耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート)の迭刺(てつら)部出身で、耶律撒剌的と宣簡皇后蕭氏との間の長子として872年に生まれた。耶律氏は発音によっては移刺(イラ)とも呼ばれる。また天皇帝、天皇王の称号も持っていた。伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。初めは遥輦氏の痕徳菫可汗に仕えていたが、906年に痕徳菫可汗が没すると、907年2月27日に可汗に即位(第1次即位)、室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の蕭轄剌、南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて皇帝となる。911年から諸弟の反乱が続発するが、剌葛、迭剌、寅底石、安端などを征伐してその与党を処刑した。916年3月17日の第2次即位において国号をキタイ=契丹とし、元号を神冊と定め、キタイ人の王朝を建国した。太祖は北宰相に蕭実魯、北院夷離薫に斜涅赤、南府宰相に耶律蘇、南院夷離薫に耶律迭里を任じ、国家運営を進めていく事になる。西の突厥・吐渾・小蕃・陽卜・タングート・ウイグル・沙陀諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長子突欲(劉倍)を封じて東丹国を作った。渤海との戦役からの帰路の途中で病没した。遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制、遊牧所領内にも多くの都市を建設するなど、遊牧国家に農耕国家の機構を取り入れ、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。また、920年には大小2種の契丹文字を制定した。
出典:wikipedia
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