大森 剛 (おおもり たけし、1967年8月4日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)。現読売ジャイアンツ国際部課長。主に一塁手を務めたが、外野手として試合に出場したこともある。長女はAKB48の大森美優。高松商業高校では1年生の時に第65回選手権に出場。その後慶應義塾大学商学部へ進学し、2年生の春から4番打者として東京六大学、全日本大学選手権で優勝。3年生春の東京六大学野球では、打率.500、6本塁打、16打点でリーグ史上6人目の三冠王を獲得。リーグ通算88試合に出場し312打数111安打、17本塁打、78打点、打率.356。ベストナインに3度選ばれた。1988年にはソウルオリンピック野球日本代表として出場。選手19人のうち大学生は野村謙二郎(駒澤大)・笘篠賢治(中央大)・大森の3名だった。1989年、大森と上宮高校の元木大介が巨人入りを志望していたドラフトで「高校生より下の指名なんて受けない」と宣言し、巨人は大森を1位指名した。元木は福岡ダイエーホークスからの指名を拒否して野球留学、翌年巨人に入団する。当時の看板選手だった中畑清引退直後にその代名詞ともいえる背番号「24」を継承したことに球団の期待が表れているが、大森本人はあまりに中畑のイメージが強いその背番号を背負うことをためらったという旨の発言をしている。1年目の1990年、開幕戦の対ヤクルトスワローズ戦では同点の9回裏、で代打に起用され内藤尚行から左中間にライナーを放ったが、左翼手栗山英樹の好守に阻まれた。大森は身長188cmと大柄ながら駒田徳広のような中距離打者を理想としていたが、ホームランバッターとしての起用を想定していた球団監督の藤田元司の期待に応えようとするうちに本来の打撃スタイルを見失い、結果を残すことができずにいた。この頃他球団でなら出場機会があるのではないかと言われたこともあったが、大森自身は代打でもいいから巨人で必要とされたいと考えていたという。1992年にイースタン・リーグで本塁打王・打点王の二冠王。27本塁打はイースタン・リーグの新記録であった(のちに2001年にコーリー・ポールがタイ記録、2009年に中田翔が30本塁打で記録を更新している)。イースタン・リーグでは1993年にも本塁打王を獲得し、1995年には25本塁打を放っている。1994年はプロになってから初めて一軍での出場機会がなかった。1995年には一軍でテリー・ブロスの完全試合を阻止する死球を記録した。1996年はイースタンで再び本塁打と打点の二冠王を獲得した。シーズン終盤には一軍に昇格。怪我で離脱した落合博満に変わり一塁のレギュラーとして出場し、セ・リーグ優勝を決めた対中日ドラゴンズ戦では門倉健から本塁打を放つ。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズで巨人は1勝4敗で敗れたものの、大森はシリーズ第一戦では9回の裏に代打同点本塁打を放つなどシリーズ通算でも打率.333本塁打2打点3と活躍する。1997年はヤクルトとの開幕戦で先発起用されるが無安打に終わる。1月頃から続いていた右肩痛が治まらずオフに手術しリハビリ調整していた翌1998年5月、南真一郎・背尾伊洋との交換トレードで近鉄へ移籍(9月、娘・美優が誕生)。近鉄移籍後も先にトレードで巨人から近鉄に移籍していた吉岡雄二とのポジション争いに敗れ、あからさまにふて腐れた態度を取っていた為、近鉄の首脳陣に「そんな態度では何をやっても成功しないぞ」と苦言を呈された。翌1999年は右肩痛の再発もあって一軍出場がなく、シーズン終了後に戦力外通告を受け現役を引退。2000年からは巨人の東北・関東地区担当スカウトとなり、2007年からは北海道・東北担当スカウトを務めた。第一印象を重視し、「三球一振(投手の三球、打者の一振りで力量が分からなければならない)」できるスカウトを目指しているという。光星学院の坂本勇人を高校2年生のころから密着マーク、2006年の高校生ドラフト1位候補として積極的に球団に推薦していた。しかし編成のトップである球団代表の清武英利、現場のトップである球団監督の原辰徳らは、甲子園で活躍した愛工大名電の堂上直倫を指名する結論を固めていた。それでも「進退をかけて(大森本人談)」大森は坂本を猛プッシュし、「ハズレ1位なら坂本を指名」という条件が固まった。結果、巨人は堂上の交渉権を外し、ハズレ1位で坂本を獲得する。坂本は2年目からショートのレギュラーに定着し、巨人の中心選手として活躍している。2012年より育成部ディレクター、2016年からは国際部課長を務めている。2015年、台湾で行われたアジア・ウィンター・リーグにてNPB派遣チームの監督を務めた。
出典:wikipedia
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