リトアニア共和国(リトアニアきょうわこく、)、通称リトアニア()は、ヨーロッパの共和制国家。EUそしてNATOの加盟国、通貨はユーロ、人口は325万人、首都はヴィリニュスである。バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南の国で西はバルト海に面する。北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアの飛び地カリーニングラード州と国境を接する。面積は九州本島と四国島に山口県と島根県を合わせた面積にほぼ相当する。なお、欧州のいずれに分類するかは見解が分かれる。国連では北欧に分類されるが、東欧、もしくは中東欧に分類される事もある。第一次世界大戦後の1918年、リトアニア共和国としてロシア帝国より独立。1940年にソビエト連邦から翌1941年にナチス・ドイツからも侵略された。その後、ソ連の構成共和国の一つとなったが1990年、独立を回復した。リトアニア語における正式名称は、 Lietuvos Respublika ( リエトゥヴォス・レスプブリカ) 。通称 Lietuva ( リエトゥヴァ)、略称は LR 。日本語の表記は「リトアニア共和国」で、通称「リトアニア」。一部「リトワニア」、「リスアニア」、「リトアニヤ」、「リツアニア」という表記も見られる。ソビエト連邦構成共和国の時代の国名は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」。1009年3月9日付け(正しくは2月14日であったとみられる)の年代記において "Lituae" と記されたのが、歴史上リトアニアの国名が登場する最初の例である。これはラテン語による表記で、文法上は属格での表記であり、この主格は "Litua" となる。当時 [v] の発音は "u" で表記されていたが、この「リトヴァ」という呼び方は現在でもポーランド語をはじめとするスラヴ諸語において用いられている(Litwa または Litva と表記)。「共和国」に相当する "Respublika"(レスプブリカ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)に由来する。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味、"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味である。紀元前15000年頃、当時のリトアニアの大地はまだツンドラに覆われていたが、狩猟や魚釣りを行っていたインド・ヨーロッパ祖語の話し手が紀元前2000年から紀元前3000年ごろにかけてやってきたことが確認されている。その後温暖化が起こり氷河期が終わると、人々は定住するようになる。そして紀元前2000年頃、バルト族(現在のリトアニア人やラトビア人のようにバルト語を話す人々)がバルト地域へ定住するようになった。「リトアニア」の国名が歴史的な文書に最初に登場するのは1009年である("国名の節参照")。1230年代にミンダウガスがリトアニアの諸部族を統一、その後1253年7月6日にリトアニア王となった。戴冠式が行われた7月6日という日付は、現在リトアニアの建国記念日に制定されている("祝祭日の節参照")。1263年、ミンダウガス王が暗殺され、その後はリトアニア大公国では多神教が信仰されていたことからドイツ騎士団やリヴォニア騎士団からの攻撃を受けるようになった。リトアニアは西方から100年にわたって騎士団からの攻撃を受け続けていたが、他方でリトアニアは東方(かつてのキエフ公国領)へと勢力を伸ばしていった。14世紀末までにリトアニア大公国は現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となった。東西のはざまに位置していたリトアニア大公国では様々な文化や宗教が入り混ざっていた。リトアニアの支配者らはスラヴ文化・宗教に対して寛容で、また言語など多くの伝統をスラヴ部族から受け入れていった。政治的実体もハールィチ・ヴォルィーニ大公国のヴォルィーニ公国にあるほどであった。1385年、リトアニア大公ヨガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになった。これを機にヨガイラはキリスト教を受容、そしてポーランド王国とのあいだにクレヴォ合同が結ばれ、ポーランド・リトアニア合同が形成される。その後、2度の内戦を経て、1392年にヴィータウタスがリトアニア大公となる。彼の治世のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成し、中央集権化も進められた。この当時リトアニア大公国における公用語はリトアニア語ではなく、現在のベラルーシ語の原型であるルテニア語であった。またリトアニア人の大公家を戴いていたものの、その政治的実態はリトアニア(リトゥアニア)人国家ではなく東スラヴ諸部族によるスラヴ人国家であった。1410年、ポーランドとリトアニアの協力により、ドイツ騎士団との戦いに勝利をおさめた。この戦いは中世ヨーロッパで最も大きな戦いの一つであり、リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」として知られる。このとき、リトアニア大公国軍は40部隊から成っていたがそのうち原リトアニアから来たリトアニア人部隊はたったの4つで、28部隊は現在のベラルーシから、8部隊がウクライナから参加していたスラヴ人部隊であった。このことからも、リトアニア大公国の実態がスラヴ人、特に東スラヴ人が主導的な国家であったことがうかがい知れる。(いっぽう当時のポーランドは西スラヴ人の国家であった。)ヨガイラとヴィータウタスの死後、リトアニアの貴族はポーランドとの合同を解消し独自にリトアニア大公を選出しようとしたが、しかし15世紀末にモスクワ大公国が力をつけリトアニアにとって脅威となり、さらにおよびリヴォニア戦争が起きる中で、リトアニアはポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。こうして1569年、ポーランド王国とのあいだにルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国(ジェチポスポリタ)が誕生した。共和国内にあってもリトアニアは独自に軍隊や通貨、法令などを有していた。しかし最終的にリトアニアの政治、言語、文化などすべての面においてポーランド化が進んだ。16世紀半ばから17世紀半ばにおいては、ルネサンスおよび宗教改革の影響から文化、芸術、教育が栄えた。1573年以降、ポーランド王兼リトアニア大公は貴族による自由選挙で選ばれるようになる。シュラフタたちは黄金の自由と呼ばれる政治的諸特権を享受し、当初はこれが良い方向に機能していた。しかしこの制度には自由拒否権に代表される欠陥があった。自由拒否権の廃止といった制度改革が、リトアニアのラジヴィウ家といった一部の裕福で野心的なシュラフタの反対によって遅れたことで後に国家が無政府状態に陥り、最終的に周辺諸国によって分割・解体される要因となった。1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。すべてが取り戻される前に大北方戦争(1700年 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1721年)が勃発し、リトアニアは再び荒廃した。戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなった。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大していった。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続けたことにより、改革はすべて妨げられた。結局、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)の3カ国によって1772年に第1次ポーランド・リトアニア分割が行われ、その後1792年に第2次、1795年に第3次分割が行われた。これによりポーランド・リトアニア共和国は解体された。現在のリトアニアの領土の大半は、この分割によりロシア帝国領となった。1831年の11月蜂起、1863年の1月蜂起はいずれも失敗に終わり、ツァーリはその後ロシア化政策を強化、リトアニア語による出版物の発行が禁じられ、文化施設や教育機関が閉鎖を余儀なくされた。リトアニア地域はロシア帝国内では北西地方(クライ)と呼ばれる地方に属することとなった。1877年の露土戦争の後、ロシア帝国とドイツ帝国の関係が悪化するのに伴い、1879年7月7日、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ドイツとの戦いに備えるためにカウナス郊外に要塞を建設することを承認した。この時代、1868年から1914年までのあいだに、約635,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れた。その多くは、1867年から1868年に起きた飢饉をきっかけにアメリカへと移住した。第一次世界大戦中の1918年2月16日、ロシア革命の余波が及ぶ中でリトアニア評議会(タリーバ)はリトアニアの独立を宣言した。当初はリトアニア王国として独立したが、これはドイツの計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環であった。その後、1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、リトアニア共和国となった。その後のリトアニアは、ポーランドおよびドイツとの領土問題を抱えることとなる。1920年、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍はヴィリニュス地域を侵攻、その後この地域にはリトアニア共和国とは別に中部リトアニア共和国が建国された。中部リトアニア共和国は後にポーランドに編入されたが、リトアニアにとってヴィリニュスは歴史的首都で、憲法でも首都として制定されていたため、その後ポーランドとのあいだで領土問題を抱え続けることとなった。この結果、戦間期にはカウナスが臨時首都とされ、ポーランド第二共和国とは1938年にいたるまで国交が樹立されないままであった。この戦間期におけるリトアニア共和国の領土面積48,712平方kmであった。また、ドイツとはクライペダ(メーメル)地方をめぐる領土問題を抱えていた。第一次世界大戦後、クライペダ地方はとされていたが、1923年リトアニア軍が侵攻し、占領した。その後この地方は、1939年3月にはナチスドイツに併合されている。リトアニア共和国はカウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていたが、1926年の軍事クーデタによりアンタナス・スメトナを大統領とする権威主義体制に移行した。1939年9月、ソ連がポーランド東部に侵攻し、ソ連はヴィリニュス地域をリトアニアに編入する事を決定、ヴィリニュス地域がリトアニアに返還された。しかしその9ヶ月後の1940年6月、リトアニアはソ連から侵攻され独立を失う。この侵攻は独ソ不可侵条約秘密議定書にもとづくものであった。なお、在リトアニア・カウナス日本総領事館の杉原千畝がユダヤ人を助けたのは、この頃である。翌年、ドイツ軍はソ連への侵攻を開始(バルバロッサ作戦)、リトアニアはドイツ軍の占領下に置かれることとなった。ナチスとリトアニア人協力者は、リトアニアのユダヤ人およそ19万5000人を殺害した("詳細はリトアニアにおけるホロコースト参照")。1944年、ソ連軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入された。1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦った。約3万人のパルチザン兵士およびその支援者は殺され、その他にも多くが逮捕されシベリアのグラグへと強制追放された。第二次世界大戦中、合わせて78万人の住民がリトアニアで殺された。1986年以降、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権によるペレストロイカやグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され、その後独立運動へと発展していった。1990年のリトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙でサユディスは大勝利し、その後の1990年3月11日、初の非共産党員の最高会議議長・ヴィータウタス・ランズベルギスが独立回復を宣言、これはソビエト連邦構成共和国の中で最も早いものであった。国内に他民族(主にロシア人)が少なかったことが、国内意見の集約を容易にさせた側面があるとされる。リトアニアの一方的な独立回復宣言を受け、ソ連政府は経済封鎖を実施、さらに1991年1月13日、KGB特殊部隊のアルファ部隊がヴィリニュスのテレビ塔を攻撃、13人の市民が殺された(血の日曜日事件)。1991年2月4日、アイスランドが世界に先駆けてリトアニアの独立を承認、その後8月にモスクワでのクーデターが企てられ失敗に終わると、9月6日、ソ連もリトアニアの独立を承認した。これによりリトアニアの独立は多くの国によって承認されるようになり、また9月17日にはエストニア、ラトビアとともに国際連合に加盟した。なお、独立回復後は、エストニアやラトビアとは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件でリトアニア国籍を与えている。1991年12月25日のソ連崩壊後、ソ連軍はロシア連邦軍に継承されたが、1993年8月31日、ロシア連邦軍はすべてリトアニアから撤退した。その後のリトアニアは西欧諸国やアメリカ合衆国との結びつきを強めており、1994年に北大西洋条約機構 (NATO) に加盟申請した。計画経済から自由経済への移行した後、2004年3月29日、NATOに加盟、さらに5月1日には欧州連合 (EU) への加盟を果たした。2009年5月17日、大統領選が行われ、EUの財政計画・予算担当欧州委員を務めるダリア・グリバウスカイテ元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性大統領に選出された。2015年にそれまでの通貨リタスに代わり、ユーロを導入した。リトアニア共和国はヨーロッパの北東部に位置する、バルト三国の中でもっとも大きな国である。西部は海と面しており、砂質の海岸がおよそ99km(61.5マイル)広がる。そのうちの38km(24マイル)がバルト海の外海に面しているが、これはバルト三国の中でも最も短い。残りの海岸線はクルシュー砂州により区切られているクルシュー潟に面している。主な不凍港はクライペダ港で、クルシュー潟の狭い入り口に位置している。このクルシュー潟は浅く、南にロシア連邦カリーニングラード州まで続いている。国内最大の河川であるネムナス川(ネマン川)とその支流は、国際運河ともなっている。リトアニアの地形は全体的になだらかで平坦であるが、これは第4氷河期に形成された氷河がその後後退した際、標高差のあまりない、細長く伸びる尾根しか残さなかったためである。このため小山や丘陵、平原がバルト地方の主な特色であるといえる。国内で標高の高い地域は西部の高台や東部の台地にあるモレーンであるが、それでもリトアニアで最も高い地点(アウクシュトヤス Aukštojas)の標高は292m(965フィート)しかない。ヴィシュティーティス湖をはじめとする多くの湖や、また湿地帯があるのが特徴的である。また混交湿地林が国土の約33%を覆っている。フランスの地理学者による算定によれば、ヨーロッパの地理的中心はリトアニアの首都のヴィリニュスの北数kmの地点になる。植物地理学の観点からすると、リトアニアは中欧の特徴と東欧の特徴を合わせ持つ。また世界自然保護基金 (WWF) によれば、リトアニアの領土は中欧混交林地域 (PA0412) とサルマタイ混交林地域 (PA0436) の2つのエコリージョンに分けられる。海洋性気候から大陸性気候まで及び、湿度は高い。夏も冬も比較的穏やかである。気温は西部と東部でやや異なり、海岸部(西部)は涼しい夏と余り冷え込まない冬があるのに対し、内陸部(東部)は寒暖の差が激しい。平均気温は、海岸部では1月が-2.5度で7月が16度、ヴィリニュスでは1月が-6度で7月が16度である。夏は日中20度程度、夜間は14度程度であり、ときに30度や35度にも達する。冬はとても寒く、ほとんどの場合-20度を下回る。最も寒い冬には、海岸部で-34度、内陸の東部では-43度にまで至る。年間平均降水量は海岸部で800ミリ、ジェマイティヤ地方高地で900ミリ、リトアニア東部では600ミリである。雪は毎年10月から4月にかけて降る。9月や5月などは霰や雹が降ることもある。激しい嵐は東部ではあまり起こらないが、海岸部では頻繁に起こる。バルト地域における気温に関する記録は、古いものでは250年前にまでさかのぼる。そのデータによれば、18世紀後半は暖かな気候であり、また19世紀は比較的涼しい気候であった。20世紀になると再び暖かくなり、1930年代には最も暖かくなったが、その後1960年代まではやや涼しい気候が続いた。その後は温暖化の傾向が続いている。2002年には、森林および泥炭地における火災が原因で旱魃(干ばつ)も起きている。2006年夏には、他の北欧諸国と同様リトアニアでも熱波に見舞われた。リトアニアにおける月別の平均最高・最低気温および最高・最低気温記録は以下の通りである。現在の地方行政区画は1994年より適用されており、2000年には欧州連合加盟条件を満たすために修正が施されている。リトアニアは3段階の行政区画がある。まず、10の郡が設置されており、その下に60の基礎自治体が設置されている。さらにその下には500以上の区が設置されている。郡(、複数形: )の名称には、それぞれ中心都市の都市の名前が付けられている。郡は、中央政府が任命した郡知事()が統括する。郡知事は、地方自治体がリトアニアの憲法や法令に忠実であることを保証する。また、郡は自治体が国の法令、綱領、政策を履行しているかどうかを監督する。郡の機能は限られたものでしかなく、そのため、現在は10ある郡の数を減らし、文化的区分にもとづく4つの新たな州を設置する案や、10万人以上の都市を中心とした5つの州を設置する案も出ている。基礎自治体(、複数形: )はリトアニアの中でももっとも重要な行政区画である。中には歴史的に地区自治体()と呼ばれるものもあり、そうした自治体は単に地区()とも呼ばれる。他方都市自治体()と称する自治体もあり、単に市()とも呼ばれる。それぞれの自治体には選挙で選ばれた執行機関がある。過去には自治体の選挙は3年に1度行われていたが、現在では4年に一度行われている。以前は、自治体議会が市長を選出することとなっていたが、2015年統一地方選より各自治体の市長は直接選挙により選出されることとなった。国内全体で500以上設置されている区(、複数形: )は、リトアニアで最小の行政区画であり、国政レベルでは何の機能も果たすものではない。区は各家庭に対して必要な公共サービスを提供する。例えば、農村部では区が出生や死亡を登記する。社会福祉の面でももっとも重要な役割をはたすのが区で、貧困下にいる人や家庭を把握し、生活手当を分配、さらに他の福祉金も準備する。区は、農村部の問題に対する改善策を地元から提起できる立場にあるが、しかし区には実際の権限がなく注目をあつめることもほとんどない、と指摘されている。なお、行政区分とは別に、文化的な観点から5つの地方に分けられる。1990年3月11日の独立回復宣言以来、リトアニアは共和制国家として民主主義の伝統を維持してきた。1992年10月25日には独立回復後初めて議会選挙が行われたが、同日行われた国民投票では、投票者の56.75%がリトアニア共和国憲法の制定を支持している。憲法に関しては、とりわけ大統領の権限について激しく議論がなされ、1992年5月23日に行われた大統領制に関する国民投票では有権者の41%が大統領職の復活を支持していた。結果、半大統領制が導入されるに至った。大統領はリトアニアの国家元首とされ、5年任期で直接選挙によって選ばれ、最大で2期10年まで務めることができる。大統領選挙で過半数の票を獲得した候補が大統領に就任するが、いずれの候補も過半数の票を獲得しなかった場合は上位2名の候補による決選投票が行われる。大統領職は儀礼的なものにすぎないが、しかし外交や防衛方針の策定に加わり、それらを指揮する役割を果たす。大統領は、セイマス(議会)の承認を得て首相を任命し、首相が指名した他の閣僚も任命する。また他にも官僚や裁判官についても、大統領が任命する。2009年に行われた大統領選挙ではダリア・グリバウスカイテが過半数の票を獲得し、7月12日より大統領職を務めている。彼女はリトアニア史上初の女性大統領である。憲法第91条により、内閣は首相および各大臣によって組織される。現職は以下の通り(なお、以下の表における役職名は、現職が男性の場合は男性名詞 (ministras) 、女性の場合は女性名詞 (ministrė) を用いている)。セイマス (Seimas) と呼ばれる議会は一院制で、議席数は141で、4年任期で選挙により選ばれる。このうち71議席は小選挙区直接選挙により、70議席は全国区の比例代表制により選出される。議会に議員を送り込むには、政党は少なくとも全投票の5%を、連立政党は7%を獲得しなければならない。2012年に行われた選挙では、リトアニア社会民主党が38議席を獲得し第1党となり、労働党、秩序と正義、リトアニア・ポーランド人選挙活動とともに連立政権を組んだ。リトアニア憲法裁判所 () の裁判官は任期9年で、大統領が3名、セイマス議長が3名、最高裁判所長官が3名を指名する。2009年5月4日現在、リトアニアは154カ国と外交関係を樹立している。また、6大陸94カ国に在外大使館を設置しており、大使館を設置していない2カ国に領事館を設置している。リトアニアは1991年9月18日以来国際連合加盟国であり、また国連機関やその他国際機関にも加盟している。また欧州安全保障協力機構 (OSCE) や北大西洋条約機構 (NATO) 、欧州評議会、そして欧州連合 (EU) の加盟国でもある。EUの議会組織である欧州議会にはリトアニアから12名の議員が選出され、5年ごとに普通選挙で改選される。2001年5月31日からは世界貿易機関 (WTO) にも加盟しており、現在は経済協力開発機構 (OECD) などへの加盟を目指している。他方で、旧ソ連の連邦構成共和国でありながらも、独立国家共同体 (CIS) には加盟していない。リトアニアの軍隊は約15,000名の兵士によって結成されており、うち2,400名は非戦闘員である。またその他10万人の志願兵がいる。2008年9月までは徴兵制が採られていた。2004年以降、リトアニアは北大西洋条約機構 (NATO) に加盟している。また、アフガニスタンへの軍隊派遣も行っている。リトアニアの国防制度は、国家安全保障戦略に示されている概念「総合的で絶対的な防衛」にもとづいている。リトアニアにおける防衛政策は、リトアニア社会に通常防衛の準備をさせ、リトアニアが西欧の安全保障・防衛機構に統合していくことを目的とする。国防省は戦闘部隊、捜索救難、諜報機関を管轄する。リトアニアに設置されている軍種は以下の通り。また、5400人からなる国境警備隊は内務省の管轄下に置かれ、国境の保護、パスポートおよび関税の管理を担当する。また、海軍と共同で密輸や麻薬取引などを取り締まる。国連の分類によれば、リトアニアは平均所得の高い国に位置づけられており、鉄道、空港、4車線の高速道路などの近代的なインフラが整備されている。しかしそれでもリトアニアの所得水準は欧州連合 (EU) に2004年の拡大前から加盟していた国よりも低く、IMFのデータによれば、リトアニアの1人あたりのGDP(為替ベース)はEU加盟27か国平均の半分ほどの15,649ドルにとどまる(2013年)。こうした低所得が要因となり、2004年のEU加盟時には所得の高い国への移住が増加した。EU加盟直前の2003年、リトアニアの経済成長率はEU加盟国および加盟候補国の中で最も高く、第3四半期には8.8%に達した。その後2004年にEUに加盟し、2004年には7.4%、2005年7.8%、2006年7.8%、2007年8.9%、2008年第1四半期には7.0%のGDP成長率を記録した。公式データによれば、EU加盟は海外からの発注の増加や観光業への後押しといった経済成長をもたらしている。それまでの通貨であるリタスは2004年6月28日よりERM IIの対象通貨となっており、1ユーロ=3.45280リタスで固定されていた。2015年1月1日にユーロへ移行した。リトアニアの貿易は多くがEU圏内で行われており、2009年は輸出の64.2%、輸入の59.1%が対EU諸国であった。その他の国では、ロシアが最も高く(輸出13.2%、輸入29.9%)、次いでベラルーシ(輸出4.7%、輸入1.7%)、アメリカ合衆国(輸出2.9%、輸入1.1%)、ウクライナ(輸出3.0%、輸入0.9%)となっている。2001年には世界貿易機関 (WTO) の一員ともなった。国有企業、特にエネルギー部門におけるそれの大規模な民営化が開始されており、現在も進行中である。リトアニアの経済構造は知識集約型経済へと少しずつ着実に移行してきており、とりわけバイオテクノロジーやレーザー産業が特にさかんで、バルト三国におけるバイオテクノロジーの製造はリトアニアに集中している。またメカトロニクス(機械電子工学)や情報技術 (IT) 産業も今後のリトアニア経済が目指す方向として期待されている。失業率は近年上昇傾向にあり、2010年第2四半期の失業率は18.3%である。また、1日1ドル(貧困線)以下で暮らしている人の数は国民の2%にも満たない。エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによるクオリティ・オブ・ライフ・インデックス(生活の質指数)は、バルト三国の中で最も高い。リトアニアでは累進課税政策よりも一律課税政策が多く採られている。2007年には個人所得税は24%に減税され、さらに2009年1月には21%に減税された。このうち6%は健康保険に当てられている。また法人税は15%で、2010年1月1日からは中小企業向けに5%の法人税が導入されている。政府はハイテク産業や付加価値商品に対する投資への優遇政策を行っている。消費税は21%である。リトアニアは鉱物資源に全く恵まれていない。唯一採掘されているのは原油であるが、2002年時点の採掘量は43万トンにとどまる。近年は天然ガスの採掘も有望視されている。民族構成を見てみると、人口の83.1% がリトアニア人である。少数派としてポーランド人(6.0%)、ロシア人(4.8 %)、ベラルーシ人(1.1%)、ウクライナ人(0.6%)などがいる。在リトアニアのポーランド人に対しては、ポーランド語の教育が行われている。(ポーランドにとって、リトアニアは、ポーランド語の教育が学校でなされている唯一の外国である。)また、中世にヨーロッパ各地からユダヤ人を受け入れたために、リトアニアの都市部にはユダヤ人が多く、その中でも特にヴィリニュスはユダヤ人らから「北のエルサレム」と呼ばれるほど多くのユダヤ人が住んでいた。18世紀末の時点で約25万人のユダヤ人がかつてのリトアニア大公国の土地に住んでいた。しかし、第二次世界大戦中のナチス・ドイツと、その後のソ連支配の時代の弾圧によりユダヤ人人口は大きく減少した。ソ連からの独立時に、住民すべてにリトアニア国籍が与えられたために他のバルト諸国のラトビアやエストニアのような残留ロシア人の無国籍問題は発生していない。2009年の概算によると、年齢構成は以下の通りとなっている。平均年齢は39.3歳(男性36.8歳、女性41.9歳)である。国語であるリトアニア語はラトビア語と共に現存している2つのインド・ヨーロッパ語族バルト語派の1つであり、リトアニアの公用語にもなっている。2001年国勢調査によると母国語話者の内訳はリトアニア語82.0%、ロシア語8.0%、ポーランド語5.6%、ベラルーシ語0.5%、ウクライナ語0.2%、ロマ語0.1%、ラトビア語0.1%、となっている。母語以外の言語としては、人口の85.4%がロシア語を話すことができ、そのほか24.0%が英語、14.5%がリトアニア語、12.5%がポーランド語、11.6%がドイツ語を話すことができる。リトアニア語には、主に内陸側のアウクシュタイティヤ方言(高地リトアニア語)と海岸側のジェマイティヤ方言(低地リトアニア語)の2つの主要な方言 (tarmės) がある。標準語とジェマイティヤ方言の違いは顕著である。現在のジェマイティヤ方言は13世紀から16世紀にクロニア語の影響を受けながら形成されていった。これらリトアニア語の方言はリトアニアの民族誌上の地方と強く関連している。2つの方言は、さらにそれぞれ3つずつの下位方言 (patarmės) に分けられる。ジェマイティヤ方言には西部下位方言、北部下位方言および南部下位方言があり、アウクシュタイティヤ方言には西部下位方言、東部下位方言、および南部下位方言がある(東部と南部の下位方言はズーキヤ方言とも呼ばれる)。下位方言はさらに細かな話し言葉 (šnektos) に分けられる。リトアニア語の標準語は西部アウクシュタイティヤ方言をもとにつくられているが、語彙などは他の方言からの影響も顕著である。リトアニアの宗教は現在ローマ・カトリックが大勢を占め、他の宗教は少数となっている。しかし歴史的には多くの宗教が信奉されてきた。もともと現在のリトアニアにあたる地域はバルト人の土地であり、彼らは独自の多神教信仰を持っていた。しかしその後キリスト教が徐々にリトアニアに入ってくるようになった。農民層が中心のリトアニア人にカトリックが浸透するのは16世紀頃と言われている。中世のリトアニア大公国は現在のリトアニアのほかベラルーシやウクライナの大半を含む広い領土を支配しており、いわゆる原リトアニア地方を除いた、主に東スラヴ人の大公国貴族や一般住民が住んでいた広大な東部地域では正教を信じる者が多かった。彼らのうち貴族層は多くが後の時代を通じてポーランド文化を受容(ポーランド化)してカトリックに改宗したが、農民層の多くは正教を信じた。また大公国の公用語はリトアニア語でなく、現代のベラルーシ語やウクライナ語の基礎となった教会スラヴ語であり、のちにはポーランド語が公用語となった。また大公国ではそのほかイスラム教やユダヤ教の信仰なども広く認められてきた。その後ロシア帝国支配下ではカトリックの弾圧が行われ、またソ連に支配されると宗教そのものが否定されるに至った。リトアニアが独立を回復してからは信仰が再び認められるようになり、現在ではヨーロッパでも有数のカトリックの国として知られている。2001年に行われたリトアニア統計局による調査によれば、各宗派別の人口統計は以下のとおりとなっている。リトアニアでは、教育法で定められているとおり、6歳あるいは7歳から16歳までは義務教育で、無料で受けることができる。リトアニアにおいてはすべての者が教育を受ける権利を有し、初等教育は6歳あるいは7歳から始められ、中等教育は16歳まで義務となっている。リトアニアでは、464,638人の生徒が初等・中等教育(7〜16歳児が対象)を受けている(2008-09年)。これらの教育はリトアニア語で行われるものが多く、全体の92.4%(429,335名、2008-09年)の生徒がリトアニア語で学ぶ。その他の言語で学ぶ生徒の割合は、ロシア語が4.2%(19,676名、2008-09年)、ポーランド語が3.2%(15,064名)と続く。ほかにも、伝統的にベラルーシ語で教育を行う学校が1校あるほか、近年フランス語で行う学校も1校設立された。英語による学校も1校存在する。外国語教育で最も一般的なのは英語で、約407,700人が学んでいる(2008年-09年)。次いでロシア語(約186,500人)、ドイツ語(約59,900人)、フランス語(約12,800人)と続く。主な高等教育機関としては大学などが挙げられ、約144,300人の学生が国内に22ある大学に在籍している(2007年9月現在)。ヴィリニュス大学(VU、1579年設立)、カウナス工科大学(KTU、1922年)、カウナス医科大学(KMU、1922年)、ヴィータウタス・マグヌス大学(VDU、1922年)などがその代表例である。大学・短大では経営学を学ぶ者が最も多く、次いで教育学、工学、法学、保健学、社会学・行動科学、建築学、コンピュータと続く。近年経営学を学ぶ学生数が急増しており、2004年の学生数は2000年の約3倍となった。修士課程においても経営学を学ぶ学生が最も多く、次いで法学、教育学、工学、社会学・行動科学、保健学と続く。留学生が占める割合は非常に少なく、全体の約0.4%にすぎない。そのうち約6割はヨーロッパ諸国からの留学生で、とりわけベラルーシからの留学生が特に多い。アジアからの留学生は約3割となっている。かつてリトアニア人は農民層に多かったが、現在では多くが都市に進出しており、大半がアパートで暮らしている。国民の 59 % がアパートに住んでおり、次いで 32 % が一戸建て住宅、9 % が半一戸建て住宅に住む。シャコティスという伝統的なケーキが有名。また、トラカイに住むカライ派の人々は、肉のペストリーの一種でキビナイと呼ばれる伝統的な料理を作る。中世、リトアニアにおける文学の多くは当時の学術言語であったラテン語で書かれた。リトアニア王ミンダウガスによる勅令はその一例である。また、ゲディミナス大公の手紙もリトアニアにおけるラテン語で書かれた重要な著作物の例である。16世紀になるとリトアニア語による著作が登場する。1547年、マルティナス・マジュヴィーダス (Martynas Mažvydas) がリトアニア語で『平易な語による教理問答』 (Catechismusa Prasty Szadei) を編纂し発行した。これがリトアニア語による本の印刷の始まりである。その後ミカロユス・ダウクシャ (Mikalojus Daukša) が教理問答を引き継いでいる。16世紀から17世紀におけるリトアニア文学は主に宗教に関するものだったが、その後啓蒙時代になるとクリスティヨナス・ドネライティス (Kristijonas Donelaitis) が登場し、それまでの宗教中心のリトアニア文学を変えた。彼の著した「春の喜び」「夏の働き」「秋の幸」「冬の不安」の四篇からなる『一年』は国民的叙事詩であり、リトアニアの創作文学の礎を築くものであった。19世紀前半のリトアニア文学は古典主義、感情主義、ロマン主義の特徴が合わさったものであった。当時の代表的作家としては、アンタナス・ストラズダス (Antanas Strazdas) 、ディオニザス・ポシュカ (Dionizas Poška) 、シルヴェストラス・ヴァリウーナス (Silvestras Valiūnas) 、マイロニス (Maironis) 、シモナス・スタネヴィチュース (Simonas Stanevičius) 、シモナス・ダウカンタス (Simonas Daukantas) 、アンタナス・バラナウスカス (Antanas Baranauskas) などが挙げられる。ロシア帝政下にあったリトアニアではリトアニア語による印刷物の発行が禁じられており、そのため本を密輸する地下運動(クニーグネシェイ Knygnešiai)が行われるようになった。20世紀リトアニア文学の代表的作家としては、ユオザス・トゥマス=ヴァイジュガンタス (Juozas Tumas-Vaižgantas) 、アンタナス・ヴィエヌオリス (Antanas Vienuolis) 、ベルナルダス・ブラズジョニス (Bernardas Brazdžionis) 、ヴィータウタス・マチェルニス (Vytautas Mačernis) などが挙げられる。1933年に設立されたリトアニア美術館は、美術作品の保護・展示を行うリトアニア最大の施設である。その他、重要な施設としてはパランガ琥珀博物館があげられる。リトアニアで最も有名な画家としてはミカロユス・チュルリョーニス(1875年 - 1911年)があげられる。彼は作曲家としても知られている。カウナスの国立チュルリョーニス美術館には彼の作品が多く展示されている。リトアニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件存在する。リトアニアで最も盛んなスポーツはバスケットボールである。国内にはプロ・リーグおよび教育リーグがあり、またナショナル・チームはソウルオリンピックで男子代表が金メダルを獲得するなど数多くの世界大会で実績を残している。FIBAランキングでもリトアニアは2010年現在で男子世界5位となっており、17歳以下の部門では世界2位となっている。NBAプレーヤーも多く輩出しており、アルヴィーダス・サボニス、シャルーナス・マルチュリョニス、リナス・クレイザ、シャルーナス・ヤシケヴィチュス、ジードルーナス・イルガウスカスといったリトアニア代表選手がNBAやヨーロッパのリーグで活躍した。プロ・アイスホッケー選手も人気で、ディフェンスのダリュス・カスパライティスや右ウィングのダイニュス・ズブルスなどがNHLで活躍している。パワーリフティング選手のジードルーナス・サヴィツカスも有名である。サヴィツカスは世界でも有数の選手で、世界で最も強い男にノミネートされたこともあった。世界でもトップクラスの円盤投げ選手であるウィルギリユス・アレクナもよく知られている。アレクナはオリンピック記録を有しており、シドニー、アテネで金メダルを獲得しまた世界第2位の記録を保持している。プロテニスプレーヤーのリチャルダス・ベランキスも男子プロテニス協会 (ATP) ランキングで2010年11月15日現在世界119位につけており、これはリトアニア人としては最高位である。他にも自転車競技選手のイグナタス・コノヴァロヴァスや総合格闘技のマリウス・ザロムスキスも有名である。2009年におけるリトアニアの新生児の平均余命は男性66歳、女性78歳であり、これは欧州連合の中でも最も男女差が大きくまた男性の平均余命は最も低いものである。2008年における新生児の死亡率は1,000人あたり5.9人となっている。人口成長率は0.3%(2007年現在)。リトアニアの自殺率はソ連からの独立回復期から急激に上昇し、現在ではリトアニアは世界で最も自殺率の高い国の一つとなっている。しかし近年はその自殺率も低下傾向にあり、世界保健機関 (WHO) によると、リトアニアの10万人あたりの自殺者数は1995年の時点で45.6人であったが、2000年には44.1人、2005年には38.6人、そして2007年には30.4人と推移しており、現在ではベラルーシの自殺率がリトアニアを上回る結果となっている(ベラルーシの自殺率は2003年の時点で10万人あたり35.1人)。リトアニアはまた、欧州連合の中で殺人発生率が最も高い。
出典:wikipedia
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