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太陰太陽暦

太陰太陽暦(たいいんたいようれき、)とは、太陰暦を基とするが太陽の動きによって閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。紀元前の古代で行われていた暦は、その多くが月の満ち欠けの繰り返しで成り立つ「太陰暦」であった。「太陰」とは空にある月のことである。しかし「太陰暦」は一年が約354日であり、太陽暦の一年に比べて約11日短く、このずれを放っておくと暦が実際の季節と大きく食い違ってしまう。このずれは3年過ぎると、約1か月のずれとなる。そこで太陽暦によって「閏月」(うるうづき)という月を足し、一年を13ヶ月にすることで、暦のずれを正す方法がはかられた。「太陰暦」に基づくが太陽暦の要素も取り入れている暦なので「太陰太陽暦」と呼ぶ。なお太陰太陽暦はかつて「太陰暦」と呼ばれていた。古代では天体を観測して閏月をいつ入れるかが決められた。さらにメトン周期の発見によってこの原理が閏月の挿入に使われる。やがて古代ローマにおいてユリウス・カエサルが暦を太陽暦に切り替え、ヨーロッパ中世に至りグレゴリオ暦が広く採用されたのちは、現代にまでこれが世界標準の暦として使われ続けている。ヨーロッパでは太陽暦が広く用いられるようになった一方で、太陰太陽暦は中国大陸や日本などといった東アジアの地域ではそのまま公式に使われ続け、閏月を暦に入れるため二十四節気が用いられた。閏月の有無で一年の日数に違いが出ることなどから、現在太陰太陽暦を正式に用いている国はないといわれるが、中国では太陰太陽暦に基づく新年(春節)が現在でも民間で祝われている。日本では明治5年に太陰太陽暦から太陽暦に切り替わり、以後太陽暦が公式なものとして社会で用いられている。人が最初に季節を知るための手がかりとしたのは、空の星であったといわれているが、さらに月の満ち欠けが日にちを知るためのものとして使われ、この月の満ち欠けをもとに世界各地で「太陰暦」という暦が作られるようになった。空の月が一番欠けた状態を「朔」(さく)と言い、この「朔」から約15日たつと満月になる。これを「望」(ぼう)という。「望」からまた約15日たつと「朔」となる。この「朔」→「望」→「朔」の約30日間を「一ヶ月」とし、これを12回繰り返すことで「一年」とする。「太陰暦」とは本来このようなものである。「朔」から「朔」へ戻る周期を「朔望月」という。この朔望月は月の満ち欠けの仕方によって、暦の上では「30日」か「29日」のどちらかになる。そして後世「30日」は「大の月」、「29日」は「小の月」と呼ばれている。一年のうちで「30日」と「29日」になる順番は年ごとに変わる。しかしこの「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を一周する日数(太陽暦の一年)の間で決まっている。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を一周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の一年を13ヶ月にする方法が多く取られた。一年の日数をひと月分ふやすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また一年を13ヶ月にする。12ヶ月のほかにひと月足された「月」が、「閏月」と呼ばれるものである。世界で最も古くから「太陰暦」を用いていたのは、メソポタミア文明をつくったシュメール人であるが、シュメール人たちが暦と季節のずれをどのように正していたのかは明らかではない。紀元前2000年ごろのバビロニアでは太陰太陽暦を用いていたが、暦と季節のずれに対しては当初、適当に日や閏月を足して済ませていた。しかしのちにバビロニア人は、19年のあいだに7回、閏月を暦に入れるとほぼ誤差なく暦を運用できるといういわゆるメトン周期の原理に気付き、これに沿って閏月を暦に入れるようになった。メトン周期とは、地球が太陽の周りを19回めぐる日数(太陽暦の19年)は、月の満ち欠けによる235ヶ月(太陰暦の19年と7ヶ月)の日数とほぼ等しいというものである。「メトン」とはバビロンでこの原理を知りギリシアに持ち帰った天文学者メトンの名に由来する。このメトン周期の原理は世界各地でも知られるようになり、古代中国殷の時代には天体を観測して暦と季節のずれに注意し、閏月が必要になれば十二月の次にひと月たして13ヶ月にしていたが、春秋時代にはメトン周期の原理で以って閏月を暦に置いている。古代ギリシアで使われた暦も、暦法にこのメトン周期の影響を受けたといわれる。なお新バビロニア王国の暦法はバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれ、現在のユダヤ暦に引き継がれている。しかしイスラム教が広まってからは、太陰暦を用いるヒジュラ暦が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く西アジアで太陽太陰暦が用いられることはなくなっている。「太陰暦」において暦と季節のずれを正すには、空の月以外のものを見なければならないが、それは同じく空にある太陽や星の位置によってであった。上でも述べたように、人が季節を知る目安のひとつとして空の星があった。自らが住む場所で見る星の位置や、その星の見える時期を以って今がいつごろの季節なのかを判断したのである。さらに太陽も季節の変わり目を知る手がかりとなった。夏は日が長く、冬は日が短いが、一年のうちで一番日の長いのはいつか、一番日の短いのはいつかといった事を、長い年代をかけて見出していったと見られる。それがのちに「夏至」や「冬至」といわれるようになり、また昼と夜の時間が同じになる頃は「春分」や「秋分」と呼ばれている。そして「太陰暦」に起こる季節とのずれを正すために、これら天体の観測が利用された。メトン周期の原理も、こうした天体観測の末にわかった事である。また太陽と星の観測はやがて二十四節気を生み出し、これが太陰太陽暦に用いられることになる。『書経』の「堯典」には伝説の帝堯が、四方の神ともいわれる義氏と和氏に対して、日の長さと星の見える時期により、暦を定め国土を治めるよう命じたとされている。今その暦に関わる所のみ抜き出せば以下の通りである。これらは日の長短と「鳥」、「火」、「虚」、「昴」という星々を観測することにより、春分、夏至、秋分、冬至各々の日を定めるとしている。この星の観測は紀元前2000年前後にまでさかのぼるが、「朞三百有六旬有六日」云々のくだりは一年を三百六十六日としていることから、後世の知識が入っているという。『淮南子』天文篇には二十四気(二十四節気)について、十五日を経て空の星を見ることで、「冬至」をはじめとする二十四気の日がわかるとしている。古代ローマの暦は当初は一年を朔望月に基づく10ヶ月とし、あとは適当に日数を加えるという運用をしていたが、紀元前8世紀の頃には一年を12ヶ月355日とする太陰太陽暦が用いられるようになった。しかし毎年コンスルが交代する共和政のローマ社会では、政治家や神官が政争の具として日にちや閏月の挿入を恣意的に繰り返した。その結果、ユリウス・カエサルがローマで権力を手にした頃には、暦が実際の季節から3ヶ月もずれるという事態になっていた。そこでカエサルは紀元前46年、天文学者ソシゲネスの意見に従ってこの年の日数を445日にまで引き伸ばし、暦を朔望月に拠らない太陽暦に移行させた。これがユリウス暦である。この暦は一年を約365日とし、二月には四年に一度閏日を入れるなど、現行で使われる太陽暦の原型となるものであった。その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教ではユリウス暦を採用することとなるが、新約聖書に記載されたイエス・キリストの復活の故事がユダヤ暦の日付で記されているため、キリスト教最大の祝祭である復活祭を祝うために、太陽暦であるユリウス暦だけではどうしても不足であった。そこでユリウス暦をもとに春分の日を3月21日に「固定」した上で、今度は月の朔望を考えて春分直後の満月の日を計算することにより、復活祭の日付を算出するエパクトという計算方法を、教会暦の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で、現在のグレゴリオ暦に至るヨーロッパの暦は、太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。こうしてヨーロッパの地域ではユダヤ暦を除いて太陽暦が広く用いられることになったが、東アジア地域では閏月の入る太陰太陽暦が公式に使い続けられた。中国大陸でも有史以来、朔望月による暦が使われ、暦と季節のずれを正すための閏月が暦に入れられた。暦にいつ閏月を入れるかについては、たとえば冬至の日を一年の始まりとし、冬至が来るのは「太陰暦」の何月だと決めておく(後世は冬至がくるのは十一月とされている)。そして暦をそのまま使い続けると、「太陰暦」の一年は冬至がふたたび来る日数(太陽暦の一年)より短いので、その決められた月に冬至が来なくなる。そこでその年を閏月の入る年にして、年末に閏月を置き一年を13ヶ月とした。やがて中国でメトン周期の原理が知られるようになると、この原理に従って19年の間に7回、閏月を置くようになった。これを「章法」という。しかし太陰暦の19年と7ヶ月は、じつはわずかながら地球が太陽を19回まわる日数(太陽暦の19年)より長い。たとえわずかでも長年にわたってそのまま暦を使い続ければ、暦と季節のあいだに大きなずれを生むことになる。それに気付いた当時の人々は、暦に閏月の入る割合を減らすことで対処した。これを「破章法」という。ただし上で述べた閏月の入れ方だと、年によってはひと月も暦が実際の季節からずれることがあった。そこで暦に二十四節気が用いられた。二十四節気は地球が太陽を一周する日数を24等分、約15日毎に分けたもので、約15日ごとに「立春」をはじめとする名称を付け、節気(正節)と中気が交互に来るようにしている。その二十四節気を実際の季節の目安としたのである。そしてさらに、二十四節気の中気で以って閏月を入れるかどうかを決めるようになった。正節(節気)から次の正節までの間を節月という。節月は約30日であり、朔望による1ヶ月よりも長い。よって暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月を閏月とし、また月名もその月に含まれる中気によって決め、例えば「雨水」を含む月を「一月」(正月)とした。この暦法によって閏月を年末ではなく年中に置き、暦と季節のずれもおおむね半月程度に抑えることが出来るようになった。月名と節気・中気の組合せは以下の通りである。日本では飛鳥時代の元嘉暦以来、中国王朝が制定した暦(中国暦、日本では漢暦とも呼称)をそのまま導入し和暦として使用した。しかし貞観4年(862年)に導入された宣明暦への改暦以後、およそ800年あまりにもわたって宣明暦を使用し続けた結果、江戸時代のはじめには太陽の運行予測に約2日のずれを生じさせていた。そこで貞享元年(1685年)10月、渋川春海の意見によりようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の授時暦)である貞享暦への改暦が実現した。以来、貞享暦(貞享2年 - 宝暦5年)、宝暦暦(宝暦5年 - 寛政10年)、寛政暦(寛政10年 - 寛政13年)、天保暦(天保元年 - 明治5年)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「#日本で過去に使用された暦」も参照)。しかし明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)1月1日としたことで、その歴史に幕を閉じた。なお1873年以降、現代までのいわゆる「旧暦」として、最後の太陰太陽暦である天保暦の暦法を延長したものが使われることがしばしばあるが、これは何らの公的な裏付けのない暦法(グレゴリオ暦項の「グレゴリオ暦導入の経緯」節も参照)であることに注意すべきである。1873年より過去の歴史的事象の年については、一般に和暦年号(太陰太陽暦)による年と西暦(グレゴリオ暦)による年が対応しない日が存在しており、例えば「寛永7年(1630年)」というような表記は不適切な場合がある。なぜなら、寛永7年に対応するのは、グレゴリオ暦1630年2月12日 - 1631年1月31日だからである。よく見るものでは、赤穂浪士の討ち入りの日を「元禄15年(1702年)12月14日」としているものが多いが、これでは1702年12月14日と間違える可能性があるので、不適切である。「元禄15年12月14日(1703年1月30日)」としなければならない。

出典:wikipedia

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