ヨーロッパグランプリ(ヨーロッパGP, European Grand Prix)は、自動車レースのグランプリの一つ。現代においてはヨーロッパにおいて同じ国が年2回F1レースを行うとき、1国1開催の原則を回避するために「ヨーロッパ」の名を冠して開催される。そのため開催国は年代によって異なる。当初は他地域で開催するはずのレースがキャンセルされた時、緊急の代価開催としてヨーロッパ内のサーキットを利用して行われるグランプリであり、その開催は不定期であった。しかし、1995年以降はミハエル・シューマッハの活躍と人気を受けて、ドイツのニュルブルクリンクでの開催が定番となっていた。2008年から2012年まではスペインのバレンシア市街地コースで開催された。これはスペイン人F1ドライバーのフェルナンド・アロンソの活躍によってスペインでのF1人気が高まった為である。その後は1国1開催の原則を徹底する方針から開催されなかったが、2016年よりアゼルバイジャンのバクー市街地コースにて開催されることになった。アゼルバイジャンでは重複するF1のレースが無く、「アゼルバイジャングランプリ」の名称でも開催が可能であるが、「ヨーロッパグランプリ」の名称を使用している。モータースポーツ、およびF1の黎明期においては、毎年各国の持ち回りにより、その年の最も権威のあるレースに対して「ヨーロッパGP」の冠をかけ、レースが行なわれていた。その名が最初に冠されたのは1923年のイタリアGPだった。F1世界選手権の開幕戦である1950年イギリスGPにも「ヨーロッパGP」の冠がかけられていた。現代F1においての第1回ヨーロッパGPは1983年に行われたが、元々はニューヨークで実施されるはずであったレースが急遽キャンセルとなったことを受け、当時シルバーストーンと交互にイギリスGPを開催していたブランズ・ハッチが代替地として選ばれたものであった。翌1984年はブランズ・ハッチにてイギリスGPが開催されることとなっていた為、従来F1を開催していたロングコースの南側に新コースを建設したニュルブルクリンクにて開催した。ヨーロッパGPは翌1985年のブランズ・ハッチでの開催の後、暫くは開催されていなかったが、8年後の1993年に、日本のオートポリスで前年までのメキシコGPに代わって開催が予定されていたアジアGPが、バブル崩壊によりサーキット運営会社が倒産するという事態に陥ったことからキャンセルとなり、急遽ドニントンパークでのヨーロッパGPに振り替えられることとなった。このレースは雨の中の開催となり、5位スタートのアイルトン・セナがオープニングラップで順々に4台をオーバーテイクし、1周目に終了したときには首位に立っていた。翌1994年はスペインのヘレスで開催されたが、1995年からはドイツ国内でのF1人気の高まりを受けて、ドイツでの第2のGPとしてニュルブルクリンクでヨーロッパGPが開催されることとなった。その後1997年と1998年にはルクセンブルクGPと名称を一旦変更するが、2007年まではニュルブルクリンクでのレースが毎年開催された。1997年には、前年まで開催されていたエストリルでのポルトガルGPが、サーキット設備等の問題でカレンダーから外れた為、この代替として再度ヘレスでヨーロッパGPが開催されることとなった。これはこの年の最終戦としての開催であり、ミハエル・シューマッハとジャック・ヴィルヌーヴによるタイトル争いの決定戦となったが、シューマッハがヴィルヌーヴへ追突した行為が、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。1999年は、ニュルブルクリンクへ再移動。ミカ・ハッキネン、エディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、デビッド・クルサードによる四つ巴のタイトル争いの渦中に開催された。GP期間中、時折り雨が降ってはやむ奇妙な天候が続き、波乱の展開となった。決勝は、ポールポジションからスタートしレースをリードしていたフレンツェンが電気系統のトラブルでストップしたのを皮切りに、デビッド・クルサード、ジャンカルロ・フィジケラが共に雨でスピンオフによるリタイア、ラルフ・シューマッハも雨でスピンし順位を落とし、トップに立ったドライバーが続々とアクシンデントに見舞われ、最終的にその年まったく目立った活躍をしていなかった伏兵ジョニー・ハーバートがスチュワートにチーム初にして唯一となる優勝をもたらしている。後方でもミナルディのルカ・バドエルが一時4位を走行するなどの波乱がみられ、レース後の悲喜こもごもが印象的だったレースでもある。2007年は、予選でルイス・ハミルトンがクラッシュを起こして出場が危ぶまれたが、翌日の検査の結果出場許可が出された。決勝は、スタート直後に大雨が降り、路面は雨水であふれて滑りやすい状態になり、第1コーナーで6台がコースアウトするなど大波乱の展開となった。この時、このレースがF1デビュー戦だったスパイカーのマルクス・ヴィンケルホックは一時トップに立つという大活躍を見せた。その後20分間中断された後に再開。レース終了間際に再度降雨に見舞われ、その間にフェルナンド・アロンソがフェリペ・マッサを抜いて優勝したが、邪魔をされたとして終了後にマッサと口喧嘩する場面があった。なお、この年よりFIAがグランプリの一国一開催の原則を厳格に運用する方針を打ち出した(ただし、これは後にうやむやとなり、上記の通り2008年以降はスペイン・バレンシアでの開催となった。)ため、ドイツ国内でのF1グランプリはニュルブルクリンクとホッケンハイムで1年おきに交互開催することとなった。ドイツ国内のF1レースが単独開催となったため、本来であればドイツグランプリを名乗るはずではあるが、四輪レースにおけるドイツグランプリの名称を使用する権利をホッケンハイム側が独占的に保持しており、ニュルブルクリンクはホッケンハイム側との交渉が妥結せず「ヨーロッパグランプリ」の名称を使用することとなった。なお、のちにこの問題は解決し、2009年はニュルブルクリンクで「ドイツグランプリ」の名称での開催となった。2008年は、スペイン・バレンシアでのヨーロッパGPが初開催された。市街地サーキットとされるが道幅は広く、ランオフエリアも十分に確保されている一方、抜きにくいレイアウトでありコース上でのオーバーテイク数は少なかった。開催初年度はフェリペ・マッサが、ポールポジション、優勝、ファステストラップのハットトリックを達成する完璧な週末を見せ、バレンシア市街地コースの初代ウィナーの栄冠を獲得した。2012年は、地元スペインの英雄フェルナンド・アロンソがバレンシアを初めて制した。抜きにくいバレンシア市街地コースで11番手からのスタートとなったアロンソは、スタートで8番手まで浮上すると、セーフティーカー導入のタイミングで2回目のピットストップを終えた段階で3位まで順位を上げた。レースが再開されると、最初のブレーキングポイントである2コーナーでロマン・グロージャンをオーバーテイクする。その直後に先頭を走るセバスチャン・ベッテルがマシントラブルでリタイアすると、先頭に立ったアロンソは最後まで逃げ切りを見せた。経済状況が思わしくないスペインで、ラファエル・ナダルのテニス全仏オープン優勝、土曜日のUEFA欧州選手権でのサッカースペイン代表チームの準々決勝勝利などスポーツ界では明るい話題が続き、アロンソも、「皆、スペイン人であることにある種の誇りを感じている。僕も何かしなければならないと思っていた。だから今日は胸がいっぱいだ」とレース後に語った。2016年は、アゼルバイジャンのバクーで初開催されたが、ニコ・ロズベルグが一度も首位を譲らずポール・トゥ・ウィン、ファステストラップも記録してグランドスラムを達成した。フリー走行と予選ではコースアウトやクラッシュが多発し赤旗中断もあったが、決勝ではセーフティカーが一度も出動しなかった。
出典:wikipedia
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