルボードのシングル・チャートで13位のヒットとなる。その後、元MC5のフレッド・スミスとの結婚生活のため長くアーティスト活動から離れていたが、1988年には9年ぶりのアルバム『ドリーム・オブ・ライフ』発表。1994年、夫のフレッドが死去。1990年代後半から再びコンスタントに作品を発表している。1997年1月に初来日公演が実現した。2001年(2日目グリーン・ステージ)、2002年(1日目フィールド・オブ・ヘブン、2日目レッド・マーキー)と、2年連続でフジ・ロック・フェスティバルに出演。2003年7月には、赤坂BLITZなどで、単独公演による来日も果たした。2007年には、初のカバー・アルバム『トゥウェルブ』発表。2008年、写真家のスティーヴン・セブリングが、11年間パティに密着して撮影したドキュメンタリー映画『』が公開され、日本でも2009年に公開された。2010年1月には、"Just Kids"を上梓。メイプルソープと出会い、同居しながらそれぞれの創作活動を始めた時期を回想している。この回想記の執筆は、亡くなる直前のメイプルソープに頼まれて約束したことだったと話している。2015年には『ホーセス』発売40年を記念して、同アルバムの全曲を演奏するLIVEが全世界で行われる予定である。1973年頃から、スミスが結婚のため一線を退く頃まで(作品としては『Wave』まで)活動。パティ・スミス名義でも活動していた。以下、パティ・スミス・グループ名義のものも含む。70年代当時、ロックスターは男性が目立ったが、ロックよりも過激なパンクに至っては、女性のパンク・ロッカーは少なかった。そんな中で、過激な歌唱や男性的・美青年風ルックスで一躍スターの一人となったパティ・スミスは、ロック史に残る存在になった。また、元来のパンキッシュ精神に基づいた宗教批判・恋愛の不満について女性が声高に叫ぶなど、文学性やアナーキー性の高いリリックも注目を集めた。1980年代以降、世界中で多くの女性ロックシンガーが誕生したが、パティはその元祖と言ってもよい。特にその激しい歌唱法は、彼女をルーツとした文脈で語られることが多い。現在でもR.E.M.、ソニック・ユースを中心としたフォロワーに、影響を与え続けている。
出典:wikipedia
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