皇太子(こうたいし、)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。あるいは一般に、君主の継承者を指す。字義としては、皇太子とは、次期皇位継承者の第一順位にあたる、皇帝の男子のことである。王位継承の第一順位の王子については、王太子(おうたいし)または王世子(おうせいし)のように言うこともある。「○太子」の言葉自体がいずれ「○」の地位を継ぐ「(男の)子」を意味するため、君主の地位が王である場合には王太子の名称を用いるのが正確といえる。また、君主の地位が大公・公・侯である場合、太子ではなく世子を用いる。しかし現在の日本のマスコミによる報道などでは、対象が次期国王や次期大公であっても「王太子」・「大公世子」の語は用いられず、「皇太子」を用いるのが通常である。ただし歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。また次期皇(王)位継承者が弟、孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の名称を用いるべきともいえるが、実際にはひっくるめて「皇太子」の名称が用いられている。なお、西欧の言語においては、「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られず、例えばの語が用いられる。一方で西欧の言語では、性別によって称号が異なることが多く、女性の次期君主位継承者の称号は、例えばの語が用いられる。漢字文化圏では皇太女/王太女と表記されることがある。実例としても、唐の安楽公主について「皇太女」に立てようという動きがあった、と『資治通鑑』等に記されている。日本においては、性別における称号の使い分けが行われず、日本で唯一の女性皇位継承者となった即位前の孝謙天皇について、『続日本紀』は「皇太子」と記している。2005年の皇室典範に関する有識者会議報告書においても、「天皇、皇太子、皇太孫という名称は、特に男子を意味するものではなく、歴史的にも、女子が、天皇や皇太子となった事実が認められるため、女子の場合も同一の名称を用いることが適当である」とされた。そもそも太子の語は中国に由来するものであり、王や諸侯の後継者が太子と呼ばれた。史上最初に皇帝を名乗ったのは秦の始皇帝であり、始皇帝の時代には皇子の扶蘇が太子として立てられていたので、史上最初の皇太子(皇帝の太子という意味での)は扶蘇であるということになる。もっとも、始皇帝の没後に趙高らの陰謀で排除されたため、扶蘇は即位していない。特定の皇子を立太子することにより、皇帝が太子以外を寵愛して後継者争いが起こる、皇太子以外が功績抜群であるため派閥抗争が起こる、皇太子が地位に安住して佞臣を近付け修養を怠る、などの弊害がときにみられた。とはいえ、皇帝が絶大な権力を持つ中国において、皇太子を指名しないことはますます派閥抗争の激化などの弊害を招くため、皇太子制は継続されてきた。清の雍正帝はこれらの弊害を正すために太子密建の制を導入し、秘密裏に皇太子を指名して皇帝没後に開封することとした。皇太子は、東宮、春宮、または太子と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。なお、「東宮」の原義は皇太子の住まう宮殿のことであり、居所を呼ぶことで婉曲的に皇太子その人を指したものである。朝廷では、皇位を継ぐべき皇子や、継承資格を有する皇子に大兄(おおえ)とつけて「大兄皇子」と敬称した。もっとも、大兄皇子と皇太子は必ずしも同義ではない。大兄皇子と敬称されたとしても、絶対的にその地位を保証するものではなく、同時に複数名存在することもあった。「皇太子」あるいは「太子」という語がいつ成立したのかについては議論がある。例えば、『隋書』倭国伝に「太子」(誰に比定するかは諸説ある)の記述が登場するため推古天皇の時代には「太子」の称号はあったとする説がある。その一方で、飛鳥浄御原令や大宝令によって皇室の諸呼称が定まった時期に初めて制度として確立されたものであるとする説もある。いずれの考えを採るとしてもそれ以前の『日本書紀』に記された立太子の記事はそのまま史実とは認められないことになる。皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。大化以前において天皇は一定の年齢に達していることが必須であり、天皇の子がすぐ跡を継ぐ例はむしろ少なかった。子への継承が通例となって以降も、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚、治天の君、武家政権などの実力者の意志などが作用して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。立太子礼が復活した後も、儲君治定から立太子礼まで1年から数年の期間があり、江戸時代では実質儲君治定が次期皇位承継者の決定であった。一方、皇太子となっても、諸般の事情により皇位に就くことができなかった例もある。これには、即位以前に薨御された例(菟道稚郎子皇子・聖徳太子・草壁皇子(岡宮御宇天皇)など)、自ら辞退した例(敦明親王(小一条院))、皇太子位を廃されて廃太子となった例(他戸親王・早良親王(崇道天皇)など)がある。特殊な例として、大海人皇子は、皇太子位を辞退して出家した後、壬申の乱を経て天武天皇として即位した。当今の弟が次期継承者である場合には、皇太弟(こうたいてい)、また当今の孫である場合は皇太孫(こうたいそん)と呼ばれる場合がある。院政期においては皇太子の称号は父権の存在を意味した。今鏡には、崇徳天皇が鳥羽上皇に譲位を要請されたが、弟躰仁親王(近衛天皇)の立太子の際、皇太子ではなく「皇太弟」とされたために崇徳天皇は近衛天皇に対する父権を行使できず、院政を行うことができなかったと言う記述がある。皇太子には、ほとんどの場合において父が(当今に限らず)天皇である親王(皇子)が就いているが、例外が10例あり、そのうちの8例までが天皇の孫である(仲哀天皇・仁賢天皇・文武天皇(但し母がのちの元明天皇)・淳仁天皇・光仁天皇と、道祖王・康仁親王の廃太子、及び即位前に夭折した慶頼王)。3世以下の王が立太子した例はない。女性が皇太子となったのは過去に内親王が1例あるのみである(奈良時代の女帝・孝謙天皇)。初代神武天皇も立太子を経て即位したと伝えられる。1889年(明治22年)、皇室の家内法として皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、儲嗣タル皇子を皇太子としていた。1947年(昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範8条前段では、皇嗣たる皇子が皇太子とされている。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。また、皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。そのため、皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。かつては、幼少の儲君の立太子の礼も行われた。これに対して、現皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。皇太子、皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。旧皇室典範の下では、立太子の礼は2回行われた。現皇室典範の施行後は、立太子の礼は2回行われている。また、成年の皇太子は、摂政就任順の第1位でもあり、1921年(大正10年)11月以降、1926年(大正15年)の大正天皇崩御まで当時の皇太子裕仁親王が摂政に就いた例がある。(詳細は、摂政の項を参照)皇室典範には、皇太弟や皇太甥(こうたいせい)などに関する記載はなく、仮に皇位継承順第1位の者が在位中の天皇の弟または甥の場合、一般の皇族(親王または王)という扱いになる。このため、昭和天皇践祚後、1933年(昭和8年)の継宮明仁親王誕生までは、弟宮である秩父宮雍仁親王が皇位継承順第1位であったが、皇太子・皇太弟とは称されず、一般の皇族のままだった。「皇太孫」は皇室典範に記載があり、皇太子不在の際の「儲嗣タル皇孫」(旧典範15条)、「皇嗣たる皇孫」(現典範8条後段)を言う。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第1位を指し、「皇孫」とはこの場合、在位中の天皇の孫を指す。朝鮮半島においては、高麗のモンゴル干渉期から李氏朝鮮後期まで長らく他国の冊封体制下にあったため、太子の称号が使えず、国王の継承者は「王世子」と呼ばれていた。日清戦争の結果、下関条約が結ばれたことにより清の冊封から外れ、国号を大韓帝国と改めた際に「皇太子」を使うようになった(国王も大韓帝国皇帝となった)。しかし韓国併合により朝鮮は日本の領土となり、旧皇帝家は日本の王族となり、旧皇太子は王世子となった()。琉球王国においては、王世子は中城間切を領地としたので中城王子と称した。日本語の「(男性の)皇太子」にあたる語は、英語ではCrown Prince、ドイツ語ではKronprinz、スペイン語ではPríncipeである。女性形はそれぞれcrown princess、Kronprinzessin、Príncesaで、これは皇太子の妻にも用いられる。また、君主号が皇帝(emperor)か王(king)かに関らず用いられる。実際にドイツ帝国などで称号として用いられていた。ローマ帝国においては、皇帝は建前上世襲ではなく、「元老院、ローマ市民の代表者」とされていたため、皇太子にあたる地位はなかった。神聖ローマ帝国においても、もとは選挙王制であり、建前上必ずしも世襲ではなかった。ただし、ハプスブルク家が帝位を独占した後には、次期皇帝としての「ローマ人の王(Rex Romanorum)」の称号を自家の後継者に与えることで、帝位の事実上の世襲を維持した。これとは異なる称号であるが、フランス第一帝政のナポレオン1世も後継者ナポレオン2世を「ローマの王」に任命している。フランス帝政の影響から、神聖ローマ帝国も世襲制のオーストリア帝国となり、皇帝の後継者たる男子が公的に皇太子(Kronprinz)となった。サラエボ事件で知られるオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公は、事実上の皇太子であったが、傍系であることや貴賤結婚によりその子孫には皇位継承権が許されなかったなどの事情から、皇太子とはあまり呼ばれず、皇位継承者(Thronfolger)と呼ばれた。ロシア帝国では、皇太子に対して「皇帝(ツァーリ)の息子」という意味の語である「ツァレーヴィチ()」「ツェサレーヴィチ()」という呼称が用いられた。イギリスでは、王太子にプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号が与えられた。元々はウェールズの君主の称号であるが、1301年、エドワード1世がウェールズ人の反乱を抑えるために王太子にこの称号を与え、以降王太子の称号となった。フランス王国では王太子に「ドーファン(dauphin)」の称号が与えられた。元々はフランス南東部のドーフィネ(Dauphiné)地方の領主の称号であったが、1349年に同地方を王太子領として以降、王太子の称号となった。この他、以下のヨーロッパの王太子/女(王の法定推定相続人)は、貴族としての特定の儀礼称号が与えられる。これらの国々に、王太子/女 (Crown Prince/Princess) という称号はないため、しばしば同一視される。日本では、王太子/女ではなく皇太子と表記・報道され、現プリンス・オブ・ウェールズも「チャールズ皇太子」と呼ばれることが多い。スカンディナヴィア諸王国(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク)では、特定の儀礼称号は用いられず、王太子/女(Crown Prince/Princess)にあたる語がそのまま呼称として用いられる。現在のノルウェーの王太子ホーコンは"H.K.H. Kronprins Haakon"と呼ばれ、これは英語に訳すと"HRH Crown Prince Haakon"となる。なお、日本のメディアでは、欧州王室の女性王位継承者の身位について、「皇太王女」として表記したことがあるが、近年では単に皇太子と表記されることもある。1980年のスウェーデンを初めとして近年のヨーロッパ諸国では、後継者問題や女性の地位向上などに伴い、継承順位を男女に係らず長子優先と転換する国が多く現れたため、これに伴い王太女(王位継承者である王女)も増加した。2015年現在、の4名がいる。なお、原語では、王太女と王太子妃は同じ呼称(例:Crown Princess)となるが、王太子(例:Crown Prince)と王太女の夫は同じ呼称は名乗らない。例えば、スウェーデンのヴィクトリア王女の夫ダニエルは、結婚により王子(prins)となったが、王太子と同じ称号であるKronprinsは名乗っていない。2015年4月時点まで、サウジアラビアの場合は、国王の息子ではなく、弟が次期王位継承者となっていた。初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは一夫多妻制で、35人の継承権を持つ子供たちがいるため、2代目から7代目のサルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ現国王と、次期王位継承者とされたムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズまでは兄弟であり、初代国王の孫の世代への継承は行われたことがなかった。しかし日本の外務省は、過去に同じ立場にあって死去したスルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードに対して「サウジアラビア王太弟」ではなく「サウジアラビア皇太子」と表現していた。2015年4月29日、ムクリンは次期王位継承者の座を解任され、ムハンマド・ビン・ナーイフが次期王位継承者となった。ムハンマドはサルマーン国王の甥にあたるため「王太甥」という事になるが、日本では同じく「サウジアラビア皇太子」として表現している。なお、サウジアラビアでは、第2王位継承者の称号があり、日本ではこれを「副皇太子」と表現している。現在の副皇太子は、サルマーン国王の実子のムハンマド・ビン・サルマーンである。
出典:wikipedia
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