LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

松平忠昌

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。越前福井藩(北ノ庄藩)第3代藩主。初代藩主結城秀康の次男で、第2代藩主松平忠直の同母弟。1598年1月21日(慶長2年12月14日)、大坂に生まれる。幼名は虎松、虎之助。5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。慶長12年(1607年)、祖父の徳川家康、叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育された。叔父にあたる徳川頼房と同じく、慶長12年(1607年)に家康側室の英勝院の猶子となり、同年11月、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。翌年の慶長20年(1615年)が近づく頃、徳川幕府と大坂の豊臣氏との最終対決が近づく気配を感じると、「年齢が若いために出陣許可が下りない」可能性を考慮し、直前の正月に急いで元服を済ませ、大人として扱われることを望んだ。望み通り、秀忠より偏諱(「忠」の字)を賜って伊予守忠昌と名乗って元服し、1月8日従五位下侍従に叙任した。2月には従四位下となる。出陣の許可を得ると、直後の夏の陣では他の兄弟と共に、兄の忠直軍の一角を占めて出陣した。夏の陣の際は、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。この大坂の役の活躍により、同年末に常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封されている。元和9年(1623年)、2代将軍秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があったなどとされる兄・忠直が「不行跡」を理由に配流処分となった。その後幕命により、弟である忠昌が藩領のうち、越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」(幕府の命により忠直家臣団より幕府が選抜した)を継承し、高田から随従の300騎を併せて新たに福井藩の家臣団を形成し、藩領を相続した。当初、甥で忠直の嫡子・仙千代(後の松平光長)の行く末を思いやった忠昌は相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は本家を相続することとなった。のち仙千代には新たに越後高田に26万石が与えられた。寛永3年(1626年)8月19日に正四位下参議となる。寛永11年(1634年)第3代将軍徳川家光が大軍を率いて上洛した際、忠昌も上洛した。同年、領地朱印状を拝領し、それによれば同年8月時点での所領は50万5,280石である。のち、寛永14年(1637年)、弟の直良の越前木本藩から越前勝山藩への移転に伴い、幕府より木本藩2万5,000石の旧領のうち2万石を加増される。正保元年(1644年)には、同じく直良が勝山3万5,000石から越前大野藩5万石へ移った後の勝山3万5,000石を幕府より「預領」として預けられた。寛永14年(1637年)の島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称する藩士12人を派遣した。寛永20年(1643年)異国船改めのため三国湊に番所を建てる。正保2年(1645年)8月1日、江戸の霊岸島の中屋敷にて死亡した。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。法名は隆芳院殿郭翁貞真大居士。墓地は永平寺。また子の光通が開基となった大安禅寺にも、藩祖で父の結城秀康らと並んで墓がある。忠昌の死後、福井藩は家督相続問題などから次第に所領を減封されていった。福井藩相続以前の領地は激しく移転を繰り返し、それぞれの土地での藩政の話題は少ない。松代藩を統治した際、それまでこの地を治める藩は「川中島藩」と呼ばれていたが、忠昌が居城を松代城と定めて以降、この地を治める藩は「松代藩」と呼ばれるようになった。越後高田藩時代は地元の神社仏閣を保護したことが伝わり、特に米山薬師を崇拝していたと伝わる。50万石を領する大大名となった忠昌は、北ノ庄の「北」が敗北に通じるということで、福井城中の井戸から由来し、街の地名を「福居」と改めたとされている(さらにこれは、元禄時代に「福井」となった)。福井に入った忠昌は直後より法令を公布し、宗門改を行うなど、領内や家臣団の規律を定めて統率を強化した。新田開発、交通網の整備にも力を入れた。忠昌の治世は洪水・疫病・地震など何度も災厄に見舞われ、治世は多難を極めたが、忠昌と家臣団は見事な手腕を見せて藩政を安定化させ、それらを乗り切った。また、大安寺温泉付近で新規の温泉場の開発を行おうとした形跡がみられ、該当地域の温泉管理を行う住民に、租税免除を発している。この大安寺温泉は、忠昌が湯治利用したと伝わっている。忠昌が越前松平宗家を相続した際、幕府附家老の本多富正は将軍から直々に「忠昌を支えてこれまで通り藩政を補佐するように」と命じられる。藩には幕府に選ばれた有能な家臣の多くが残されていたため、忠昌は滞りなく藩政をスタートさせることができた。主な家臣を評する『越州御代規録』に残る言葉に「頼むへし本多丹波(本多富正)に壱岐(杉田三正)如来鬼か志摩(永見吉次)なる伊勢(狛孝澄)海老のつら」とある。しかし、高田藩時代に附家老であった稲葉正成(春日局の夫)は福井藩に参加せず出奔し、幕府により蟄居を命じられている。 忠昌は武勇に優れていたために武を好み、槍術師・剣術師・柔術師・弓術者・砲術師・軍学者(片山良庵など)などを多数召抱えた。大谷吉継の孫大谷重政、真田昌輝の子真田信正、長沢松平家の松平正世など、改易・絶家となった大名の子孫も召抱えている。また、刀鍛冶を保護したことでも知られている。高田城主時代には助宗(島田助宗?)という刀鍛冶を御用鍛冶として保護したらしく、元和9年(1623年)に鍛えさせ、米山薬師に奉納した太刀が現存する。福井藩には以前、お抱えの刀鍛冶として越前康継がいたが、幕府に招かれて江戸で作刀するようになっていた。忠昌は松代藩主時代からお抱えの山城守国清を引き続き採用し、国清は名刀の数々を生み出している。康継は幕府から「葵紋」を彫ることを許されていたが、国清は朝廷から「菊紋」を彫ることを許されていた。忠昌は家督相続後、結城秀康から忠直に受け継がれた麹町屋敷(東京都麹町)は相続していない。これは当時、忠直の息子の仙千代(のちの光長)やその他妻妾らが住んでいたため、それらを気遣ってのことともされるが、そもそも当時既に越後高田25万石という立派な大名であった忠昌は、江戸城大手門至近の龍ノ口(現在の東京都大手町)に立派な屋敷を構えていて、移転の必要がなかったためでもある。この上屋敷は現在その遺構建築物は残っていないが、壮麗な建物は模型復元され、江戸東京博物館に常設展示されている。また、江戸を代表する大名屋敷として、出光美術館蔵の「江戸名所図屏風」に松平伊予守上屋敷が、国立歴史民俗博物館蔵の「江戸図屏風」には他の大藩の壮麗な屋敷と共に松平伊予守上屋敷と推測同定される屋敷が描かれている。寛永11年(1634年)龍ノ口上屋敷とは別に、中屋敷として江戸霊岸島(中央区新川2丁目)に浜屋敷地を賜った。三方を堀に囲まれたこの浜屋敷の跡地は「越前堀」と呼ばれ、現在跡地にある越前堀児童公園に、発掘された石垣が保存されている。忠昌の終焉の地は、この中屋敷である。下屋敷は本所中之郷(墨田区吾妻橋一丁目 現在は墨田区役所)にあった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。