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イエロー・マジック・オーケストラ

イエロー・マジック・オーケストラ () は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、YMO(ワイ・エム・オー)。上記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、TV番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する事がよくあり、なかなかの腕前である。YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。Yellow Magic Orchestra (イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやクラフトワーク、イギリスのEL&P、日本の冨田勲などが有名であった。。また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録。)はトランス・テクノ、「RIOT IN LAGOS」(坂本龍一のソロアルバム『B-2 UNIT』収録。1980年の第2回ワールド・ツアーのオープニングで演奏された。)は、ヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶する事でも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞く事が出来る。YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一の「福生ストラット Part II」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった。その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。細野はメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾は何故か「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、新宿のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとして、YMO初となるライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3日- 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に「ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978」(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。1979年8月2日 - 8月4日には、ロサンゼルスのグリークシアターでの前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(このころ、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。海外でライブツアーをやるアーテイストの殆どが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見しての事だった。こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。同年6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。同年10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(※1993年「再生」時の高橋の発言より)。YMOと活動時期を同じくした人気バンド・ゴダイゴのミッキー吉野もまた、「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している。1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、“暗い”“重い”{[ヨーロッパ]]志向、ニューウェイヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。因みに、細野はこのアルバムをYMOのベストと発言している。そして同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日から仙台、宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。『BGM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとしては初めてMTR(マルチトラックレコーダー)が使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては希少ともいえる楽器の担当変更が見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人だけで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演を最後に(※この日の公演のみ、立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏された)、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が出来なくなっており、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra)表記が主流である。この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。このころの坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせに椅子を蹴飛ばしたり、また、互いに顔を合わせないように、わざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野ははっぴいえんど時代での盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」 を6月から行う。YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、漫才を披露している。(※細野は“林家三平”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた)翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。当時、高橋が担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、かつての『増殖』のようにS.E.T.のコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてアルバム『サーヴィス』が制作されることとなった()。そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパン・ツアー」が11月23日から札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画は4月18日、渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開された。このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野がすべて断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された。YMO再生は、新聞が社会面で、NHK及び民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。再生時の記者会見は、巨大なベッドに3人が仰向けに寝た状態で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた「進め!電波少年」の松村邦洋と松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしの物まねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。この間のCD・VHSについてはいずれもアルファレコードでなく東芝EMI(現ユニバーサル・ミュージック)からの発売であり、再発も他のアルバムと異なりEMI独自での発売となっている。しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が共演。3人が老人に扮して褞袍を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多数参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細野と高橋も参加した。翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9日と10月10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにマッキントッシュを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演にともなって、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA -エクスマキナ-』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、高野寛、高田漣、権藤知彦。一方でアップルジャパンのウェブサイトにおけるSpecial Interviewの中で、坂本が『歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている』ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の「テクノドン・ライヴ」以来。2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペインのヒホン市の Laboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTSMEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。2009年。docomoのN-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した。この音源はここでしか確認が出来ない。(HASYMO名義)8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彦であった。2010年4月に発売された “音楽の事典”「commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組「スコラ 坂本龍一音楽の学校」の「ドラムス & ベース編」に三人で出演すると共に、小山田圭吾と権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッパイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。2010年も引き続き夏フェス「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。2011年6月26日、アメリカ・ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演が、チボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra“LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。帰国後の7月31日には「フジロック・フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD「Live in San Francisco 2011」として発売。7月7〜8日、坂本の呼びかけで始まった脱原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリをクラフトワークに譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD「YMONHK」として発売され、8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル・ダウンロード限定で販売された。8月12日には5回目の「WORLD HAPPINESS 2012」出演で、ライブ初披露となる「開け心〜磁世紀」、ライブでは29年ぶりの「TECHNOPOLIS」を演奏した。同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、東京都現代美術館レストランで開催。「WORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋とともに鑑賞する内容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSにはYMOでは出演しない」旨が高橋よりコメントされた。2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本(大友良英、Sachiko M、ASA-CHANGとの連名)、細野、高橋(THE BEATNIKS)がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。YMOはシンセサイザーのサウンド、そしてコンピュータ制御の電子楽器による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されており、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者はまだ少なかったからである。しかし実際のレコーディングでは手弾きのパート、生のドラムの演奏が多かった。YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期に違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのためローランドから、当時まだ試作段階であったにもかかわらず、ヴォコーダー「VP-330」を使ってほしいと依頼されたことがあった。YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。『テクノデリック』の項目を参照。坂本は、正確な演奏ができる技術を持っており、例えば、自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンや、「ライディーン」のメロディは手弾きである。初期は、シーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武秀樹が制作から外れている。アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期にはパーカッションも存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー(ローランド MC-8)のフレーズの同時出力数に限界があり、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに代わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビューでは、高橋は「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、マッキントッシュ(シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。その為、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。自分の頭の中で"こうしたい"という音が、僕にとっては生楽器ではなかったんですね。その時にYMOを耳にして「これだ!」と。それから、すぐに思いを形にするべく小型のアナログシンセ(Roland SH-101)を手に入れて。最初のシンセとの出会いですね。ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座も第1回ワールドツアーに含む)以前のライヴを指す。"レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照"以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義の物で、「HASYMO」名義の物は除いている。

出典:wikipedia

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