神戸港(こうべこう)は、兵庫県神戸市にある港湾。港湾法上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、スーパー中枢港湾の指定を大阪港と共に受けている。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港。現在の日本三大旅客港の一つ。六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である。港則法・関税法上は、尼崎西宮芦屋港・大阪港・堺泉北港とあわせて阪神港と称される(港則法上は特定港に指定されている)。その歴史は大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まり、かつての都であった奈良や京都と、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えてきた。また、商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港としてコンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港として知られていた。日本の物流機能に対する役割を担うために、オーバーパナマックス船への対応をした国内初の大水深高規格コンテナバースの供用の開始や1960年代から行われたポートアイランド(当時、世界最大の人工島)、六甲アイランドの建設やメリケンパーク、神戸ハーバーランドといった観光や商業施設の開発、沖合いに神戸空港を開港するなど、日本のウォーターフロント開発の先駆けとなるものも多く、各地に与えた影響は小さくない。また、後背地たる神戸の市街地は明治時代に外国人居留地として整備された建造物が数多く残っているほか、エキゾチックな市街地の雰囲気や神戸の夜景スポットとして非常に有名なハーバーランドやメリケンパーク周辺は観光地としても人気が高い地域となっている。2009年(平成21年)の神戸港における港勢は次の通りである。コンテナ取扱量は2000年の時点で世界23位であるが、北米航路、欧州・地中海航路の寄港数は多く中枢国際港湾として機能している。なお、2014年の時点では、東京28位、横浜48位、名古屋51位、神戸56位、大阪60位、と日本の各港は軒並み順位を落としている奈良時代に五泊の一つとして大輪田泊が整備される。これが記録に残っている上での神戸港の始まりである。遣隋使・遣唐使の時代を経て平安時代末(12世紀)、平清盛によって「大輪田泊(おおわだのとまり)」(神戸市兵庫区)の修築が行われて人工島「経が島」が建設されて日宋貿易の拠点となる。その後、僧・重源による改修を経て鎌倉時代に国内で第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれた。室町時代に、兵庫津は日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得る。江戸時代には、鎖国政策のもとで兵庫津は西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄えて1万人前後の人口を誇る。また、灘五郷として酒造りが活発になった所でもある。1863年(文久3年)、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた「船たで場(ふなたでば)」を利用することを考え当時の将軍であった徳川家茂に建白した。翌1864年(元治元年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。開港100周年の1968年(昭和43年)には「海軍操練所」があった場所に「史蹟 旧海軍操練所跡」碑が建立された。1858年(安政5年)、日米修好通商条約(および日米修好通商条約を含む安政五カ国条約)により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが朝廷の反対によりロンドン覚書によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」として開港が実現した。兵庫(神戸)開港にいたる経緯については、両都両港開市開港延期問題、文久遣欧使節、兵庫開港要求事件、神戸外国人居留地#兵庫開港も参照。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなかったが、公文書には、開港直後の1868年(慶応4年、明治元年)には「神戸港」の名称がすでに現れている。やがて外国人の手によって居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展して「神戸」の名が著名になっていった。1872年(明治5年)、和田岬に和田岬灯台が設置されて1892年(明治25年)に勅令により、旧生田川(現フラワーロード)河口から和田岬までの全体が「神戸港」となる。政府の富国強兵策による近代化で工業が貿易と共に興り、しだいに大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。日清戦争(明治27-28年)後には香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となって商社「鈴木商店」などに代表される海運業が隆盛、ロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。第二次世界大戦での敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収される。1951年(昭和26年)、占領は解除となるが朝鮮戦争やベトナム戦争の影響から撤収は段階的なものとなり、最後までGHQに接収されていた新港第6突堤が返還されたのは1974年(昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に非核三原則に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。アジア最大のマザーポート(ハブ港)としての地位は戦後も揺るがず、日本の高度成長期の発展を支えた。1967年(昭和42年)に日本初のコンテナターミナルを備えた摩耶埠頭が竣工。1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)までコンテナ取扱個数は世界一を誇り、常に最先端の港湾設備を持つ世界有数の国際貿易港として栄えた。1995年(平成7年)には阪神・淡路大震災によって甚大な被害を受けるが、約2か月後の3月20日には摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開される。2年後の1997年(平成9年)3月31日には全面復旧し、5月19日に神戸港復興宣言が出される。しかし、近隣アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物は、アジア諸港のコンテナターミナルが急速に拡充され始めたことで、すでに1990年代初めから減少傾向に転じていて、これが震災によって韓国・釜山港などへのシフトが加速した。震災前まではコンテナ取扱量で世界第3位の地位を得ていた国際ハブ港であったが、釜山港にハブ機能を譲り渡した格好となった。大型化する船舶のための十分な水深を神戸港が実現できなかったことが直接的な最大の原因であるが、その本質は復興予算が不十分であり、震災後傷ついた港を国際ハブ港の条件を満たすようにドラスティックに復興させる工事を実現できなかったことが原因だと言われている。神戸港の全コンテナ取扱個数に占めるトランシップ貨物の比率は震災直前の1994年 (平成6年)で31.6%あったが、2007年 (平成19年)の時点では震災前の4%にまで落ち込んでいる。内航フィーダー貨物及びローカル貨物は震災前の貨物量もしくはそれ以上の貨物量に復活しているが、前述のトランシップ貨物量の減少により、平成19年の総貨物量は震災前の1994年(平成6年)実績の75%である。大阪港と連携しながらコンテナ物流面での国際競争力強化を図るスーパー中枢港湾の指定を受け、ポートアイランド2期コンテナターミナルの一部(PC14-18バース)を対象に行政支援策が注入されている。港湾施設面では順調に復興を遂げた神戸港ではあるが、震災の経験を記憶するために、港の一角には震災当時の状態を保存した神戸港震災メモリアルパークが設置されている。なお、1907年(明治40年) - 2003年(平成15年)には船舶との貨物提携輸送を行うために貨物駅の小野浜荷扱所 - 神戸港駅が港に設けられて運行されていた。外航客船にはもっぱら神戸ポートターミナルに着岸させていた。2006年(平成18年)1月11日から中突堤旅客ターミナルに税関・入管・検疫の出入国機能を設けて着岸できるようにしている。2007年と2009年には神戸ビエンナーレという現代美術を軸にする芸術文化の国際的な展覧会が神戸港を含む神戸の中心地などで開催された。震災からおよそ10年を経て、みごと復興を遂げた神戸が被災地というイメージを取り払い、さらなる飛躍をはかるとともに、芸術文化の街として活性化することを目的としている。2009年より新たな試みとして「神戸スウィング・オブ・ライツ」が8月3日から23日まで神戸市中央区、ハーバーランド・モザイク周辺で開催された。これはジャズのリズムに合わせ、色とりどりのサーチライトやレーザーが神戸港を照らす音と光のイベントで、香港で行われている光と音楽の祭典、「シンフォニー・オブ・ライツ」を参考にしたもので、主として新型インフルエンザから立ち直った神戸の姿を全国にアピールし、風評被害により減少した観光客数の回復の実現のためである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。