カタール国(カタールこく、)、通称カタールは、中東・西アジアの国家。首都はドーハ。アラビア半島東部のカタール半島のほぼ全域を領土とする半島の国。ペルシア湾(アラビア湾)に面する。南はサウジアラビアと接し、北西はペルシャ湾を挟んでバーレーンに面する。正式名称はアラビア語で (Dawlat Qaṭar ダウラトゥ・カタル) といい、通常は (Qaṭar カタル) と称する。 qatura (カトゥラ=「噴出する」)に由来する。英語での公式国名は "State of Qatar"、通称 "Qatar" ( カーター、 キャター)。日本語では「カタール国」「カタール」「カタル」と書かれる。漢字による表記は華太瑠。紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物が見つかっている。ペルシア湾での真珠採取の産地として古代から知られて来た。その後、近代までの歴史は不明である。1825年にカタール王家サーニー家(Āl-Thānī)の創始者サーニー・ビン・ムハンマドがビダウ( البدع al-Bida‘、現在のドーハ)を治めるカタールのに選ばれた。バーレーンの(Āl-Khalīfa)が1868年まで北カタールを治めていた。その年カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、オスマン帝国がカタールを占領した。第一次世界大戦後、オスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配のもと、3代目カタール首長(アミール)・をシェイクとした自治権を認めた。イギリスとカタール間の1916年の条約は、イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容だった。1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものだった。赤線協定に基づいて(AIOC)から(IPC)に石油利権が譲渡されると、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「Petroleum Development (Qatar) Ltd」(PDQ)に対して、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。4代目首長のもとで、1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。1960年に5代目首長が就任。1968年に発表されたイギリスのスエズ以東撤退宣言に伴い、イギリスの保護領 ("Trucial Oman":休戦オマーン。トルーシャル・コースト "Trucial Coast":休戦海岸とも。現UAE) は、1971年の独立を目指しアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) を結成した。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールやバーレーンもその一員としてFAEに含まれていたが、既にカタールとバーレーンは石油生産の好調で単独独立が可能な状態になっており、他首長国との利権問題もあってカタールとバーレーンは近隣国のサウジアラビアやアラブ首長国連邦の一部になることを断り、カタールは1971年9月3日に単独で独立した。同年9月11日にアラブ連盟に、21日に国際連合に加盟。1972年、父である首長の外遊中に、ハリーファが無血クーデターを起こして政権を奪取(6代目首長)。1988年にはソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。OPEC(石油輸出国機構)の初期からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国である。1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場を取った。1995年に首長であるハマドが、父であるハリーファの外遊中に無血クーデターを起こして政権を奪取(7代目首長)。ハマドは、政権を奪取して以降、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、観光産業の育成などに着手している。かつてはハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、「世界一退屈な都市」とまで言われた首都ドーハにも、さまざまな娯楽施設などが建設され、賑わいを見せている。また、衛星テレビ局アルジャジーラも、彼のポケットマネー(1億5000万USドル)で設立された。1996年から湾岸諸国の中で唯一イスラエルの通商代表部が置かれていたが、2009年に閉鎖された。2013年6月25日、ハマドが、四男のタミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーに譲位し、タミームが首長となる。カタールはサーニー家(, Āl-Thānī)による首長制(君主制の一種)である。現行憲法は2003年4月29日に承認されたもので、三権分立の立場を取り、民主主義や女性参政権の保障などを謳っている。しかし、実際はサーニー家に実権が集中している状況。議会としては45議席の「諮問評議会」が置かれており、閣僚への質問権や予算案承認のための投票権などを持つ。45議席のうち30議席は直接選挙、15議席は首長による任命制。行政権は首長および内閣が持つ。首相職あり(カタールの首相)。司法権は上級刑事裁判所、下級刑事裁判所、民事・商事裁判所、労働裁判所、高等裁判所の5裁判所が行使する。死刑制度が存在する。カタール固有の軍事力は、軍事予算はGNP比4.2%(1993)、総兵力1万1800人である。アメリカ中央軍が駐留し、首都ドーハ近郊に司令部の一つがある。アメリカ中央軍は中東を責任地域とするが、司令部のあるフロリダ州タンパが遠すぎるため、イラク戦争直前の2003年に第2の司令部として設置された。イラクやアフガニスタンに展開したアメリカ軍部隊はここから指揮される。人口は2014年の推定で2,155,446人。2013年の調査では、全人口180万人のうち、カタール国籍はわずか13%の278,000人にすぎず、87%にあたる150万人が外国人労働者である。そのうち、インド人が545,000人と最大の勢力となっている。次いで、フィリピン人、ネパール人、パキスタン人、スリランカ人、バングラデシュ人などが多く、南アジア諸国からの労働者がほとんどを占めている。カタール人は、主にアラビア半島の遊牧民のベドウィン、イラン・パキスタン・アフガニスタンを祖先に持つHadar、スーダンとソマリアを中心とした東アフリカからの奴隷の子孫のAbdの3つの祖先に分かれる。公用語はアラビア語である。日常会話は湾岸方言となる。インドやパキスタンなどの外国人労働者が大半を占めていることと、イギリスの植民地であったことから、英語も政界・財界などで広く理解されている。その他、ヒンディー語、ウルドゥー語、マラヤーラム語、タミール語、ネパール語やタガログ語なども話されている。2010年の調査では外国籍を含めた全人口に占める割合をみると67.7%がイスラム教、13.8%がキリスト教、13.8%がヒンズー教、3.1%が仏教を信仰している。しかし、カタール国籍保持者の95%はイスラム教であり、大半がスンナ派のワッハーブ派である他、シーア派が人口の5〜15%を占めておりイスラム教を国教としている。カタール半島は、サウジアラビア側から160km突き出ている。国内の大部分は不毛な砂漠であり、最も高い地点で海抜103メートルである。この砂漠の地下にが存在、一方世界最大級のノースガス田はカタール半島北東からイラン方向の海底に広がる。カタール半島の付け根付近にある(Kawhr al Udayd)は、静かな内海であることから別名を「インランド・シー」()とも呼ぶ。2015年のGDPは約1920億ドルであり、埼玉県よりやや大きい経済規模である。同年の一人当たりGDPは7万8829ドルである。1940年代の石油発見以前の産業は漁業と真珠取りだけであった。1920年代から日本の養殖真珠が世界に出回るとカタールの天然真珠は衰退した。石油と天然ガスに依存する経済体制で、輸出の大半が石油・天然ガス及びその関連製品で占められている。インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者がカタール国籍を持つ総人口より多く、外国人労働者に労働力を大きく依存している。豊富なオイルマネーにより国民は所得税がかからない。さらに、医療費、電気代、電話代が無料、大学を卒業すると一定の土地を無償で借りることができ、10年後には自分のものとなる。2004年、ドーハに科学技術パークを開き、世界中から技術関連企業を呼んだ。現在、油価は低下したものの炭化水素はカタールの背骨であり続けるが、政府は知識集約型の民間投資も促進しようとしている。カタール金融センター (GFC) は湾岸諸国を巻き込んだ投資に今後10年間で1兆ドルを供給することを発表している。カタールの年降水量は40mm前後であるため、降雨に頼った農業は不可能である。しかしながら、灌漑などを利用した農業が営まれており、農地面積は国土の0.7%(80平方キロメートル、1994年)に達する。牧場は同4.5%(500平方キロメートル)である。農業従事者の人口に占める割合は0.5%。主要穀物では大麦(5000トン、2002年)、トウモロコシ(1000トン)を栽培する。野菜ではトマト(1.1万トン)、次いでキャベツ(2000トン)の生産が盛ん。畜産業では、ニワトリ(400万羽)とヒツジ(20万頭)が最大。次いでヤギ(18万頭)、ラクダ(5万頭)など。漁業は盛んではないが、約7000トンの水揚高が記録されている。原油の埋蔵量は150億バレル、天然ガスは800兆立方フィート。産出量は2001年時点で原油3142万トン、天然ガスは世界シェアの1.2%を占め、1225千兆ジュールに達する。日本の天然ガス輸入先としてはマレーシア、インドネシア、オーストラリアに次いでカタールが第4位にあたる。輸出に占める鉱業の割合は非常に高く、2002年時点で天然ガス42.6%、原油35.0%に達する。2008年までの油価高騰により石油ガスがGDPの50%、輸出の85%、政府収入の70%を占めるようになった。カタールの天然ガス輸出先は第1位が日本で全体の約21%、第2位が韓国で約18%、第3位がインドで約15%となっている(JOGMEC調べ)。工業は発達しておらず、食肉加工、窒素肥料の製造、セメント製造などが小規模に営まれている段階である。最も規模が大きいのが石油化学工業、次に製鉄である。輸出に占める工業製品の割合は2002年の段階で石油製品6.7%、プラスチック3.1%、鉄鋼2.8%である。しばしば「中東のCNN」と形容されるアルジャジーラの本社がドーハに置かれている。開局時はアラビア語のニュースTVでスタートしたが、現在いくつものチャンネルを有する。アラビア語と英語の新聞がいくつかあり、英字ビジネス月刊誌はQatar Todayが唯一で、他にアラビア語のビジネス誌、女性誌、ファッション誌が同じ出版社から出ている。ドバイにもあるパーム・ツリー・アイランドがドーハ湾に作られ、リゾート地になっている。また、南部のホール・アル・ウデイドのラグーンや砂丘ツアーがある。第15回アジア競技大会が、首都ドーハで開催した。期間は、2006年12月1日から15日まで。アラブ圏では初のアジア大会で、エジプト以東の中東地域を含むアジア地域の45の国と地域が参加する。潤沢な石油・天然ガス収入で医療、教育が無償、社会保障制度も完備。独立記念日は2006年までは9月3日であったが、2007年より変更された。サッカーのカタールリーグはオイルマネーで多くの有名選手を獲得し、話題になっている。最近ではガブリエル・バティストゥータ、イエロ、エメルソンがカタールのクラブに移籍している。また1988年と2011年には、サッカーのAFCアジアカップが同国で開催され、さらに2022年にはFIFAワールドカップが開催されることが決まっている。また、バスケットボールも近年力をつけており、2006年には世界選手権に初出場した。2004年にはドーハの北アッ=ザアーインにロサイル・インターナショナル・サーキットが完成し、毎年MotoGPが開催されている。2002年から開催されている自転車ロードレースツアー・オブ・カタールは、ツール・ド・フランスを主催するアモリ・スポル・オルガニザシオン(通称ASO)が同様に主催しており、毎年多くのトップ選手がシーズン序盤の調整を兼ねて出場するハイレベルなステージレースとなっている。純血アラブとサラブレッドによる競馬が行われている。2012年から始まった「カタール見習い騎手招待レース」には日本人騎手も招待されている(第1回国分優作、第2回嶋田純次)。
出典:wikipedia
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