力皇 猛(りきおう たけし、1972年12月20日 - )は、日本の元プロレスラー、元大相撲力士(元鳴戸部屋所属)。奈良県桜井市出身。本名および旧リングネームは、井上 猛(いのうえ たけし)。力士時代の四股名は、力櫻 猛(りきおう たけし)。大相撲力士時代の体格は、身長191cm、体重153kg。最高位は西前頭4枚目。愛称は「リキ」「リキさん」、血液型はB型。桜井東中学校時代は野球部に所属していたが、元横綱・隆の里の鳴戸親方から熱心に勧誘されて二子山部屋に鳴戸親方の内弟子として入門した。1988年3月場所に本名で初土俵を踏むが、同期には曙(後に第64代横綱)、貴乃花(後に第65代横綱)、若乃花(後に第66代横綱)、魁皇(後に大関)、和歌乃山(後に小結)など、多くの強豪力士がおり「花の六三組」と称された。本人自身は二子山部屋に残ることを希望したが、内弟子としての入門であったため、1989年2月に鳴戸親方が二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した際、鳴戸部屋に移籍した。移籍後は師匠の厳しい指導方法に反発し、ことあるごとに鳴戸親方とは対立した。幕下時代には門限に遅れたことを叱責されて髷を切り落としたほどであった。1996年7月場所、ライバルながら仲良しだった琴龍と共に新入幕を果たす。これにより、戦後初となる奈良県出身の幕内力士となった。腕力が強く強烈な上手投げを打つ豪快な取り口で、将来は三役も嘱望された。しかし幕内8場所目の1997年9月場所前、当時自身の交際相手であった女性の話を巡って、師匠および師匠夫人らと対立し大喧嘩の末、自ら鳴戸部屋を飛び出してしまう。その1997年9月場所は、自身最高位の前頭4枚目まで昇進しながら、初日から全休だった(当初は肝機能障害による病気の理由で休場届を提出していた)。その後鳴戸部屋には戻ることもなく、そのまま24歳で角界から引退した。一説には力櫻自身が自ら破門を申し入れ、鳴戸親方もそれに応じる形で引退届を提出したともいわれる。それゆえに、引退の記者会見が行われることもなかった。なお力櫻の断髪式は鳴戸親方らは出席せず、相撲関係者の有志がそれぞれ集まった上で行われ、最後の止め鋏を入れたのは小錦(元大関・当時佐ノ山親方)であった。1999年8月、全日本プロレスに入団。2000年3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルで井上猛の名でプレ・デビューする。5月28日、同い年で親友の魁皇と武双山も応援に駆け付けるなか、後楽園ホールで、力皇猛のリングネームで正式デビュー。2000年6月にプロレスリング・ノア旗揚げに参加し、小橋建太をリーダーに同期で小橋の付人・小林健太(KENTA)らと(新生)バーニングというチームを結成した。また、この時期から小橋が力皇にかけた「チェンジ・ザ・ボディー」という言葉を合言葉にして肉体改造を試み、相撲時代からのアンコ型の体型からお腹の出ていない引き締まった体型になった。小橋が膝の手術で長期欠場に入ると三沢光晴率いるWAVEに加入した。2001年4月18日、日本武道館でのZERO-ONE旗揚げ第2戦において、小川のシュートマッチ対策として三沢のパートナーに抜擢され、小川直也&村上和成組に勝利し評価を上げる。打たれ強さを活かし、小川や村上の顔面への打撃を受けきり、三沢がバックドロップホールドで村上からフォールを取った瞬間も、場外で小川から完全にマウントポジションをとって、打撃を放っていた。同年森嶋猛とのタッグチーム「WILD II」を結成する。2002年2月17日、日本武道館大会で「WILD II」として大森隆男&高山善廣組を倒し、GHCタッグ王座を戴冠。しかし、9月23日の日本武道館大会で齋藤彰俊&秋山準組に敗れ、GHCタッグ王座を失った。2004年半ば頃、オリジナルの必殺技「無双」を開発した。この技を駆使し、11月27〜28日の札幌メディアパークスピカでのヘビー&ジュニアヘビー・ミックスド・タッグ・2デイズ・トーナメントに丸藤正道と組んで出場し、決勝進出。決勝で小橋建太&KENTAと対戦し、小橋を無双で破り優勝した。2005年3月5日、日本武道館大会で小橋を破り、第7代GHCヘビー級王座を戴冠。9月18日には日本武道館大会で三沢に勝利し防衛。しかし11月5日の日本武道館大会で田上明に敗れ、4度目の防衛に失敗した。この年、2005年度プロレス大賞殊勲賞を獲得。2006年1月22日、曙太郎と組み、小橋建太&泉田純至組から合体技『リキボノ・スプラッシュ63』で泉田純至を2人で押しつぶし、曙が泉田からフォール勝ちを収めた。2007年4月1日、秋山準とのタッグで森嶋猛・モハメド・ヨネ組に勝利。第14代GHCタッグ王座に就くも、8月14日から頸椎損傷のため大会を欠場、出場していたGHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦は、モハメド・ヨネ戦に勝利した試合以外は全て不戦敗となってしまった。2008年2月28日、秋山とのタッグで田上・泉田組を相手に復帰戦を行った。2009年1月、モハメド・ヨネと新軍団ディスオベイを結党。6月14日、三沢光晴死去の翌日に行われた博多スターレーン大会のメインイベントで潮崎豪とGHCヘビー級選手権を戦い敗北。12月6日には、ヨネとのタッグで、森嶋猛&佐々木健介組を破り、GHCタッグ王者となる。2010年4月14日、バイソン・スミス&キース・ウォーカー組に敗れ、GHCタッグ王座陥落。5月、新日本プロレスIWGPヘビー級王者真壁刀義に挑戦を表明。6月19日のIWGPヘビー級タイトル挑戦が決定したものの、その後ヘルニアの発症による欠場を発表し、タイトル戦をキャンセルした。2011年11月27日、ノア有明大会にリングに上がり、重度の頚椎ヘルニアが完治しないため年内で現役引退を発表。2012年7月22日にノア初進出となる両国国技館において、「力皇猛引退セレモニー大会」と題して興行が行われ、全試合終了後に引退セレモニーが華々しく執り行われた。また、今後の去就として翌23日付でGHCタイトル管理委員に就任することも発表された。2013年12月5日、奈良県天理市でラーメン店「麺場 力皇」をオープン。 プロレス引退後、店のオープン1年前から、燕三条ラーメンの人気店として有名な新潟県燕市のラーメン店「潤 燕総本店」に弟子入りしてラーメン修業をしていた。2014年10月には東京ラーメンショー2014に参加して関東に初出店した。
出典:wikipedia
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