セント・ジョージ岬沖海戦は、1943年11月24日から25日にかけて行われた太平洋戦争(大東亜戦争)中の海戦。日本軍のブカ島への輸送部隊(駆逐艦5隻、司令香川清登大佐)とアメリカ艦隊(駆逐艦5隻、アーレイ・バーク大佐)がブカ島西方、ニューアイルランド島セント・ジョージ岬東方海上で交戦し、日本側の駆逐艦3隻が沈没した。日本名はブカ島沖夜戦やブカ輸送における夜戦、あるいは日本側の一方的な敗戦のため特に名づけていない。ソロモン諸島の戦いおよびソロモン、ビスマルク諸島水域における最後の海戦であるが、最後の水上戦闘ではない。このことも含め、ラバウルを基点とする、鼠輸送など駆逐艦による行動の終末などについても簡単に述べる。1943年11月1日、アメリカ軍はブーゲンビル島タロキナ岬へ上陸する。これに対し日本軍は航空攻撃(「ろ号作戦)や水上部隊出撃(ブーゲンビル島沖海戦で対抗しようとしたが成果はあがらず、後詰めで来援した栗田健男中将率いる遊撃部隊は、11月5日と11日のラバウル空襲でトラック諸島に引き揚げる。遊撃部隊、第二水雷戦隊(高間完少将)、第十戦隊(大杉守一少将)が去った後、ラバウル方面に残留する主要水上部隊は第三水雷戦隊(伊集院松治少将)だけとなり、11月19日付でブーゲンビル島沖海戦前後で名乗っていた「第二襲撃部隊」という部署名称を「襲撃部隊」に改めた。11月15日以降、第三水雷戦隊には新戦力として第三十一駆逐隊(香川清登大佐)が編入されるが、主だった任務は戦闘ではなくブカ島やニューブリテン島中部などに対する輸送となっていた。11月17日未明、ブカ島の飛行場は「巡洋艦数隻」による砲撃を受けたと通報。実際にはこの時、駆逐艦 ("USS Dyson, DD-572") が単艦で艦砲射撃を行っていただけだった。それでも進攻への警戒のため、第十七師団(酒井康中将)の一部である歩兵第八十一連隊の残員を戦力強化のためにブカ島へ緊急輸送することとなり、代わりにブカ島にいた海軍航空隊の要員を後退させることを企図した。第一回輸送は駆逐艦天霧に陸兵304名と物件12トン、夕霧に陸兵292名と物件11トン、卯月に陸兵279名と物件11トンをそれぞれ搭載して輸送隊とした。これを香川大佐の第三十一駆逐隊(駆逐艦大波、巻波)が警戒隊として随行し、全体の指揮は香川大佐が執った。11月21日13時30分にラバウルを出撃し、20時15分にブカ島に到着する。ここで陸兵と輸送物件を降ろし、代わりに陸兵238名、海軍要員417名、捕虜2名を乗せてブカ島を離れ、11月22日5時30分にラバウルに帰投した。この第一回輸送の動きをアメリカ側が察知していたかどうかは定かではないが、ともかく第一回輸送は全く妨害を受けることなく成功した。第二回輸送は第一回輸送と同じ顔ぶれで行われ、11月24日13時30分にラバウルを出撃。輸送隊は天霧に陸兵291名と海軍要員2名、物件12トンに軍犬15匹、夕霧に陸兵303名と海軍要員2名および物件10.4トン、卯月に陸兵316名と物件10.5トンをそれぞれ載せ、輸送物件は甲板上に搭載して大発を曳航しながらの航行であった。20時49分にブカ島に到着し、陸兵と輸送物件を降ろし引き揚げ陸兵21名と海軍要員688名、捕虜1名を収容する。警戒隊は沖合いで敵襲に備えていたが、22時24分に魚雷艇群を発見して交戦し、これを追い払う。22時45分、収容を終えた輸送隊はブカ島を離れ、警戒隊が輸送隊の3海里から4海里先を航行してラバウルに向かった。アメリカ軍がいつ日本側の動きを察知したのかは定かではないが、11月24日の午後までには第3艦隊の情報部が「東京急行」の動きを察知し、参謀は無線連絡でニュージョージア島との間にある泊地で燃料補給中の第23駆逐部隊を呼び出し、以下のような指令を発した。参謀は、再三にわたって「31ノット出せる」と報告していたバーク大佐をからかうつもりでバークの名前の前に「31ノット」を付け加えて「31ノット・バーク」と命名して電文を発信し、「31ノット・バーク」は以後バーク大佐の愛称として広く知れ渡る事となる。また、バーク大佐にとってもこの迎撃戦は一つの機会であった。これよりさかのぼる事約3ヵ月半前、バーク大佐はポエニ戦争でのシピオウ・アフリケイナスの戦法に範を得て、日本海軍の夜戦戦術に対抗できる戦法を練り上げていた。しかし、この戦法を引っさげて戦いに望む前に、一時的に駆逐艦から離れる事となってその機会を得なかった。直後に起こったベラ湾夜戦では、後任の中佐がバーク大佐の戦術を理解して戦い、完勝劇を収めた。ここに、自ら考案した戦法を自ら駆使する機会が到来したのである。第23駆逐部隊は15時30分に泊地を出撃して30ノットの速力でブカ島西方に急行する。ところが、全艦の給油が完了しないうちに司令を受けて出撃したため、可動全力の出撃とはならなかった。また、攻撃に失敗した時に備えて魚雷艇群を先行させた。警戒隊が22時24分に発見して交戦した魚雷艇群とは、この先回りしていた魚雷艇群のことである。23時41分、第23駆逐部隊中のバーク大佐直率の第45駆逐群は、警戒隊の2隻をレーダーで探知する。続いて23時56分、バーク大佐は指揮下のチャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストンに警戒隊の側方から魚雷を発射させて避退する。後続のオースティン中佐の第46駆逐群は、頃合を見計らって砲撃できるよう態勢を完了している。一方の警戒隊と輸送隊は、第23駆逐部隊になんら気づくことなく直線を続けていたが、輸送隊からは先行する警戒隊の姿は全く見えなかった。11月25日0時2分、第45駆逐群から発射された魚雷は、バーク大佐の「計算したとおりの魚雷の到達点」にさしかかった警戒隊を襲い、3本が命中。大波は0時6分に早くも沈没して巻波も約20度傾斜する。そこに第46駆逐群が襲い掛かり、集中砲火を浴びた巻波も1時ごろに沈没していった。巻波は沈没寸前に魚雷を発射し、そのうちの1本はコンヴァースに命中したが不発だった。輸送隊を指揮していた山代大佐は、前方に火柱が上がるのを見て面舵に針路をとらせ戦闘配置を令する。しかし、0時30分頃から第45駆逐群からの砲撃を受ける。煙幕を張るなどをして逃走を図るうちに卯月は西方へ避退し、夕霧は反撃に出て発砲の閃光を目標に魚雷9本を発射する。魚雷は命中爆発したように見えたが、間もなく集中砲火を受けた夕霧は後部から沈み始め、1時30分頃に沈没した。卯月は不発弾1発が命中したが大事無く、2時30分に天霧と合同して5時30分にラバウルに帰投した。バーク大佐は2時5分頃まで残敵掃討を行っていたが、日が昇ってからのラバウルからの空襲を警戒して引き揚げた。この戦闘で日本側は「大型駆逐艦一隻轟沈 魚雷艇二隻撃沈一隻撃破」などの戦果を報じたが、実際の戦果はゼロだった。海戦後、伊号第一七七潜水艦(伊177)と伊号第一八一潜水艦(伊181)が遭難艦乗員の救助にあたり、伊177は夕霧の乗員および便乗者278名を、伊181は同じく11名をぞれぞれ救助した。これとは別に、巻波乗員のうち28名は11月29日、カッターでニューブリテン島沿岸ズンゲン地区に漂着して救助された。それ以外、大波の乗員は駆逐艦長吉川潔中佐以下全員が戦死し、夕霧は駆逐艦長尾辻秀一少佐以下155名と便乗者129名が戦死した。戦死した吉川中佐はこれまでの戦功が評価され、二階級特進して少将に任ぜられた。バーク大佐は後年、「燃料補給があと15分遅れていたら。この海戦は生起しなかったであろう」と回想している。一方、駆逐隊司令仲間では「暗号が解読されていた」との噂が流れていた。この海戦以後、駆逐艦による輸送作戦はアドミラルティ諸島や従前から行われていたニューブリテン島へのものに限られるようになった。一連の輸送にはラバウル航空隊からの戦闘機が護衛に就いていた。しかし、1944年に入る前後からラバウルの燃料不足が深刻となり、一時は駆逐艦をトラック諸島に全て引き揚げさせ、2月17日ごろには再びラバウルに揃って進出させる予定だった。ところが、その2月17日にトラック島空襲があり、それに伴ってラバウル航空隊は事実上その幕を閉じてトラックに撤退する事となった。第三水雷戦隊司令部は航空援護なき輸送作戦は困難との判断に達し、2月20日に行われた夕月と水無月によるガブブ地区への輸送を最後に輸送作戦は取り止められ、夕月と水無月も輸送任務終了後はラバウルには戻らずパラオに向かった。以降、ラバウルに駆逐艦以上の水上艦艇の姿を見ることはなくなった。一方、日本軍の水上兵力および航空兵力の衰微を目の当たりにしたアメリカ海軍は、駆逐部隊にラバウルやカビエンなどへの艦砲射撃を行わせるようになった。2月22日、バーク大佐の第23駆逐部隊はカビエン近海で、ラバウルから航空要員を乗せてトラックに向かう途中の敷設艇夏島と救難船長浦を発見しこれを撃沈した。この戦闘が事実上、ソロモンおよびビスマルク諸島水域における事実上最後の水上戦闘となった。
出典:wikipedia
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