浦和市(うらわし)は、関東地方の南部、埼玉県南部に存在した市。県内最大の人口を有し、県庁所在地として県行政の中枢を担っていた。東京都特別区部への通勤率は35.9%(平成12年国勢調査)。市制施行前は北足立郡に所属。2001年に大宮市、与野市と合併してさいたま市となり、廃止。2003年には、さいたま市の政令指定都市移行・区制施行に伴い、概ね旧市域にあたる部分が浦和区、南区、桜区、緑区の4区に分けられ、さいたま新都心にあたる部分は中央区となった。現在でも旧浦和市域を総称して浦和地区という。埼玉県の県庁所在地であり、廃止直前の平成12年時点で70.67平方キロメートルの面積に県内最大となる人口48万人を有していた。古くは調神社や玉蔵院の門前町として栄え、奈良時代には律令制の政庁がおかれた。江戸時代になると中山道の宿場町である浦和宿として発達していった都市である。また東部の大門地区はかつての日光御成街道の宿場でもあった。1869年(明治2年)1月28日、武蔵国内にある旧幕府領・旗本領の管轄のため武蔵知県事・宮原忠治の管轄区域をもって大宮県が設置されたが県内に実質的な県庁は置かれず、同年9月29日になって県域内で最も人口があった浦和宿に県庁が置かれ浦和県を称した。後に忍県、岩槻県などとの合併による埼玉県(当時)成立、さらに入間県合併により現在の埼玉県が発足した後も一貫して県庁が置かれ、最終的に1890年に勅令によって正式な県庁所在地に指定される。なお1883年には県内初となる鉄道である日本鉄道の上野駅〜熊谷駅間が開業し、この時に県内最古の駅の一つ、また現在のさいたま市内で最古の駅である浦和駅が開業している。入間県を編入して川越が最も人口のある都市となったが、浦和も県都として各種行政施設のほか埼玉県師範学校(明治6年に学制改正局として発足し翌年改称)、医学校(明治9年)、県立浦和第一尋常中学校、県立浦和高等女学校、官立浦和高等学校などが次々と開設され、全国から優秀な学生が集まるようになった。県立浦和高等学校は当時の東京帝国大学(現東京大学)への合格者が全国で二番目だったことから帝大への登竜門と称された。さらに1923年の関東大震災を契機に、震災の被害が少なくかつ東京から20km圏内と交通の便の良い浦和には東京や横浜方面からの移住者が増加し、1932年の東北本線電車(現在の京浜東北線)延伸開業とも相まって都市化が進んだ。「鎌倉文士に浦和画家」とも称されたように浦和は充実した官立の教育施設群とともに文化人の活躍の地としても有名になり「文教都市」としての名声を高めていく。このような中1934年には川越市、熊谷市、川口市に次ぐ県内4番目となる市制施行を果たした。なお先述の埼玉県師範学校は埼玉県におけるサッカー発祥の地となり、卒業生が県内の学校に赴任してサッカーを普及させた。第二次世界大戦後、高校年代の各チームが全国大会でタイトルを獲得したことで静岡県、広島県と共に「サッカー御三家」と称された。1992年からはプロサッカークラブ・浦和レッドダイヤモンズの本拠地となっている。戦後の浦和市は高度成長期の東京都市圏の拡大の中で大幅に人口が拡大し、周辺町村を合併しながら発展の一途を辿る。1961年の南浦和駅開業、1973年の武蔵野線開業や1985年の埼京線開業を経て都内および県内他都市と結ぶ鉄道交通も発達し、市内では急激な人口増加に小中学校の開設が追い付かず児童の飽和状態が問題となった。市東部の特に現在の緑区西部では殆どで区画整理事業により造成され、宅地となった。さらにさいたま市発足後にはみそのウイングシティの造成も始まった。1995年以降は川口市を抜いて埼玉県内最大の人口を擁している。旧浦和市は埼玉県の県政、文化の中心都市であり、高級住宅地として知られていることから県内最大の市民所得(総市民所得、1人あたり市民所得ともに)を有するとともに、商業においても県内最大の売上となっている伊勢丹浦和店があり、さいたま市発足前の時点で旧大宮市に次ぐ県内第2位の商品販売額を誇っている。さいたま市発足以降はさいたま市役所が旧浦和市役所を利用して設けられ、旧市内でも浦和駅周辺地区はさいたま市の都市計画における都心地区の一つとして再開発が進められている。2007年には浦和パルコや市立中央図書館を含む再開発ビルが浦和駅東口に完成した。住宅地としての人気は関東大震災以後急速に高まる。それに先立つ大正5年初頭の國民新聞の紙上において東京近郊の理想的な住宅地・別荘地を投票により選定する企画が行われた、浦和町は郊外住宅地部門では9等、別荘地部門では8等に入賞し、良好な郊外住宅地としてすでに認知されていた。具体的な理由も掲載され、東京への近さ、教育環境の充実、下水道整備率の高さなどが挙げられていた。また、鹿島臺(鹿島台・現在の別所沼周辺)の風光明媚さや災害の不安が無いことも記され、当時はまだ畑も多く宅地開発の余地があった鹿島台が住宅地として注目されていたことが分かる。震災直前には鹿島台に官吏や教員向けの町営住宅を建設しており、また大正11年9月には浦和耕地整理事業が着工し、町としても浦和の住宅地・別荘地の期待や住宅不足に対応するため実際に宅地としての開発が本格化していた。そんな矢先の1923年(大正12年)関東大震災が発生し、浦和は東京や横浜から移住する人で一気に3000人以上の人口増加が起こった。当時の人口は1万2000人程度だったので、25%の増加率であった。とくに前述の鹿島台エリアである別所沼周辺には、富裕層や官僚以外にも画家の移住や画家のアトリエが目立ったため、同じような理由で移住が増えた鎌倉の鎌倉文士という言葉と対になる浦和画家という言葉が生まれた。昭和初期には40人以上の画家が集住し、「さながら絵描き村である」と報道された。その後も現在に至るまで都心から近い閑静な好立地も一因として住宅地の人気を保ち続けている。浦和区の世帯所得は年収1000万円以上が20パーセントを超えるなど、高級住宅地が多い世田谷区や渋谷区よりも比率が高く、首都圏でも最高水準を記録している。これは購買力の高い官僚、医師、社長などが多く居住することも大きな理由となっている。公立高校では全国最多の東京大学合格者を出す年度もあった埼玉県立浦和高等学校が所在するなど、大卒者の多さも所得に影響している。高級住宅地として称される地域としては岸町、常盤、高砂、仲町、などとその周辺があげられる。住民基本台帳人口による合併後の旧浦和市域の人口変動。すべて4月1日現在。(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)。「さいたま市」の項を参照。これらの関係はすべてさいたま市に引き継がれている。浜松や三島などと列んで、ウナギの蒲焼が名物となっている。又、創業100年を超える蒲焼の老鋪も多い。合併後の2008年にはやなせたかしによるキャラクター浦和うなこちゃんが誕生した。また浦和うなぎまつりがさいたま市役所で行われている。さいたま市#スポーツを参照。サッカーではJ1リーグ浦和レッドダイヤモンズが本拠地を置く。浦和市時代にホームスタジアムである埼玉スタジアム2002の建設が始まり、さいたま市成立後に完成した。それ以前にホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムは浦和レッズ・レディースのホームスタジアムとなっている。プロ野球では千葉ロッテマリーンズ二軍がロッテ浦和球場に本拠地を置き、社会人野球では強豪の日本通運硬式野球部が駒場に本拠地を置く。また、全浦和野球団はさいたま市営浦和球場を本拠地としている。また、高校サッカーでは浦和高校・浦和西高校・浦和市立高校・浦和南高校が全国制覇を果たし、高校野球では浦和学院高等学校が、さいたま市成立後の2013年に全国制覇を果たしている。浦和市が舞台、若しくは浦和市がモデルとして登場する作品は、以下の通りである。
出典:wikipedia
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