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松井秀喜

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)。現役引退後はニューヨーク・ヤンキースGM特別アドバイザーを務める。石川県能美郡根上町(現:能美市)出身。血液型はO型。1990年代から2000年代の球界を代表する長距離打者で、日本プロ野球(以下:NPB)では読売ジャイアンツ、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)ではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2012年引退。2013年には国民栄誉賞を受賞。愛称は「ゴジラ」。1974年6月12日に、瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった。3歳で自宅近くの保育園に入園。保育園史上最大の園児と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球をやめてしまった。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた。元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に「尊敬する掛布雅之選手(当時は阪神タイガースファンだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。当時の野球部コーチ・高桑充裕は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、試合で敬遠されたために怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。また、高桑は星稜高校野球部卒であり、松井の先輩であり、同校の監督であった山下智茂の教え子の1人でもある。中学時代から衛星放送でメジャーリーグの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスだった。自由民主党所属の衆議院議員である佐々木紀とは2年1組で同級生 。高校は星稜高校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカー(Jリーグ)や相撲(若貴ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛した。テイクバックが小さくフォロースルーが大きい、力任せでない本当のスラッガー、という評価だった。高校時代は三塁手であったが、長嶋は外野手へとコンバートした。松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励した。翌々日の11月1日、FA権を行使してMLBへの挑戦を表明。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった。球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか……」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、ジェイソン・ジアンビの代理人としてニューヨーク・ヤンキースと大型契約を締結した実績があるアーン・テレムを代理人に選定した。テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。2002年12月19日にヤンキースと3年総額2100万ドル(当時約25億4100万円)で契約に合意。ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。翌年の1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長のランディ・レバイン、監督のジョー・トーリ、ロジャー・クレメンス、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグらも出席した。松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは球団初。ヤンキース史上初の日本人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である伊良部秀輝)である。2009年12月16日、ロサンゼルス・エンゼルスと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では長谷川滋利が過去に在籍)。監督のマイク・ソーシアが直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという。赤いユニホームから日本のマスコミには『赤ゴジラ』と呼ばれるようになった。2010年12月14日にオークランド・アスレチックスと年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ。入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした。松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示していたが、正式な条件提示を行ったのはアスレチックスのみであった。2012年12月28日(EST27日)午前7時過ぎ(同午後5時過ぎ)からニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを明らかにした。引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた。自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した。同日、巨人オーナーの白石興二郎は松井を将来的に巨人の監督として迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした。松井の引退を受け、数多くの球界関係者が談話を発表した。松井の恩師である長嶋茂雄は「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った。内閣官房長官の菅義偉や外務大臣の岸田文雄といった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた。松井の引退は日本国内での速報から間もなくして各国でも報じられ、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ。ヤンキースでチームメイトだったデレク・ジーターは球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ヤンキースオーナーのハル・スタインブレナーも「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた。ヤンキース時代の監督のジョー・トーリは「松井の監督だったことを誇りに思う」と称えた。また、CBSスポーツの記者のジョン・ヘイマンは「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し、YESネットワークの記者のジャック・カリーは「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した。ニューヨーク・タイムズ紙は2ページに渡って松井の引退に関する記事を掲載した。2013年3月上旬には長男が誕生したことを明かす。4月1日の午後には、内閣官房長官の菅義偉が記者会見で、日本政府が国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし、16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定。5月5日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦の前に松井の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われ、内閣総理大臣の安倍晋三から国民栄誉賞が授与された。その後の始球式で松井は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督の原辰徳を捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行った。試合途中からは解説を務め、現在の巨人について「一言でいったら強い。いいチームになった。僕がいたころはビッグネームがいたんですけど、たくさん。でも、なかなか勝てなかった。今はチームとしてまとまり、一つになっている」と話した。5月30日にはニューヨーク・ヤンキースが、チームの開幕戦からちょうど55試合目のホームゲーム(雨天延期などのため、セレモニー当日は55試合目とはならなかった)となる7月28日のサンディエゴ・パドレス戦で引退セレモニーを行うことを発表。7月からはヤンキース傘下のショートA級スタテンアイランドで打撃投手を務める。7月16日には、NHK BS1のMLBオールスターゲーム中継で、現地のシティ・フィールドからゲスト解説を務めた。7月28日には、ニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前にヤンキー・スタジアムのグラウンド上で引退セレモニーを行い、松井はヤンキースの一員として野球選手の生涯を終えた。8月にはこの年の夏の甲子園大会の第1日目を観戦し、この日の熱闘甲子園にもゲスト出演した。9月22日には、同シーズン限りで引退するマリアノ・リベラの引退セレモニーに出席した。2014年、2月1日から13日まで読売ジャイアンツの春季キャンプで臨時コーチを務めた後、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。5月24日にはクーパーズタウンで行われるアメリカ野球殿堂の記念試合にヤンキースの代表として出場。本塁打競争にも参加し、記念試合ではスティーブ・エイベリーから本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた。6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした。8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定されたジョー・トーリの記念セレモニーに出席。また、9月7日には盟友デレク・ジーターの引退セレモニーに出席。同年のヤンキースタジアムでの最終戦となった9月25日には、NHK BS1での中継内でヤンキースタジアムからゲスト解説を行った。試合はジーターのサヨナラタイムリーでヤンキースが劇的な勝利をおさめた。2015年2月3日~4日の2日間に渡って古巣の巨人軍宮崎キャンプを視察。5日~7日からは沖縄県・宜野湾でDeNAのキャンプを視察した。3月11日。ヤンキースGM特別アドバイザー就任(契約期間は1年)。キャンプ地のフロリダ州タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人×日本ハムでデレク・ジーターと共に始球式を行った。試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」に参加。チャリティーイベントの最後に行われたヒッティングチャレンジでは「せっかくこれだけのお客さんが集まってくれたので、僕が打ちます」と自ら打席に立ち、小宮山悟氏が投じた5球目を右翼スタンドへ放り込んだ。ジーターはイベント後、「松井との友情を確かめ合うだけでなく、子供たちの助けにもなってとても幸せだ。松井がまた何かやるのであれば、サポートしたい」と語った。松井は「こういう支援は災害から日がたつと忘れられがちになる。そうならないようにしたい。協力してくれたジーターの力は大きかった。子供たちがこの一日を大きなエネルギーにして、大きな夢を持ってほしい」と話した。2016年 ヤンキースGM特別アドバイザー の契約が1年継続となる。4月5日にはヤンキース×アストロズ戦にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。NPB・MLBで507本の本塁打を打った。巨人時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。高校卒業から10シーズンでの本塁打数は、王貞治の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。また22歳シーズンでの38本塁打は、王貞治と並んで日本プロ野球記録である。OPSでも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算.996。MVPを獲得した1996年以降の7シーズンは、主砲に必要な指標である本塁打・打点・長打率・OPSで、ロバート・ローズやロベルト・ペタジーニという他球団の外国人助っ人とリーグ1位を争った。また、三冠王への障壁であった首位打者も2001年に獲得したが、この年は本塁打が2位、打点が3位。日本での最終年となる2002年は、最多本塁打と最多打点を獲得したものの打率が2位に終わり、三冠王の獲得はならなかった。MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、本塁打・打点・長打率・OPSではシーズン記録・通算記録共に日本人メジャーリーガー歴代1位、打率・安打・出塁率は、シーズン記録・通算記録共にイチローに次ぐ歴代2位である。また、本塁打・打点・長打率・OPSでリーグ20位以内を記録したことがあるのは松井だけである。また、打者が打席あたりに産み出した得点の傑出度であり、リーグごとの得点環境やパークファクターも考慮されるため一律の条件で打者を評価する事が出来るwRC+や、パークファクターも考慮され、リーグ平均からの傑出度を測るOPS+でもシーズン記録・通算記録共に松井が1位である。打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」などということを挙げている。週刊ベースボール誌上で、巨人時代には監督の長嶋とマンツーマンで練習をよくしていた。長嶋がバットのヘッドで示した場所へ向かって松井が素振りをし、長嶋はインパクトの直前にバットを引くという作業を行っていた。これについて松井は「あの練習のおかげで徐々に自分の追い求める打撃の形が見えてきた」、「一番神経を使っていたのは監督。一歩間違えれば大ケガにもなりかねない」と語っていた(ちなみに王貞治も荒川博の下でした練習方法である。)。日本時代の松井について、古田敦也は「並外れたパワーだけではなく、優れた打撃技術にその凄さがある」と語っている。古田によると、松井は比較的外めの球でも右方向へ引っ張るという「特殊で非常に高度な技術」に長けており、どんなコースでも打球を前で捉えられる「プロの中でも並外れた物凄いバッター」だという。日本時代は狭い東京ドームを本拠地にしていたが、広いナゴヤドームや甲子園球場でも本塁打を量産していた。MLB移籍前は「メジャーでもホームランバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった。各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる。NPB時代は5度のOPS1.000超えを果たしたが、MLB移籍後は2004年の.912が最高であり、長打率も2004年と2009年を除いて.500を切っている。MLBでの本塁打減少については、朝日新聞紙上の上原浩治との対談において、「ボールが飛ばない」とNPB/MLBのボールの質の違い(MLBで使用される球はNPBで使用される球より格段に飛ばないとされる)に言及している。また、NPBよりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球(ムービング・ファストボール)にも苦しめられた。そして、「最大の問題」として、右利きの左打者であるため左手で打球を押し込む力がどうしても弱くなってしまうことを挙げ、「メジャーでホームランを打つためには外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」と語っている。これらの要因が重なって、ホームラン数はNPB時代に比べて大きく減少した。MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。また、ウェートトレーニングなどでも左手を重点的に鍛え、左手で箸を持つなどの努力を重ねた。外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」と割り切ると共に、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった。こうしてMLBに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、NPB時代のような圧倒的な本塁打数を記録することはなくなった。本塁打よりも、最もチームの勝利に直結する打点にこだわるようになり、MLB在籍9年間で4度も100打点以上を記録している。元MLBコラムニストのラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している。それでも日本人選手では唯一、MLBでのシーズン30本塁打と5度のシーズン20本塁打以上を記録。2004年には、アジア人でも唯一の31本塁打を放ち、翌2005年は打率、本塁打、打点の三部門全てで日本人トップの成績だった。この2005年はMLB3年目であったが、日本人史上初となるMLB通算50号を放ち、2007年(5年目)には100号、2010年(8年目)には150号を放った。2012年にはイチローがMLB通算100号に到達したが、MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人はこの2人だけであり、2013年現在、50本以上を打っている日本人も他には現れていない。現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本で現役引退した。現役時代は、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言していた。同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、MLB7年目にして16.3打数に1本という自己最高の本塁打率(リーグ7位)を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた。これは、MLB在籍期間が長くなり、MLBの投手が投げる球の軌道にも慣れ、再び体の前でボールを捉えることが出来るようになってきたからだという。しかし、翌2010年は衰えを見せ、本塁打数・本塁打率共に悪化。2011年は、怪我で長期離脱した2006年と2008年を除いて、MLB移籍後最低であった2003年の16本を下回る12本に終わり、2012年は、MLB昇格後7打席で2本塁打を放ち意地を見せたものの、戦力外通告を受けるまでの96打席で本塁打が出なかった。ヤンキース時代は、左打者にホームランが出やすいヤンキー・スタジアムを本拠地としていたが、球場に関係なく本塁打を放っていた。2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った。前述のように、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しており、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。ヤンキース時代7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない。不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。最新のセイバーメトリクスなどを扱う米国の大手記録サイトFangraphs によれば、シンキングファストボールに苦しんだ2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7パーセントに達した。一方で、フライの割合は23.8パーセントに過ぎなかった。これはゴロが多いことで知られるイチローとほぼ同じ数字であった。しかし、メジャーに対応した翌年からは打球が上がることが多くなりフライ性の割合が増え、GB/FBも0.89〜1.36の範囲で推移している。打率についてもNPB時代の通算打率は3割を超え、2001年には首位打者のタイトルも獲得している。MLBでも2005年に打率.305を記録、この年はイチローの打率を上回った。それ以外の年も2008年までは3割前後の打率を残している。選球眼に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている。特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった。また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとしての度合いが強まった。そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった。2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている。基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。MLBでの通算成績も、4月、5月のOPSは.700台であり、6月以降は.800を超えている。特に、7月は通算打率.309、OPS.916と得意にしている。左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。MLB1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが、2005年は対右投手が.281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では.354、8本塁打と打ち込んだ。2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としてはプリンス・フィルダーと並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った。しかし、2010年は対左投手の打率が低迷し、シーズン後半は相手先発が左投手の時はベンチを温めることが多くなった。2011年は対右投手の4本塁打、OPS.654に対し、対左投手は8本塁打、OPS.795と再び強さを発揮した。MLB10年間の通算では、対右投手は3534打席で打率.281、119本塁打、OPS.831、対左投手は1532打席で打率.284、56本塁打、OPS.802となっている。投手との相性については「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている。対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという。「いわゆる魔球と言われるような緩い球速で変化の大きい変化球よりも、カッター系やシンカー系といったムーヴィング・ファスト系の芯を外す球種の方が厄介」と述べており、こうしたムーヴィングファスト系の球種を操ったペドロ・マルティネスとロイ・ハラデイを『最高の投手』として挙げている。NPB時代には、石井一久を苦手にしていた。1999年には遠山奬志に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている。MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。その中で対戦成績のOPSが1.000を超えている投手は、デレク・ロウ(1.213)、ヨハン・サンタナ(1.189)、ジェレミー・ボンダーマン(1.118)、バートロ・コローン(1.033)、エドウィン・ジャクソン(1.009)の5人である。それ以外では、ジェームズ・シールズ(26打席で1.542)、ダグ・ウェクター(24打席で1.378)、ブロンソン・アローヨ(23打席で1.379)、ブライアン・タレット(21打席で1.521)と特に相性がいい。逆に分が悪いのがジェレッド・ウィーバー(.454)、ブルース・チェン(.502)、スコット・カズミアー(.531)、ジェレミー・ガスリー(.552)である。それ以外では、B.J.ライアン(24打席で.439)、グスタボ・チャシーン(24打席で.426)、スコット・ショーエンワイス(21打席で.267)と特に相性が悪い。また、全投手中最多の69回対戦しているボストン・レッドソックスのナックルボーラー、ティム・ウェイクフィールドに対しても苦手意識を持っていた。ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率.210、OPS.645であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している。また、MLB初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払ったロイ・ハラデイとはウェイクフィールドに次いで2番目に多い67回の対戦があり、63打数14安打の打率.222ながら、ジェームズ・シールズと並んで全投手中最多の4本塁打を放っている。以前はハラデイを大の苦手にしていたが、晩年は苦手を克服した。対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしているという。打撃妨害での出塁が一般的な打者に比べて多い。2010年は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体でカール・クロフォード(5度)に次いで2番目に多い数字だった。打撃フォームは毎年微妙に変えていた。プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。30本以上の本塁打を量産しだした1996年頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。50本で本塁打王を獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した2007年以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。2ケタ盗塁を記録したことはないが、100m走のタイムは11秒台を記録したこともあり、MLBの中でも遅い方ではなく、ヤンキース移籍当初は一塁到達まで4.15秒と左打者としては平均のタイムだった。晩年は相次ぐ脚の故障により満足な走塁を行うことが難しくなったため、走塁と守備について一部より「三流」という声も上がった。一方で両膝を痛めた晩年でも、全力疾走は怠らなかったため、ヤンキースの選手曰く「ポサダよりは速い」と言われた。走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っていた。守備位置は高校時代までは主に三塁手であったが、プロ入り後に外野手(主に中堅手)へコンバートされ、2000年から2002年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。巨人時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。1998年にはJA全農Go・Go賞・強肩賞を受賞するなど、日本時代は肩は強い方であると言われてきたが、ヤンキース移籍後は「しっかりとした姿勢から投げる時は力強い送球を見せるものの、安定したツールを持つ中で唯一の弱点」と評されるようになったことに加え、ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーにバーニー・ウィリアムスがいたため、主に左翼手として起用されるようになった。2011年シーズンまでの9年間で、左翼手として609試合、中堅手として77試合、右翼手として7試合に先発出場している。メインの守備位置である左翼では5163.1イニングで24失策、守備率.983、Range Factor(RF、9イニング当たりのアウト達成数)2.05、補殺39という数字を残している。メジャー移籍後は左翼手へのコンバートもあり、最初の2年間は苦戦したが、それ以降は多くの守備指標を向上させた(詳細は後述)。2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、ジョニー・デイモンが左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため、指名打者での出場が増えた。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。一時は一塁手へのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された。特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対ミネソタ・ツインズ戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた。守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された。補殺数はリーグの左翼手の中でも多いほうであり、本人は本塁での補殺を「外野手として最高の見せ場」と捉えている。セイバーメトリクスのシンクタンク「Hardball Times」が各外野手の送球をKill+(補殺ポイント)、Hold+(走者を先の塁に進ませなかったポイント)、Runs/200(200イニングあたりに防がれた失点数)などの各数値により総合的に評価した「Best Outfield Arms」では、MLBの正左翼手30人中6位と上位にランクインした。一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。ミッチェル・リクトマンが考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「UZR(Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77.3(左翼で-65.5、中堅で-10.6、右翼で-1.2)という低い数値を喫し、ESPN記者のロブ・ネイヤーがUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった。特に2003年(-23.1)、2004年(-21.8)はメジャーの全外野手で最下位の数値だった。本職である左翼の守備に限れば、2005年以降は改善を見せたものの、リーグ平均に達したことは一度もなかった。UZRと並んでよく用いられるジョン・デュワン考案の「守備防御点(Defensive Runs Saved)」(プラス・マイナス・システムの改良版)でも通算-15と低い数値を喫した。本業の左翼でも通算-9と平均を下回ったが、2005年には+5、2007年には+1とリーグ平均を上回る数値を記録した。日本時代も含めて左翼手として初のシーズンだった1年目の-7、両膝に不安を抱えたエンゼルス時代の-2を除けば通算で±0であり、全盛期の松井の左翼守備はメジャー平均レベルだったという結果が出ている。2011年は27試合での数値ではあるが、守備防御点は±0であり、晩年も膝の不安さえなければ守備力はさほど衰えていないことを示した。上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。例えば、「Baseball Musings」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られるカール・クロフォードと大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た。監督からの信頼と、自身の強い精神力、体力などが求められる連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。『きめ細かい体調管理による安定したフィジカルコンディションがその要因』と言われていたが、2006年の骨折後に『初めて体重計を買った』や、2007年のプレーオフ敗退時の『体調を整えるって大変なことだな。若いときはそんなこと考えもしなかったけど』という本人のコメントから、生来の身体の頑丈さが出場を続けられた一番の理由のようである。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話すなど、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも代打や代走、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の骨折まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督のジョー・トーリも「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある。このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した。骨折翌年の2007年シーズン初頭には「もう、連続試合出場記録が途切れたわけだから」というトーリの提案を受け入れ、完全休養日をとるようになっている。2008年初頭にはスポーツ紙に「もう一度全試合出場」を目標としてあげるなど、依然として強いこだわりを持っているが、同年は休養を入れながらの出場となった上、夏には3年連続となるDL入りをしそのまま戦線離脱、翌2009年には度々スタメン落ちするようになり、怪我がちになるなど、以降は目標の達成は困難となってしまい、そのまま引退した。打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、MLB機構とMLB選手会の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン、2005-2006シーズン、2007-2008シーズンのいずれもイチローらを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での一塁手・外野手・指名打者部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。塁打、四球、盗塁などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」では、NPB在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている。攻撃力を評価する指標OPS(出塁率+長打率)は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版)は同7年間で6.28をマークした。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「WAR」(Wins Above Replacement。同じポジションの控え選手に比べて上積みした勝利数)では、「Fangprahs」版で通算14.9(年平均1.66、キャリアハイ3.0)を記録している。平均的なレギュラー選手では年間で2前後になるとされており、松井はそれよりも低い評価を受けている。Fangraphs発表のWARでは守備評価においてUZRが用いられており、前述のようにUZRが低い松井はその影響を大きく受けている。WARの守備評価については、その精度を巡る議論も続いている(詳しくはWAR (野球)を参照)。算出法が異なる「Baseball-Reference.com」版WARでは、通算18.6(年平均1.86、キャリアハイ4.6)となっている。2004年に記録したキャリアハイの4.6はリーグ10位の数字だった。2008年2月21日、スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位はJ・D・ドリュー)。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『鉄人』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した。張本勲は自著『最強打撃力』(ベースボール・マガジン新書発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。この著書に加え、インタビューでも「松井の決定的に悪い癖は、投手が振りかぶった時に背伸びすること。打者の目線が横に動くのはかまわないが、縦に動くのは絶対にいけない。これをどうにかしないと、メジャーの超一流の仲間入りは出来ないでしょう」と語った。松井の引退時には「本来の実力からすれば残した数字はやや物足りないが、よくやった」と述べた。王貞治は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」と称賛した。各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、WBC辞退などの影響で陰りが見えつつあった。中央調査社が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった。バンダイが実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位であったが、2009年には圏外であった。他選手や監督などからの評価は軒並み高い。長嶋茂雄は「現代で最高のホームランバッター」と評した。原辰徳は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。阿部慎之助は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、上原浩治は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している。佐々木主浩は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評したが、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り、金本知憲は2001年のインタビューで「(松井君は)目標ですね。ライバルじゃないです。彼はすごい。あのスイングといい、当たりの強さといい、あいつにはかなわん」と脱帽していた。辛口で知られる野村克也はON砲以降の巨人の4番打者で松井を最も高く評価している他、「監督として指導したかった」とも語っている。また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している。元チームメイトでヤンキース主将のデレク・ジーターは、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っていた。同じくアレックス・ロドリゲスは「ヒデキは野球をよく知っている。打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価し、アンディ・ペティットは「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。とにかく勝負強いんだ」と絶賛した。ボビー・アブレイユは「マツイは本当に好人物で、プロフェッショナル」と松井の人柄を高く評価し、トリー・ハンターは、自身のブログで「マツイは日本の伝説の“ゴジラ”。打撃のバランスが素晴らしく、滑らかで、無理のないスイングをする。そして、左投手とチャンスにとても強い」と絶賛した。2002年に松井を獲得するように進言したヤンキースのスカウトのジョン・コックスは、同年50本塁打を放った松井の打撃だけでなく守備にも注目し、「松井は野球をよく知っていて、メンタルミスをしない」と評価していた。実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「瑠璃教会」である。初代司教である瑠璃寿、そして二代目司教である父・昌雄の存在は、秀喜の人格形成に大きな影響を与えた。「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという。試合や練習、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる。松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。一人でいるのが好きなんです。」 と評している。基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない。ヤンキースのチームメイトであったCC・サバシアは、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ」と人間性を高く評価している。本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った。グラブやスパイクなど、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。ジョー・トーリも、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を高く評価している。道具を大切にする姿勢については、“道具を大切にしなさい”という子どもの頃の教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っている。また、「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている。本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた。父の影響で元々は阪神タイガースのファンであった。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人たちは松井が阪神ファンと知っていたことから歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。後に巨人から阪神へ移籍した広澤克実が、松井の憧れの選手である掛布雅之の背番号であった31番を付けた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番に対する憧れを見せていた。高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は落合博満であり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている。長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと。また、長嶋がナイター試合終了後に松井の携帯電話に連絡をしたら、松井が息を切らせながら電話に出ることから、深夜にかかわらず彼がトレーニングをしていることを確認でき安心していたという。長嶋は松井について「多くの選手は最初は一生懸命に練習するが、少し結果が出るとすぐに手を緩めたがるものだが、松井君は結果に関係なく常に何年か先の自分の姿を想像して、長い目で物事を見つめながら練習できる、数少ない選手ですね。だから好不調に関係なく、いつも自分に厳しい練習を課していました」と評している。松井は「長嶋監督に褒められたことは一度もありません。どんなに結果を出したつもりでも、お前はそのくらい当然だろう、といわないばかりの態度でした」と振り返っている。日米を通して、試合を決める本塁打や会心の本塁打や感動的な本塁打を打った際も、ガッツポーズや万歳などのパフォーマンスはほとんど見せず、ホームインするまでは無表情でベースを一周した。その理由について「打たれた投手に、失礼に当たるから」と答えていた。赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、5年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。以上のように、真面目な性格であるが、意外にも遅刻魔としても有名である。2004年のオールスター戦でも遅刻し、ア・リーグ32選手中最後に球場入りしている。巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い。2009年のワールドシリーズ第2戦の試合前には渋滞に巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。デレク・ジーターは「俺も明日から遅れてくるさ。まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った。米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された。一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と冗談混じりに応えている。なお巨人在籍時の遅刻はたまにしかなかったとも言われ、その理由として集合時間30分前に全選手が揃う「ジャイアンツタイム」と呼ばれる時刻に遅れたことが遅刻ととられたという証言がある。3・4歳頃からピアノを習い始めて、小学校4年生で兄と「マイ・ウェイ」を連弾するほどの腕前で、モーツァルトを愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。現在もクラシック音楽を好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会がなくなり、今はもうピアノは弾けなくなっている。巨人在籍当時から花粉症を患っている。MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では.278なのに対し、遠征では.165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある。実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている。シーズン中の睡眠時間は7時間。視力は両目とも1.5。足のサイズは29。引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は右打ちでノックを行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。ノックの名手として知られる高代延博によれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという。公の場で英語を話すことはあまりなく、東日本大震災直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際など数少ない。球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している。インタビューなどの公式の場では、専属通訳のロヘリオ・カーロンを通して受け答えをしている。メジャー移籍時は中学2年生の英語教科書「ニューホライズン」を持参して渡米したというエピソードもある。難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた。ヤンキース時代のチームメイトのCC・サバシアは、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している。ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。こちらの話していることは十分に理解している」という。英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロンの)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている。現役引退後もニューヨークで週に数回英語のレッスンを受けているという。2014年に外国特派員で行われた記者会見では、「英語が得意ではない」との理由から、スピーチ、質疑応答を全て通訳を介して行っている。ニックネームは「ゴジラ」。初めてマスコミが「ゴジラ」の愛称を用いたのは、1992年の春の選抜大会前のことであった。名付け親は日刊スポーツ記者で高校野球を担当していた赤星美佐子で、「下半身が大きくて犬歯が特徴的」という理由でゴジラの名が付けられた。当初、松井は「ゴジラなんて勘弁してくださいよ。もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが、甲子園での活躍で全国に「ゴジラ」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後、街を歩いていた時に子供に「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、自らの愛称を快く受け入れられるようになった。渡米後も、「アメリカ人も覚えやすいからいいんじゃないですか」と語っており、自らの愛称を気に入っている様子である。ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では「怪獣」というあだ名が付けられていた。2002年の映画『ゴジラ×メカゴジラ』、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物

出典:wikipedia

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